西洋医学発祥の地・長崎で医学が発展していった背景には、古くから培ってきた海外交流の歴史と共に、その折々に情熱と使命感を持って医療の現場に向き合ってきたキーパーソン達がいた! 当時長崎発の西洋医学は、ひいては日本の医学だった。そこで、

 

ズバリ!今回のテーマは
「開港以前から平成の世まで、医学界をリードするあの人、この人!」なのだ。




かつて西洋の風が吹いた長崎から
バトンのように今に繋がる医学

現代においても決して色あせない、とある人物のコトバが長崎大学医学部内の「基礎研究棟」内、銘板に刻まれている。

医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。
ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、
病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。”

コトバの主は、オランダ海軍医、ポンペ(ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト)。彼が長崎滞在時に残したものだ。

オランダ海軍医ポンペが、松本良順とその弟子達12名に西洋医学の講義を開始したその日「安政4年(1857)11月12日」を創立の日とする現在の長崎大学医学部。昨年、創立150周年を迎えたことを機に竣工した『良順会館』が今年2月1日に開館した。館内には日本の近代西洋医学発祥の歴史と、医学部150年の歩みを紹介する展示室「150周年ミュージアム」も設けられ、一般公開されている。


ポンペ
150周年ミュージアム展示より


松本良順
150周年ミュージアム展示より

『良順会館』というネーミングは、もちろん!ポンペとともに長崎大学医学部の創始者である松本良順にちなんだもの。くしくも150周年を迎えた2007年は、松本良順没後100年の年でもあった。
しかし、それより遥か昔。今から時をさかのぼることおよそ450年前から、すでに長崎には西洋医学の風が吹いていたのだった。


■150周年ミュージアム
(長崎大学医学部『良順会館』1F)
開館 9:00〜17:00
休館 土、日曜、祝日
入場料 無料
問い合わせ 095-819-7003


良順会館



150周年ミュージアム


1567年(永禄10) アルメイダ (アルメイダ来崎。西洋医療が伝わる)

西洋医学発祥の地といわれる長崎。それも数々の海外交流の歴史の賜物だろう。長崎開港に先立ち、長崎にはじめて西洋の医療を伝えたのは、この地にキリスト教を布教したことで知られるポルトガル人伝道師、ルイス・デ・アルメイダ(1525?-1583)。彼は本来医師であり、1557年に大分市に日本初の病院を建て、九州全域において医療活動を行うなど、事実上彼が西洋医学を日本に初めて取り入れた人物だった。彼が長崎開港以前、入港していた福田で、大村純忠の長女の治療をしたという記録も残されているという。アルメイダゆかりの地として真っ先に上げられるのは、長崎初のトードス・オス・サントス教会跡である春徳寺。参道に彼の功績を讃える記念碑があるが、そこには1567年と刻まれている。この地で、キリスト教と同時に医療も広められたのだ。


アルメイダ布教記念碑
春徳寺通り突き当たり正面の石垣には、
彼の功績をたたえた大理石の
ルイス・デ・アルメイダ布教記念碑が
埋め込まれている。

また、彼の遺志が受け継がれたのが、ミゼリコルディアという慈善、福祉施設。大分にて発足されたこの組織、現在の長崎地方法務局の場所に本部が置かれ、1607年、現在の長崎銀行本店(栄町)の場所にミゼリコルディアが運営する病院とサン・チャゴ教会が建てられた。

それにしても西洋医学と聞いて、すぐさま思いつくのは、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトなど、出島に渡航してきたオランダ商館医達の名前だろう。


サン・チャゴ教会跡

1690年(元禄3) ケンペル (出島3学者の一人、ケンペル来崎)

寛永18年(1641)に出島に移設されたオランダ商館には、歴代多くの商館医が従事した。なかでも出島3学者と呼ばれるのが前述の3人。最初に来崎したケンペル(1651-1716)はドイツ人で(ドイツ語ではケンプファー)、医師であり博物学者でもあった。出島には2年間滞在し、来崎して早々に出島に薬草園をつくった。世界に初めて日本を詳しく紹介した著書『日本誌』で、ヨーロッパ中の注目を集めたケンペルは、後に訪れるツュンベリーやシーボルトに多大な影響を与えたように、日本の植物について調査した偉大な人物だった。しかし、2人に比べて業績がいまいち目立たないのは、生物の世界共通の学名を体系化するなど、ツュンベリーの師であるリンネによる「植物命名法」が確立される以前だったためだ。ケンペルは西洋医学を持ち込むと同時に、日本の灸をヨーロッパに輸出した人物でもある。



