平和ゾーンに点在するモニュメントは
原爆が残した傷跡と、人々の願いの象徴
後世に伝えたい!悲惨な戦争と平和の尊さ!


◆Pick upモニュメント平和編
・ 浦上天主堂のモニュメント群(本尾町 浦上天主堂内 map10)
・ 旧浦上天主堂の遺壁(松山町 原爆落下中心地公園内 map11)
・ 一本柱鳥居(坂本町 山王神社境内 map12)
・ 城山小学校のモニュメント群(城山町 城山小学校内 map13)
・ ナガサキ誓いの火(松山町 原爆落下中心地公園内 map14)
・ 平和を祈る子の像(松山町 原爆落下中心地公園内 map15)
・ 平和記念像(松山町 平和公園内 map 16)


原爆の威力と人々が受けた傷を知るには、まず被爆遺構であるモニュメントを目にするべきだろう。「祈り編」でも紹介した「旅」から帰ってきて浦上の信者達が真っ先に欲したのは祈りの場である“神の家”の建立だった。約250年7世代浦上村民の信仰の取り締まり、特に潜伏時代には信徒達が踏絵を強制された場所に聖堂を建て、踏絵の赦しを祈るには最も適した場所だと旧庄屋屋敷跡地の土地と建物を購入、改修し仮聖堂として用いることになった。そして、当時の主任司祭、フレノ神父が設計施工し、明治28年(1895)の起工から30年の時を経た大正14年(1925)、正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘がつけられた石と煉瓦造りのロマネスク様式東洋一の大聖堂が完成した。浦上に戻ることができた1883人の信徒達が中心になって建設を計画、信徒達が力を合わせて工事を進めたという。旧浦上天主堂は、悲惨な日々に耐え抜き旅から帰った浦上信徒の苦難と信仰の象徴となったのだ。しかし、昭和20年(1945)8月9日11時2分。原子爆弾が投下され浦上信徒の苦難と信仰の象徴は一瞬にして破壊された。現在、天主堂の周囲、左側の前庭には被爆した聖人の石像、その側の石垣には天使の像がある。これらは、熱線で焼けこげ、頭部や体の一部が欠けている。そして、天主堂入口正面に立つ悲しみの聖母像も被爆モニュメントのひとつだ。このお像は、旧浦上天主堂の南側入口に立っていたもので、旧天主堂を設計施工したフレノ神父の強い思いが込められたもの。手がけた日本人石工にちっとも悲しいポーズではないとして、神父自らが悲しみのポーズをして見せ3度も彫り直させた。結局それでも納得がいかず、自らが彫り仕上げたのだという。完成からわずか20年。爆風によって指が欠けはしたものの奇跡的に残ったこの悲しみの聖母は、被爆の惨状の中、多くの死と苦しみに襲われた人々の悲惨な姿を目にしたことだろう。



被爆した聖人の石像



天使の像
また、原子爆弾が炸裂した直下にある原爆落下中心地公園内の一隅には、原爆によってわずかな堂壁を残し、崩れ落ちた旧浦上天主堂、その南側遺壁の一部である旧浦上天主堂の遺壁が爆風による石柱のずれそのままに移築されている。天を貫くかのようにそびえる堂壁の壁上には、ザベリヨと使徒の石像が世界平和を祈るかのような目で彼方を見つめている


旧浦上天主堂の遺壁

明治元年(1868)に創建された坂本町の山王神社に残るモニュメントにも注目しよう! 原爆の際、社殿は爆風のために跡形もなく崩壊したが、参道にあった4つの鳥居のうち、爆風に対して平行に立っていた一の鳥居と二の鳥居だけが奇跡的に残った。一の鳥居はほぼ完全な形で残ったのだが、その後運送会社のトラックが衝突し破損したため撤去された。爆心地から南東約800mの場所にあった二の鳥居は、爆風が押し寄せた片側の柱が吹き飛ばされ、一本の柱で立つ一本柱鳥居となった。これは原子爆弾の驚異がヒシヒシと伝わる貴重な資料であると共に、まるで多くのものを失ってもたくましく生き抜いた長崎の人々の象徴でもあるかのように、現在も一本の柱のみで同じ場所に立っている。


一本柱鳥居

平和への願いが込められたモニュメントが校内にあるのは、原爆落下中心地よりわずか500mの所に位置し、1,400余名の児童と職員が尊い命を失うという大きな被害を受けた長崎市立城山小学校。被爆時、城山小学校で学徒報告隊員として働いていた林嘉代子さんという方が、城山小の校舎で被爆され亡くなり、後日、お母さんの津恵さんが花を好きで先生になりたいといっていた嘉代子さんを偲んで、桜50本を寄贈された。この桜は“嘉代子桜”と呼ばれ、やがてこの話は絵本となり全国の子ども達に読まれ続けている。かつて城山小付近は多くの桜が咲き誇る場所だったといい、この嘉代子桜が原爆で傷ついた人々の心の希望になったことは間違いだろう。嘉代子桜の祈念碑は昭和41年に建立された。
また、嘉代子桜を寄贈された林津恵さんが亡くなられた後の遺産より資金をいただき作られた平和の鐘。上から見ると桜の花に見えるように設計されていて、毎日8時、12時、16時に鐘の音で曲を奏で、毎月演奏される曲目が変わる。



