今年1月に長崎市に加わった全周わずか3kmの高島。合併以前は、海上に浮かぶ日本一小さな町だった。
島内観光には島内循環バスが唯一の交通手段だが、2時間もあれば歩いてでもまわれるからピクニック気分の散策にピッタリだ。
潮風が頬をなで、静けさの中、唯一聞こえる鳥のさえずりを耳にすれば、心からリラックスできること間違いなし!


ズバリ!今回のテーマは

「海を渡り、ちょっとした旅気分を味わおう!」なのだ



長崎市街からのアクセスは、長崎港大波止ターミナルから。長崎汽船伊王島経由高島行きフェリーで34分。爽快な長崎港遊覧を楽しんでいるうちに、アッという間に高島へと到着する。走行中の目玉は、背後で小さくなっていく緑に包まれた長崎の街の風景と、建設中の女神大橋だ! さらに取材時は「長崎帆船まつり」の前日とあり、長崎港に待機している日本丸とすれ違うという嬉しいハプニングもあった。

●長崎汽船伊王島経由高島行きフェリー
●料金/大人片道910円、小人460円
●1日往復10便
●TEL095-826-6238(長崎汽船)


高島に着くとフェリーの発着に合わせ島内循環バスが1日18便運行しているので、目的に合わせて利用しよう。



長崎港に待機していた日本丸



まずは、高島の町の成り立ちと歴史に触れてみよう。

【創成期】高島は、文治元年(1185)、平家の落武者が高島に辿り着き住み着いたのがはじまりといわれている。 その後、元禄8年(1695)、五平太(ごへいた)という人物が高島で石炭を発見! 現在の長崎市深掘地区で勢力を誇っていた深堀氏の力を借り、宝永7年(1710)頃から事業化し、炭鉱時代が幕を開けた。
その昔は高島・上二子島・下二子島という3つの島から構成されていたが、炭鉱の発展と共に搬出される“ボタ”によって周囲が埋め立てられ、現在の1つの島の形となった。
高島炭鉱が本格的に稼動しはじめたのは、慶応4年(1868)に英国の貿易商人、トーマス・ブレーク・グラバーが佐賀藩との合弁より開発にあたった頃からだ。グラバーは、北渓井坑(ほっけいせいこう)と呼ばれる深さ43mの竪坑(たてこう)を掘り、日本最初の蒸気機関によって石炭の掘削にあたった。その後、明治14年(1881)に三菱社の岩崎彌太郎氏に譲渡され、日本初の近代的炭鉱として発足する。
そして明治・大正・昭和と、日本の近代化と共に石炭産業も発展し、高島炭鉱においても最先端の設備を次々と導入して出炭量は増大していったのだった。

【石炭産業全盛期】昭和30年(1955)に端島(軍艦島)と合併した高島は、昭和37年(1962)から昭和48(1973)にかけて出炭量は100万トンを超え、昭和41年(1966)には、153万9千500トンの最高出炭量を記録した。最盛期には両島で約2万2千人の人々が住み、島には高層アパートが建ち並び、炭鉱が3交替制のため一日中人通りが絶えることはなかったのだという。また、端島(軍艦島)はこの時期、人口密度世界一を記録している。

【炭鉱閉山から現代】昭和41年(1966)にピークを迎えた出炭量はその後減少の一途を辿り、エネルギー革命により燃料が石炭から石油に変わると相次ぐ合理化の波が押し寄せてきた。そして昭和49年(1974)1月に端島(軍艦島)が閉山。同年4月には無人島となった。その後、高島は操業を続けたが、採掘条件の悪化による出炭不振、コスト高により累積赤字が300億円に達し、経営状態は私企業の限界を超え、ついに昭和61年(1986)11月に閉山となった。
高島は石炭と共に歩んできた。炭鉱全盛期にはこの小さな島に1万8千人を超える人々が住み、町は活気に満ちていた。しかし、石炭産業の衰退と共に町の人口も徐々に減り続け、炭鉱閉山後には5千人を割った。基幹産業を失った町は人口も激減、町の経済は崩壊し、町存続の危機を迎えるまでになっていった。しかし、閉山後11年が経過する平成9年(1997)に、町の再興をかけた飛島磯釣り公園と海水浴場がオープン。その後も新たな産業、施設なども設置され、炭鉱の町から観光の町として生まれ変わろうとしている。

では、観光の町として生まれ変わりつつある高島を東部エリア、西部エリアに分け、点在する観光スポット&ビューポイントを紹介していこう。

【町の成り立ちと歴史】
【東部エリアの観光スポット&ビューポイント】
【西部エリアの観光スポット&ビューポイント】


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