鎖国状態にあった日本の中で、幕府の高官達は当時の世界情勢を正確に把握していた。もちろん、その情報発信源は長崎。しかし、嘉永6年(1853)、長崎の出島ではなく、浦賀沖に現れたペリー率いる四隻の黒船が与えた衝撃が、幕府に海防の充実を決断させた。かくして西洋技術、航海術、医学などを学ぶべく海軍伝習所が安政2年(1855)、長崎に開設される。この第一期生には幕臣・勝海舟がいた。
そして、安政4年(1857)、ヤパン号(咸臨丸)で来航した第2次海軍伝習の派遣教官団37名の中に、オランダ海軍二等軍医ポンペがいた。


海軍伝習所跡
かつての長崎奉行所西役所内に置かれた
海軍伝習所。その証は、長崎県庁の
片隅にある石碑に刻まれている。

1857年(安政4) ポンペ (オランダ軍医ポンペ、ヤパン号にて来崎)

長崎海軍伝習所 第2次指揮官・カッテンディケに選任され、医学教授として日本で雇用されたポンペ(1829-1908)。彼が課せられた使命は日本人に自身が学んだ西洋医学を指導することだった。そして長崎大学医学部の創立記念日となっている安政4年(1857)11月12日、28歳のポンペは、現在長崎県庁がある長崎奉行所西役所、医学伝習所において松本良順とその弟子達12名に最初の医学講義を行なった。医学伝習が始まって間も無く、ポンペは長崎に天然痘が蔓延しはじめたので公開種痘も開始している。後に町年寄・高島秋帆邸内に移された医学伝習所での講義は、物理や化学などの基礎科学から内科学や外科学などの臨床全般で、1日の講義も最初は3時間、後半の臨床医学の講義は1日8時間にもおよぶものだった。
安政6年(1859)9月には西坂の丘の刑場で三日間に渡り日本初の死体解剖実習を実施。その後も死体解剖は行ったが、その実現は容易ではなく、許可が下りるまではパリから取り寄せた紙製の人体解剖模型「キュンストレーキ」によって説明していた。また、5年間の滞在期間中、ポンペは数多くの患者を治療し、猛威を振るったコレラとも戦った。コレラの治療法としては、キニーネとアヘンを配合したものを飲み、入湯すること。ポンペの努カは、漢方医の治療を上回る成果を挙げたため、長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになっていったという。
ポンペ
良順会館内に掲げられた
ポンペのレリーフ

西洋医学の学びの場として全国各地から往来が途絶えない長崎で、引き続き、長崎の医学を、いや日本における医学を発展させた人物がいる。江戸時代後期の幕臣として、また明治期の官僚として名高い松本良順だ。

1861年(文久元) 松本良順 (良順を頭取、ポンペを教頭に養成所、医学所設立)

ポンペと共に長崎大学医学部の創設者である松本良順(1832-1907)は、下総佐倉の生まれで順天堂医院の開祖、佐倉藩医佐藤泰然の次男として生まれたが、幕府医官松本良輔の養子となった。安政4年(1857)、第2次海軍伝習に幕命を受けて参加、諸藩の医師を自らの弟子としてポンペの講義が受けられるように取り計らった。彼らのほとんどが基礎科学の知識にさえ乏しい者達。しかも言葉の壁は大きかった。そこでオランダ語の堪能な松本良順、司馬凌海そして佐藤尚中は、昼にあったボンペの講義をもう一度夜復講して他の学生の理解を助ける努力をしたという。小島郷の養成所と医学所の設立も良順の努力によるものが大きかった。

松本良順
良順会館内に掲げられた
松本良順のレリーフ
後に良順は江戸の医学所頭取、将軍家茂の侍医、法眼となり、維新後は軍医を編成して軍医頭、後に陸軍軍医総監となった。新撰組とも交流があり、近藤勇、沖田総司、斎藤一などの傷病も診察。晩年は医療を受けることのできない庶民のために、衛生と養生法を説いた本を出版するなどの活動も行ったという。

ポンペ、良順らの熱意によって、文久元年(1861)9月20日、長崎港を見下ろす小島郷の丘(現西小島町・長崎市立佐古小学校)に開設されたのが医学伝習所の後身である養生所・医学所「小島養生所」。日本で最初の西洋式の病院である養生所は医学所と並んで設置された。養生所は医学校(医学所)に付置された日本で最初の124ベッドの西洋式附属病院。ここでポンペは多くの日本人医学生に対し系統的な講義を行い、患者のベッドサイドで医の真髄ともいうべきものを教えた。帰国前、最後の学生に卒業証書を手渡したという。この教え子達によって日本に西洋医学が定着。ゆえにポンペは近代西洋医学教育の父と称されているのだ。


小島養生所跡
現在の佐古小学校の場所に建てられた
「小島養生所」。校内には記念の石碑が
建立されている。

1862年(文久2) ボードウィン (ポンペの後任、ボードウィンが教頭に就任)

ポンペが創設した長崎の医学校、養生所の2代目オランダ人医学教師として来崎したのがボードウィン(1820-1885)。彼もポンペの教育方針を継承して、医学と同時に理化学も教えた。実は、ボードウィンは大学で医学博士となり、ユトレヒト陸軍軍医学校の教官として、学生であったポンペを教えている。ボードウィンは高名なドンデルスと共に生理学の教科書を著していたが、ポンペはその著書を養生所の講義に用いていた。出島に在住していた弟のオランダ貿易会社駐日筆頭代理人アルベルト・ボードウィンの薦めにより、教え子ポンペの後任として養生所教頭となったのだった。


ボードウィン
良順会館内に掲げられた
ボードウィンのレリーフ
彼は生理学だけでなく、外科手術学の教科書や検眼鏡の使用法を蘭訳本にする程、臨床的知識が豊富で医学全般を教授できた能力を持っていた。実は現在も市販されている「太田胃散」という健胃剤は、ボードウィンが日本に持ってきた健胃剤に改良を経たもの。肉食中心の欧米人の食文化に適応する胃腸薬として開発され、日本でも戦後の高度経済成長時代に進んだ食の欧米化から人気薬品に!意外なところに実績発見!