嘉代子桜



平和の鐘


「三つの願い」と題されたこの平和モニュメントは、平成7年、被爆50周年の節目の年に平和の誓いを新たにするために建立されたもの。象られた三つの輪には、“大きな希望”“広い心”“ 深い愛”という三つの願いが込められ、その下の葉は平和を支える全人類の手を表わし、緑の自然を永久に残すという意味がこめられている。戦争、原爆で全てを失った城山小の児童が平和を希求して立ち上がる姿を象った少年平和像は、当時5年生で父母を原爆で亡くした少年をモデルに昭和26年8月8日に建立された。台座の「平和」の文字は、1年生の時に被爆した当時6年生だった菅原耐子さんの書で、家族をまつってある仏壇の前で練習して書いたものだという。城山小学校に点在するモニュメントは、幼くして悲劇にあった子ども達の思いを現代の子ども達が受け継いだ“平和への願い”が込められている。
※見学時間/8:30〜16:30(月〜金)


少年平和像

原爆落下中心地碑周辺は「祈りのゾーン」とされている。公園の横を流れる川に架かった小さな緑橋。そこを渡った場所に平和を祈る子の像がある。いつもたくさんの千羽鶴に囲まれたこの碑は、永遠の平和を象徴する像として国内外の少年少女の募金によって建てられた。国内外の地名が刻まれた石が埋め込まれた台座。そこにはこんな碑文が刻まれている。


平和を祈る子の像

原始雲の下で 母さんにすがって泣いた
ナガサキの子供の悲しみを
二度とくり返さないように
大砲の音が 二度となりひびかないように
世界の子供の上に
いつも明るい太陽が輝いていますように


台座
この像横、原爆資料館へと続く坂段の脇にナガサキ誓いの火・灯火台がある。これはギリシャ政府の特別許可により、オリンピアの丘で灯された聖火が“人類最後の被爆地でありますように”という願いを込め長崎に贈られたもの。市民の手によって創られた灯火台には、毎月9日の9:00〜17:00と毎年8月6日〜9日の間、世界中からすべての核兵器が廃絶されるまでナガサキ誓いの火が灯し続けられる。


ナガサキ誓いの火

原爆落下中心地公園から平和公園へと場所を移してみよう。平和祈念像を中心とした平和公園一帯は「願いのゾーン」。また、このエリアは“世界平和シンボルゾーン”といわれ、世界14ヶ国から贈られた記念碑などが建てられている。ひとつひとつのモニュメントに目を向けていくと、戦災復興の記念に建立された戦災復興記念の像に描かれた男の子と女の子の像に出会う。まるであの夏の日から時間が止まってしまったのではないか、というような姿。こんな幼い子ども達までもが原爆のよって永遠に時を止められてしまったのだ。

戦災復興記念の像

各国それぞれ平和への願いが込められたモニュメントを見渡すと“母と子”をモチーフにしたものが多いことに気づかされる。チェコスロバキア社会主義共和国の人生の喜びは、小さな子どもを抱え上げ見つめる母の姿、ソビエト社会主義共和国連邦の平和は、無邪気な仕草の子どもを膝にのせ、しっかりと抱く母の姿、イタリア共和国の人生への讃歌もまた、我が子を両手で自分の頭上に抱え上げた母の姿だ。そして、オランダ・ミデルブルフ市の未来の世代を守る像。これは母親が幼い子どもを危険から守っている姿。世界中の人々が平和を実感するには、次の世代の誕生、その子ども達を守ることが大切だとこれらのモニュメントが輝きを持って教えてくれている。


人生の喜び


平和


人生への讃歌


未来の世代を守る像

最後に平和都市長崎の象徴的モニュメントを紹介。世界平和の願いを込め、製作された平和祈念像だ。長崎県出身の彫刻家である北村西望(せいぼう)氏作のこの記念碑は高さ9.7m。正面に立つと一瞬その巨大さに圧倒されるが、その穏やかな顔立ちにしだいに心解き放たれるかのようだ。祈念像に平和への祈りを捧げたらぜひ後方へとまわってみよう。祈念像の後には、作者・北村西望氏の言葉が直筆で刻まれている。



あの悪夢のような戦争
身の毛もよだつ凄絶の悲惨
肉親を人の子を
かえり見るさえ堪え難い眞情
誰か平和を祈らずにいられよう
(中略)
時は佛 時に神
長崎始まって最大の英断と情熱
今や人類最高の希望の象徴
昭和三十年 春日 北村西望

と刻まれている。天を指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている平和祈念像。改めて見上げると、作者のこの強い意志と同様な強いメッセージを、その穏やか表情にも感じとれるようだ。



※2004.7月ナガジン!特集『城山小学校発! 未来へ繋げる平和への願い』参照
※2004.3月ナガジン!特集『浦上カトリック信徒と聖地巡礼』参照


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