伊王島の知られざる歴史
2つの島が織りなす文化
今も面影残す記録・遺跡

散策を前に、二つの島の歴史に少しだけ触れておこう。伊王島は、古くは「祝島(いはふじま)」や「硫黄島(いわうじま)」と呼ばれていたそうだ。島の口伝によると、西暦391年頃、県内でも各地に伝説を残す神功皇后が、新羅(しらぎ/朝鮮)征伐のおりに軍船をととのえるためにこの島の船津に寄港。この島を「美しい島」と風光を賞し、祝詞をたまわったという故事にちなみ「祝島」となったのだそうだ。また、延暦23年(803)頃、空海上人の時代には、遣唐使の船が小中瀬戸(伊王島と沖之島の間)を通ったといわれている。今も島に語り継がれる俊寛僧都(しゅんかんそうず)が伊王島に流されてきたのは、治承元年(1177)のこと。文化の末(1817)頃に発刊された『長崎名勝図絵』にも俊寛僧都の史跡について記録されている。寛永14年(1637)に起こった島原の乱後、佐賀鍋島藩によってこの島にも警備が配され、その遺跡は各所に今も残されている。そして長崎の儒者 西川如見の『長崎夜話草』(1719)には以下のように、伊王島の風物が記されている。

「い王嶋は祝ふ嶋。いつの世に誰人の何を祝はれてさゝ汲みかはしけん。長崎の津より西南五里の海路にい王う島とて東西に長くわたりて島嶼(とうよ)あり民家も多く漁者農夫集まれり。…此島に古はへは泉湯ありしといへば硫黄もありしならん。しからばいわうと祝ふといつれか本の名なる事をしらず」

江戸時代、すでにこの島で暮らす人々の営みの様子がうかがえる。この時代より遥か昔に“泉湯”があったのだ!

ちなみに現在の名、伊王島の「伊王」は、「祝ふ」や「硫黄」の当て字ではなく、昔の中国に海神、あるいは漁夫の神様の名なのだという。また、「イヲウシマ」と書かれてある古地図がある。古くは魚のことを「いを」と言っていたことから、かねてからの豊富な漁場に浮かぶこの島のことを「いをしま」と呼んでいたのではないか、という説もあるのだそうだ。また、大航海時代、長崎を訪れたポルトガル人の記録によると、伊王島は「カバロス」と呼ばれていたそうだ。カバロス=暴れ馬。荒れる波間から見た島姿が、暴れる馬のように見えたのだろうか。カバロスが複数形「暴れ馬の島々」であることから、当時から伊王島、沖之島の両島を指し呼んでいたことがうかがえる。

そして−−明治の初めには灯台、寺院、教会堂、学校が建ち、大正になって漁業が発展。昭和になると炭鉱が開発され、昭和46年(1972)まで炭鉱の島としてその役割を果たした。そして現在は、やはり、“リゾートアイランド!伊王島”。温暖な気候と豊かな自然環境に心やすらぐスポットとして親しまれている。

お立ち寄りスポット
【唐船江(沖之島・伊王島)】
沖之島と伊王島の間の小中瀬戸に残される地名。かつて遣唐使の船か、唐船が停泊していたのだろう。「賑橋」の南側にあたり今は埋め立てられているが、夕涼みに最適のスポット。

お立ち寄りスポット
【唐船岳(伊王島)】
伊王島の最高峰、標高108mの山。おそらくは、かつてこの高台から行き交う唐船の無事を見守ったのだろう。大明寺周辺の東側から椿林の中を登ると近道。
 


伊王島の知られざる歴史
2つの島が織りなす文化
島民の祖はどんな人達?


そもそも伊王島には、いつ頃から人が住むようになったのだろう。言葉のなまりや風習、気質の違いなどに現れているのだが、伊王島と沖之島、二つの島の区域ははじめから沖之島(通称馬込)、伊王(通称船津)、大明寺三つの部落に分かれていたそうだ。なかでも、いち早く人が住み着き定住地となったのが船津。俊寛僧都と一緒に京都から流刑された人物に、藤原成経(なりつね)と平康頼(やすより)がいるが、成経が思いを寄せたのは、地元海女の「泊瀬御前」。彼女が沖之島の住民としてはじめて記録に残っている人物なのだという。当時からこの島は魚貝豊富な漁場が広がる豊かな島だった。ちなみに成経と康頼は和歌山の熊野宮になぞられ沖之島の岩殿恵比寿に参詣していたといわれ、その遺跡は今も残っている。

その後、文治元年(1185)壇の浦戦いで平家が滅亡し、その落人が島に隠れ住んだ。場所は円通寺谷。その子孫が伊王島のあちらこちらに広がり、島民の祖となったと伝わる。「字瀬戸屋敷」にまつられている墓に眠る「平 五左衛門(へい ござえもん)」がその祖先だとか。

さらに貞応元年(1222)、長崎にはちょうど長崎小太郎が入り(長崎開港(1570)時に領主であった長崎甚左衛門の祖先)、深堀では1255年、三浦氏が地頭となった。以後100年余りは、この辺りを倭冦が荒し回っていた時期で、伊王島の元村にある泉、「琵琶川」は倭冦の飲料水の補給井戸だったといわれている。そしてこの泉は、それ以降も数えきれないほどの島の住民の喉を潤した。

また、室町時代(1419)、足利氏が衰退して税の取り立てが厳しくなった頃、筑前(福岡県)新宮の遭難漁夫七人が伊王島の船津に辿り着く。そこでの永住を決意した彼らも、島人の祖になったといわれている。
 
お立ち寄りスポット
【琵琶川(伊王島)】
この島に人が住みついた最初の場所といわれている場所。伊王島船津元村瀬戸内の東の浜にあたる。

お立ち寄りスポット
【円通寺(伊王島)】
元文4年(1739)、円通庵として創建。後に俊寛僧都を弔うために創建された長福寺が無住となり吸収され、明治13年(1880)円通寺に昇格。俊寛僧都ゆかりの版画やお像が宝蔵されている。

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