長崎の子ども達は多くの被爆者の悲惨な体験について学んできた。そして今、高齢化が進む被爆者の思いと平和を願う心のバトンが、戦争を知らない世代へ渡されようとしている。


ズバリ!今回のテーマは
「平和への願いは色褪せない。長崎の小学生の平和学習に迫る!」なのだ




8月9日、毎年迎える暑い一日の風景
若い世代へ語り継がれる被爆者の願い


昭和20年(1945)8月9日午前11時2分。
広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域に原子爆弾が投下され約7万人の人々が命を落とした。原爆による焼失面積は市街地の約3分の1。
一瞬の間に焼け野原と化した風景を長崎に住む人は今でも思い浮かべることができる。
あの真夏の太陽が照りつける暑い日のことを長崎の人々は決して忘れることができないのだ。それは戦争体験者だけではなく、戦後生まれ戦後育ちの現代の子ども達でも--。

8月9日午前11時2分。毎年この日、この時刻になると、市中に点在する教会や寺の鐘の音がこだまし、サイレンが街中に響き渡る。
今年で被爆59周年を迎える長崎。
戦後、復興した長崎の街では、“長崎を最後の被爆地とするため”に様々な平和活動が行なわれてきた。

8月9日は夏休み期間中にあたるが、長崎の小中学校は毎年この日は登校日だ。
原爆の威力、恐ろしさ、戦争が人々にもたらした苦しみ、悲しみ。長崎の子ども達は被爆直後から今日まで、多くの被爆者の悲惨な体験について様々な形で学んできた。

そして“長崎を最後の被爆地とするため”の平和活動は、現在、高校生による1万人署名運動など、戦後生まれの現代の若者層に浸透し大きなうねりを見せている。

被爆者自身の声から、戦争を知らない世代の声へ--。平和を願う心のバトンが渡され続けているのだ。


しかし、長崎にはそれよりもまだまだ年少の小学生が“原爆を乗り越えた長崎の平和への願い”を学習し、全国へ発信している姿があった。

今回は、原爆落下中心地よりわずか500mの所に位置し、1400余名の児童と教職員が尊い命を失うという大きな被害を受けた長崎市立城山小学校(当時は城山国民学校)が取り組む平和学習に密着!
今年も巡って来る8月9日を前に、当時長崎の地で起こった出来事に改めて思いをめぐらせてみよう。

 


前波(まえば)校長
(市立城山小学校)


■平和への願いが伝わるかのように
毎年咲き誇る城山小学校の桜の話


爆心地から約500mの高台に建つ城山小学校。被爆以前の校舎は白亜の偉容を誇る、それは美しい3階建ての校舎だったという。
しかし、戦争がはじまり度々空襲に見舞われるようになると、校舎には迷彩色が施され、校舎の一部は三菱長崎兵器製作所の給与事務に使用された。


長年平和教育に携わってきた教師でも、城山小学校に赴任してはじめて知ったことも多くあるとおっしゃる前波校長。

前波校長「まず、ここに来てはじめて知ったのが“嘉代子桜”の存在ですね。城山小学校で学徒報国隊員として働いていた林嘉代子さんという方が、城山小の校舎で被爆され亡くなったのですが、後日、お母さんが花が好きで先生になりたいといっていた嘉代子さんを偲んで、桜50本を寄贈されたそうです。グラウンドを整備するために伐採したのでしょうね、今では6本のみが残されています。」

この話は絵本となり、城山小の生徒をはじめ全国の子ども達に読まれ続けている。

かつて城山小学校付近は多くの桜が咲き誇る場所だったのだという。
戦後、永井隆博士からも桜100本(現在残っているのは5、6本)、また、昭和15年度に卒業された卒業生の皆さんが70歳の古希のお祝いと、昔の桜を復元したいという思いで平成9年に植樹された桜などがある。
かつて栄えていた桜が復元されることは、平和な日常が取り戻された象徴。そんな願いを込めて、皆さん寄贈されるのだろう。



前波校長「先日、イルカさんのコンサートが長崎でありましたが、そのときに“嘉代子桜”を見学したいという依頼があったんです。何かと思いましたら、長崎の方が作詞作曲をした『嘉代子桜』という歌の譜面をイルカさんに“コンサートで歌って欲しい”と送ってこられたそうで、どんな桜なのかコンサート前に観に来られたんです。30分程見学されましたが、“嘉代子桜”にまつわる話に感動してくださり、コンサートでも歌ってくださったんですよ。これも出逢いですよね。」

