写真提供:DEITz株式会社

今年も長崎くんちが近づいてきた。身も心も浮き足立って、落ち着かない! そんな生粋の長崎人はもちろん、おくんち体験ゼロの方にも、知ってほしい語り尽くせない長崎くんち、魅力の数々。そんななか、今回は踊町の町印、「傘鉾」だけにスポットを当ててご案内。

 

ズバリ!今回のテーマは
「知っていると数倍楽しめる傘鉾ガイド!」 なのだ




秋の夜風を切り舞躍る傘鉾
傘鉾持ち・中川組の稽古場突撃!
長崎くんちにおいての傘鉾は、町の印として【飾(だし)】や【輪(わ)】、【垂(たれ)】でその町が表現されている。実際、傘鉾は常に踊町の行列の先頭に立ち、全員がそれに続くのだ。


そこで最初に理解しておきたいのが長崎くんちに関わる町の仕組みだ。

長崎くんちは、奉納踊りを出す当番の踊町、踊町を務めてから4年後に回ってくるくんち運営の世話係である年番町、神輿守町、それから長崎郊外に住み毎年踊り町からの依頼によりくんちを支える傘鉾持ちさん、シャギリさんたちによって成り立っている。つまり傘鉾は各踊町で持つのではなく、「傘鉾持ち」と呼ばれる専門家集団に依頼するのだ。現在傘鉾持ちには、6つの組(岩屋、田手原、本河内、三川、女の都、柳谷)があり、組それぞれにその技が継承されている。踊町が7つあるときなどは選抜チームが組まれたり、一所で二組出して二つの町を受け持ったりする。各組それぞれに、流儀があるとの噂を耳に、ナガジンでは今年、榎津町と西古川町の傘鉾を受け持つ柳谷の中川組の稽古場にお邪魔した。

棟梁の中川禎浩(よしひろ)さんは20名余りの傘鉾持ちを率いる中川組三代目棟梁だ。
中川組は、現在中川さん一家を中心に、それぞれの職場関係や地域の若手から年配まで幅広い年代からなり、傘鉾が縁でベテランの持ち手の娘さんと結婚された持ち手さんもいるらしく、とってもアットホームな面々で構成されている。


中川禎浩さん


中川組の皆さん
稽古場は、JR西浦上駅近くの中川棟梁自宅の駐車場。暗闇に数カ所設置された灯りの下、稽古用の傘鉾がMDで流されるシャギリの音に合わせ行き来していた。その距離はお諏訪さんの踊馬場とほぼ同じ長さなのだという。

稽古場

中川棟梁「7年に一度の踊町とは違って、毎年どこかの町の傘鉾を持っているので、6月1日の小屋入りからではなく、うちでは稽古はだいたい盆過ぎからですね。今年も例年通り盆過ぎから週に3回、お蔭様で一度も雨に降られることなくやっています。」


今年は榎津町と西古川町の二手に分かれての出場だ。

中川棟梁「本来、棟梁は“紗ふり(しゃふり)”といって前が見えない持ち手に旗を振って先導する役割なんですが、まだ若いので今年も持ち手として出ます。」

紗ふり

京都祇園祭の綾傘鉾など全国各地にも傘鉾に類する物があり、それらは昔の形態をそのまま継承していたり、時代を追うごとに形を変えていたりするようだが、長崎の傘鉾は一人の人間が担ぎ演技することが前提で、それが可能な重量でいうところの最大130〜150kgにまでなったといわれている。

中川棟梁「傘鉾は町によって重さも高さも微妙に違います。僕らは、本物で練習することが出来ません。ですから各組は、練習用の傘鉾を作り、以前持った時の感覚を思い出し、その年担当する町の傘鉾に合せ重さ、バランスを調整して稽古するんです。」

2時間の稽古中、1時間を過ぎたところで休憩タイム。傘鉾から心棒を離す。【竿(さお)】と呼ばれる心棒を見せていただくと利き肩で担ぐ肩当て部分の横木と下方に反対の手で握る横木がそれぞれ配してあった。心棒から肩当てにはクッション的役割を持つ布団【肩ぶとん】が麻(あさ)で巻き付けられ、汗でぐっしょりだ。「持ってみますか?」のお言葉に持ち方を教わりながら試してみた。この心棒自体は20kg程度だという。それでも当然ずっしり、重い。


心棒を離す


心棒

中川棟梁「傘の上に大きく重い飾り【飾(だし)】があるためそのままでは持てません。上下のバランスを取るために一文銭【寛永通宝】を300枚×10本、3000枚ほど心棒の下にくくり付けています。現在のお金5円玉では軽すぎて一文銭でないと役に立ちません。」

※練習用の傘鉾ですが、しっかり本物の一文銭が付いていました。



一文銭

本番では、先曳、奉納踊に先んじて傘鉾の奉納が行われる。傘鉾の移動にはシャギリがつきものだが、傘鉾自体にも鈴(りん)と呼ばれる鈴が取り付けられている。この鈴をリズムよく鳴らすのも要領がいる。