ケンペル・ツュンベリー記念碑
日本文化を海外に紹介した2人の
功績をたたえ、後任の商館医であった
シーボルトが出島の薬草園内に建立。
自筆のサイン入り。

ちなみに江戸時代以前から、外科的治療法はヨーロッパから伝えられてはいたが、当時の多くの治療が薬物によるものであり、使われていた薬物は、ほとんどすべて天然の薬草やその抽出物、そして動物や鉱物だった。
江戸時代、蘭学者は漢方医学を知っていなければ蘭学塾に入門できなかったのだが、日本は鎖国中であったために、ヨーロッパの書籍にある薬草は日本にもあるのか、どのように使うのかということは当時の日本の本草学者にとって重要なことだった。彼らは出島の商館医などからその情報を得ていたという。実際、シーボルトが来日した頃の日本の本草学は、当時のヨーロッパの植物学を十分理解できるまでに発展していて、シーボルトを驚かせたという。



西山御薬園跡
外国産の種苗を入手し、各地の
御薬園へ流通する窓口を果たして
いたのは長崎の御薬園だった。

1706年(宝永3) 楢林鎮山 (楢林鎮山がパレの外科書『紅夷外科宗伝』を蘭訳)

9歳から出島のオランダ人から蘭学を学び、19歳でオランダ小通詞、39歳で大通詞となった、輝かしい経歴を持つ人物が、楢林鎮山(1648-1711)。元々外科医に興味があり、出島蘭館医ボッシュやホフマンに医術を学んでいた彼は、後に通詞役を嫡子に譲り、「楢林流紅毛外科」を創始し家業とした。宝永3年(1706)は、鎮山がフランス王室公式外科医パレの外科書『紅夷外科宗伝』を蘭訳した年。この『紅夷外科宗伝』は“楢林流外科”の教科書として用いられた。鎮山は蘭学の翻訳だけではなく、実験でその理論を説くなど、オランダ人から直に西洋医学を学び、多くの日本人医師に西洋の外科医学を教え広めた人なのだ。長崎県庁裏門横、ここに彼の邸宅があった。



楢林鎮山宅跡
そして、同様のエリートがここにも一人。

1774年(安永3) 吉雄耕牛 (『解体新書』の序文を吉雄耕牛が書く)

代々オランダ通詞を勤めた家系に誕生した吉雄耕牛(1724-1800)も、やはり幼い頃からオランダ語を学び、14歳で稽古通詞、19歳で小通詞、そしてなんと!25歳の若さで大通詞となった超エリート。彼も楢林鎮山と同じく、通詞の仕事をするかたわら、ツュンベリーなどの商館医やオランダ語訳の外科書から外科医術を学んだ。そのほかオランダ語、医術の他に天文学、地理学、本草学などにも通じ、家塾「成秀館」では多くの蘭学を志す者に教授。彼が創始した「吉雄流紅毛外科」は、「楢林流紅毛外科」と双璧をなす西洋医学として広まった。青木昆陽、大槻玄沢、平賀源内、司馬江漢、前野良沢、杉田玄白。彼ら一流の蘭学者は、耕牛から多くの知識を学んだといわれている。日本史を学んだ誰もが知っている杉田玄白著『解体新書』の序文を書いたのは、何を隠そう吉雄耕牛、その人なのだ。



吉雄耕牛宅跡
このように、長崎のオランダ通詞達は、西洋の情報を幕府に伝える“単なる通訳”ではなく、医師や教育者としてとても重要な役割を担い、医学に限らず、大いに活躍、貢献していた。

1775年(安永4) ツュンベリー (薬用植物選別の功労者!ツュンベリー来崎)

スウェーデン人の植物学者であり医学者のツュンベリー(1743-1828)は、植物分類学の祖・リンネに師事。植物採集の目的でアフリカ、アジアへと旅立ち、その一環として商館医として出島入りした。来日2年前に『解体新書』が発表され、この頃の江戸は空前の蘭学ブーム。ツュンベリーは、江戸の蘭学者桂川甫周や中川淳庵などと親しく交際し、日本の植物に関する標本や知識と引き替えに様々な西洋の知識を与えたという。ツュンベリーが日本に伝え大きな影響を与えたものの一つに、水銀剤(塩化第二水銀)による梅毒治療がある。これによって日本の梅毒治療は大きく前進した。また、わずか1年しか日本に滞在しなかったにもかかわらず(江戸参府も1度)長崎の植物300種、箱根の植物62種、江戸の植物43種など合計812種の植物標本を採取し、帰国後には『日本植物誌』を発表。それには21種の新種が収載されている。トリカブト、カワラヨモギ、オケラ、スイカズラ、ゲンノショウコなど、日本の薬用植物の分類は、彼の功績によるものが多いのだという。