世代を越えて、全国へ、世界へ、被爆直後の長崎を生き抜いた被爆者の思いが伝わっていく。



■奇跡的に生き残った教頭先生の
使命感に溢れた平和学習の基礎



当時の城山国民学校関係者では、家庭にいた児童1400余名、学校におられた先生方28名、庁務員3名、三菱兵器製作所員58名、挺身隊員12名、学徒報国隊員42名が原爆によって命を落としたのだという。そして、生き残ったのはわずかに先生3名、家庭にいた50余名ほか三菱兵器製作所員9名、挺身隊員2名、学徒報国隊員4名のみ。

前波校長「当時教頭をされていた荒川秀男先生は、校長室で会議中に被爆されたのですが奇跡的に助かられました。生き残った子ども達を集めて授業を再開したり、慰霊祭を開いたりされたそうです。荒川先生が戦後、校長として城山小に戻り、現在の城山小に根付いている平和教育の基礎を築かれたんです。」

被爆直後の惨状に使命感を奮い立たせて行われたのだろう。それは惨劇を生き抜いてこられた荒川先生だったからこそできた平和教育だったに違いない。



■城山小学校が実践する
平和学習の取り組み







城山小には校歌とは別に歌い継がれている歌がある--『子らのみ魂よ』。

♪めぐりきぬ この月 この日
思い出は 白雲の かなた
ひらめきの またたく ひまに
声もなく 空しく 散りし
先生よ 子らの み魂よ(1番より)


前波校長「本校では毎月9日に平和祈念式を行っています。『子らのみ魂よ』は、島内八郎さん作詞、城山で家族を亡くした木野普見雄さん作曲の城山小独自の歌です。平和祈念式ではいつも子ども達がこの歌を歌うんです。被爆者は一番苦しい思いをしているのに、偏見などといった二次的な苦しみをも味わってこられました。この平和祈念式での私の仕事は約10分、このような平和に関わる話をすることです。そしてその話や日頃の平和学習を元に毎年2月に1〜6年生まで、1年間で学んだことを発表する平和学習発表会を行うんです。例えば昨年の1年生は『嘉代子桜』の劇を行いました。この平和学習発表会は一般に公開しますから、どなたでも観に来ていただけるんですよ。」



8月8日に行われるイベント
『平和の灯』でも、
毎年その歌声を披露する
1年間学んだことに自らの意見を交え、学年でまとめあげ発表していくという作業。平和という大テーマに向けて、1〜6年生までそれを積み重ねていくのだ。

前波校長「平和祈念式は毎月行いますから6年生は合計72回、様々な話を聞くわけになるんですよね。大変な知識を習得して、さらに各自が様々な意見を持つようになっていきます。そこで6年生には新たな役割を受け持ってもらっています。平成11年に平和祈念館ができてから、毎年2万人を超える修学旅行生が城山小を訪れてくださるようになりましたが、その修学旅行生を6年生に案内してもらう“ピース・ナビ”という役割です。これはいわば“ミニ語り部”ですね。双方、いくつかの班に分かれて校内の被爆遺構を案内するのですが、なかには“1人で案内したい!”という子どももいるんですよ。そして最後に皆さんの前で『子らのみ魂よ』を合唱するんです。事実を伝えるだけではなく、願いや祈りを芸術的に高めた歌を合唱することによって、修学旅行生の心に同様な思いを落とすようです。私はこれは子ども達にしかできないことだと思っています。」


1年生は嘉代子桜付近、2年生は永井坂付近……と学習の場を学年毎に定めているらしい。そしてそれはそのまま自主性にまかせた朝掃除の場所でもあるのだとか。
学び、知り、考え、行動する--平和学習。毎年11月に行われる平和ウォークと題した平和学習期間において、昨年の6年生の子どもからは“観光客にPRしたい!”という意見があがり、周辺の被爆遺構の中でPRしたい場所の写真を手に観光客を引き止め案内する子どもも出てきたのだとか。

おそるべし! 城山小の子ども達。彼らのようなミニ語り部達がいずれ長崎の平和活動の中心を担っていくのかもしれない。

学校側からの一方的な知識のすり込みではなく、自発的な平和活動へと導く興味ある取り組み。
城山小学校の平和学習は、情操教育をも兼ねた6年間の総合学習といえそうだ。

 


今年も暑い夏が近づいてきた。
城山小学校の児童をはじめとした長崎で平和の尊さを学んだ子ども達、そして大人達は、今年も8月9日午前11時2分に鳴り響く教会の鐘の音を、8月15日の正午に終戦記念日を知らせるけたたましいサイレン音を、それぞれの心に響かせる。


〈1/3頁〉
【次の頁へ】


||[周辺地区地図]||


【もどる】