中川棟梁「傘鉾は安定したバランスが大切です。傘鉾の神前での奉納は3回までは儀式。1番(1人目)は、“諏訪入り”といい、鈴を鳴らしながらねり足で長坂の下まで進み、傘鉾を置きます。お清めをした後、長坂の上の神様に向かってその場でゆっくり回します。それは、神様によく見てもらうためです。神事において傘鉾は、神様に興味を持ってもらえるいい舞をして、その傘鉾に乗っていただき、町に神様を連れて帰るという重要な役割を持っています。1番は、そんな“お披露目の舞”です。」


続く2番は、鈴をまったく鳴らさずに“ちょこ走り”と呼ぶ足運びで長坂の下まで進み、小さく円を描いた後1番よりも軽快な右回りのみの舞を奉納し、鈴を鳴らしながらすり足で戻る。そして3番は、先程よりやや大きめで、やはり右回りのみの舞を見せる。稽古を見ていて感じたのは、鈴の音も、バランスの取れた熟練された方のものは、澄んだきれいな音だということだった、3番までの儀式を終え、いよいよ4番以降がそれぞれの組が持つ技を披露する所望の舞となる。

その際、観客席のあちこちから「ふとぅまわれ〜(長崎弁で大きくまわれの意)」と声がかかるのがお約束。


中川棟梁「4番以降からは左回りも有りで、4番は右に3回、左に3回、回しますが、必ず最後は右回りで終わります。“ふとうまわれ”というのは、観客席ぎりぎりまで大きくまわって観客に町印である傘鉾をよく見せなさい、ということです。奉納も所望も、前後左右どこから見ても対称に美しく見えるように回すのが先輩方から厳しく教えられた中川組の流儀としています。各組の傘鉾持ちは、それぞれに先輩方からの教えを守っています。」

長坂正面の彦山の上から差す陽の光に照らされた傘鉾が舞う姿は、まさしく絢爛豪華そのもの。右にくるくると回ったかと思うと、一間静止し、今度は左回り。そして、修練された技が見事に決まると、扇状に広がった観客席が一斉に大きくどよめき、盛大な拍手とともに「ヨイヤー」の声が飛び交うのだ。

中川棟梁「くんちが終わってからも2週間はシャギリの音が耳から離れないですね。」

棟梁が初めて長崎くんちに参加したのは、27年前。昭和56年(1981)のことだ。当時高校2年で、傘鉾が電線などに接触しないよう、“突き上げ”という長い竹の棒で突き上げる役目を担った。この時も榎津町だったそうだ。
稽古中も棟梁の側をチョロチョロと動き回る男の子がいる。小学1年生の貴能(たかよし)くんだ。手には棟梁手作りの傘鉾。小さな赤い傘に様々な飾りが施されている。やがて四代目を担う貴能くんは、稽古中、片時も離れず見学したり、小さな傘鉾を持ってついて回ったり、傘鉾が好きで好きでたまらない!といった様子。


たかよしくん


中川組四代目

中川棟梁「僕も傘鉾好きでしたけど、彼ほどじゃなかったですね(笑)。」

小さな後継者も、あと十数年もすればりっぱな傘鉾持ちとなって私たちに華麗な舞を披露してくれるのだろう。くんちといえば奉納踊ばかり注目されがちだが、真のくんち好きはこの傘鉾の円舞に魅力を感じる人も多い。くんち通は毎年、奉納踊り同様、傘鉾の鮮やかな舞を披露してくれる傘鉾持ちの方々の仕上がりに、期待に胸膨らませて待ち望んでいるのだ。
今年も、毎年積み重ね、文字通り熟練されていく各傘鉾持ちの心意気が、踵からどっしりと踊馬場を踏みしめる足元に現れるはずだ。傘鉾持ちの妙技が今年も楽しみだ!

◆長崎くんち・傘鉾篇◆
もってこーい!基礎知識

7ヶ町の先頭を颯爽と歩く
傘鉾の魅力はズバリ“風流”?
今回の主役である傘鉾は、もともと神様の儀杖用の鉾に傘をつけたもので神幸の際の重要な祭具の一つであった、はたまた原型は風流(ふりゅう)傘であったなど、その起源には諸説ある。長崎の傘鉾は、当初いたって単純なものだったが、江戸中期以降、各町が競い合うように飾りは大きく、垂れは長くなり、江戸の後期に、豪華絢爛な現在の形態になったのだという。幕府の保護を受けていた環境上、くんちそのものが派手になっていった経緯から見ても当然の成り行きなのだ。それをいい表しているのが、かつて長崎にあった傘鉾町人という呼び名。これは、長崎くんちにおける傘鉾に関する諸経費を一手に負担する旧家の素封家に対する尊称だ。傘鉾の制作費は、実は大方の見当を絶する金額。町の名誉を凝集したシンボルは趣向を凝らし、かつ絢爛の極致でなければならなかった。また、江戸時代の傘鉾は代々の素封家に限ってつくられ、伝統と権威を重んじていたため、にわか成金では町内が許さない。そこで、この傘鉾を一手に引き受けて出した町人は“傘鉾町人”といい尊敬されたのだ。ちなみに昔、垂れは前日、後日で変えていたようだが、そうするのは今では一部の町のみとなっている。
お慶が寄進した油屋町の傘鉾 
写真提供:DEITz株式会社

傘鉾写真提供:DEITz株式会社
 

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