ツュンベリー記念碑


並んで建つ記念碑
県立図書館入口、施福多(しーぼると)君記念碑横に、
ツュンベリー渡来200年を記念した自然石の碑が建てられている。

ツュンベリーの日本での植物採集は、着任当初は出島からの外出許可が出ず、困難を極めたという。そこで、日本に自生している植物のうち幾つかが薬用に利用できる知識を与え、そのうちに薬に利用できる植物を探す目的で、長崎近郊の植物採集を行うことを、長崎奉行所に願い出た。しかし、長崎奉行は最初前例がないとして却下。やがて遠い過去にオランダ商館医が薬草を採るために外出した事例を見つけてやっと許可が下りたという。ツュンベリーの約50年後に来日したシーボルトの植物採集がスムーズできたのも、ツュンベリーが苦労して見つけだした「薬草採取」という名目のおかげだったのだ。

1823年(文政6) シーボルト (日本最初の近代的医師!シーボルト来崎)

いわずと知れたドイツの医師であり博物学者のシーボルト(1796-1866)は、時代が違うということもあってか、植物採種どころ出島から離れた長崎郊外、閑静な鳴滝の地に医学教育の場である『鳴滝塾』を開いた。これには商館長の働きかけがあり、きちんと長崎奉行の許可を得ている。
全国各地から集まって来た西洋医学(蘭学)を学びたいという大勢の門弟の中には、高野長英、二宮敬作、美馬順三、高良斎といった、後にヨーロッパの知識と学問を世に広め、日本の開国と近代化へ向け大きな働きをした面々も含まれている。鳴滝塾は病人の治療や医学教育だけにとどまらず、蘭学全般について学べる若者達の拠点だったのだ。ちなみに西洋医学の最新情報を提供し、内科、外科、産科の博士号を取得していたシーボルト本人の医師としての腕前は?というと、臨床経験はわずか2年程。それでも鳴滝塾で150名以上の俊才に見せた乳癌などの手術、産科鉗子を用いた分娩、ベラドンナで瞳孔を開大して行った眼科手術などは、当時の日本人を圧倒するものであったという。


施福多(しーぼると)君記念碑
大隈重信が中心となり、ヴュルツブルク
のシーボルト胸像建設のために 集めた
寄付金の余剰金で建てられた記念碑。

しかし、当時手術ができない不治の病もあった。天然痘は世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症で、日本でも猛威をふるっていた。

1848年(嘉永元) モーニッケ (牛痘を普及させたモーニッケ来崎)

日本に初めて牛痘による種痘を伝えた人、それがオランダ商館医モーニッケ(1814-1887)。種痘とは、感染症のひとつである天然痘の予防接種。1796年にはイギリス人医師のジェンナーによって牛痘接種法が発明され、すぐに各国に広まったのだが、日本では牛痘苗を何度取り寄せても海上でだめになり種痘が成功しなかった。寛永元年(1848)6月に来崎したモーニッケも海外から牛痘液を持ってきたが失敗。そこで鍋島藩の医師であった楢林宗建がモーニッケに進言し、今度は牛痘痂(かさぶた)を取り寄せた。嘉永2年、宗建の三男ほか2名の幼児を実験台としてモーニッケが両腕に新しい痘痂を接種。成功をおさめた。そして、これを種として次々と種痘が行われるようになった。
また、現在、お医者さんと切っても切れないものといったら聴診器だが、この診察器具を初めて日本に持ち込んだのがモーニッケだった。彼の使用した聴診器は現在、長崎大学医学部に保存されている。
   
 コラム●シーボルトの特効薬

「シーボルトを影で支えたビュルガー」
 
シーボルト・プロジェクトの最も重要な協力者が1825年に来日したビュルガー(1806-1858)。彼はシーボルトの下で働く「薬剤師」として来崎した。シーボルトが「日本最初の近代的な医師」ならば、ビュルガーは「日本最初の近代的薬剤師」。シーボルトの『日本』に出てくる九州各地に至る温泉水の科学分析はビュルガーによるもので、近代的な化学分析法が用いられているのだという。薬剤師ビュルガーはシーボルトの日本研究の中で鉱物学を担当し、化学的分析法でその後の日本の薬学に影響を与えた。シーボルトが出島を追放された後も残り、博物学の標本を送り続けたビュルガー。しかし、シーボルトがビュルガーの業績を一人占めした形となったためか、2人の関係は、あまりよろしくなかったのだとか。

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