ポンペ、ボードウィン、彼らの教育方針を受け継ぎ、発展させていった長崎県出身の人物がいる。

1868年(明治元年) 長与専斎 (精得館の頭取(病院長)に長与専斎就任)

長与専斎(1838-1902)は、今もよく用いられる“衛生"という言葉をつくった人だ。家は大村藩に代々つかえる漢方医の家系で、現在の長崎県立大村高等学校の前身である大村藩の藩校「五教館」で学んだ後、大坂の緒方洪庵の適塾に入門、大村藩の侍医となった。そしてその後長崎に赴いた専斎は、医学伝習所にてポンペ、ボードウィンに西洋医学を学び、明治元年(1868)5月、精得館の頭取(病院長)となり、学制を改革した(明治元年10月に精得館は長崎府医学校、翌年長崎県病院医学校と改称。専斎はここの校長に選ばれる)。明治4年(1871)、専斎は伊藤博文に頼み込み、岩倉遣欧使節団に随行して渡欧、西欧の医学教育を視察、調査する。


長与専斎
良順会館内に掲げられた
長与専斎のレリーフ
帰国後内務省衛生局の初代局長となった専斎は、司薬場の建設や防疫・検疫制度の導入、医師国家試験、薬局方、種痘法など衛生行政にからむ医制のほとんどを立案施行。日本における衛生行政の基礎を築いた。事実、明治維新後に年々10万人の人口増加がみられたのも、専斎が徹底した“種痘”と“衛生”の普及によるところが大きいといいわれているのだ。大村市久原には専斎の雅号をとって「松香館」と呼ばれる旧家が今も残り、自由に見学できる。

そして、ポンペ、ボードウィンに西洋医学を学んだ人がここにも一人。

1887年(明治10) 楠本イネ (銅座町に開業。産婆として再出発)

ポンペが行った死体解剖の見学者の中にはシーボルトの娘、楠本イネ(1827-1093)も混ざっていたという。2歳の時に父シーボルトが国外追放となったイネは、シーボルト門下の二宮敬作などから医学を学び、日本陸軍の創始者である大村益次郎にオランダ語を学んだ。医学伝習所でもポンペから産科、病理学、ボードウィンにも学んでいる。再会した父シーボルトに学んだ後、異母兄弟であるシーボルト兄弟の支援を受け、東京築地で明治3年(1870)産科医院を開業。事実上、日本初の西洋医学を身につけた女医の誕生だった。開業の5年後には、福沢諭吉の推薦もあって宮内省御用係を拝命。明治天皇の側室である葉室光子様の出産に立ち会うためだった。この時、福澤諭吉がイネの世話を頼むために宮内省の役人杉孫七郎にしたためた手紙が、現在、シーボルト記念館に残っている。


楠本イネの開業の地
銅座のこの辺りで開業したイネ

前述の「医師国家試験」が開始すると、受験資格は男に限られたものだったため産科医院をたたんで帰郷。明治10年(1887)、銅座橋の通り、シーボルトの日本人妻・楠本タキの実家・コンニャク屋だった場所で、イネは、産婆として再出発したのだった。

最後にーー。
今回、長崎の医学史を支えた人物として紹介した人達が、代々関わりを持ち、その知識と技術が受け継がれ、また切り開かれてきたからこそ、現代の日本の医学が存在することを実感した(今回紹介した人もほんの一部にすぎない)。
今年、ノーベル賞受賞した下村脩(おさむ)氏は旧制長崎医科大学付属薬学部(長崎大学薬学部の前身)出身で、卒業後は長崎大学薬学部で実習指導員・助手として在籍しながら有機化学、生物発光の研究を開始されていたという。
長崎の地から世界に誇る医学者がまた一人世界に名を轟かせたことを、誇りに感じずにはいられない。
 
 コラム●松本良順の特効薬

「良順おすすめ!牛乳&海水浴が体にイイ!」
良順は長崎で学んでいる際に牛乳の滋養効能を知り、牛乳を飲むことを広く薦めていた。その啓蒙ぶりは、当時人気のあった名優・紀伊国屋澤村田之助や芸妓を呼び集めて、牛乳を飲ませて話題を呼んだというエピソードを残している程! しかも明治3年(1870)、良順は義理の叔父で旧旗本の阪川當晴と赤坂に「阪川牛乳店」を開いている。明治初期、東京は“元武士”という大量の失業者であふれかえっていた。その救済策の一つに「牛乳屋」という商売があり、その草分けの一人が松本良順だった。また、彼は海水浴も推奨! 大磯照ヶ崎には良順によって開かれた日本最初の海水浴場があり記念碑が設置されている。

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