緑濃く広々とした南方風の境内を持ち、訪れる人をホッと和ませるのどかさがある唐寺・興福寺は、かつて日本の中の中国だった。今回は観光客にとどまらず、地元の人達がこよなく愛す社交的空間、日本最古の唐寺として名高い興福寺のビジュアルガイド。


ズバリ!今回のテーマは

見えるモノと見えないモノ!興福寺のお宝探しなのだ



黙子如定、逸然、隠元
歴代住職の役割と功績

寺院が建ち並ぶ寺町通りを歩いていると、それぞれの山門に各寺院の特徴を垣間見ることができる。その中でことさら威容を放っているのが、総朱丹塗りの豪壮雄大な興福寺の山門だ。
日本最古の唐寺として全国に名高い興福寺は、長崎を訪れたことがある人ならば一度は足を運んでいることだろう。
興福寺は日本最古、つまり日本で初めて建てられた中国の寺院だ。しかし、元和6年(1620)、唐僧真円(しんえん)が建立した当初は現在のような建造物もなく、長崎に住む中国人達が集う媽祖信仰の祈祷所的役割を持つだけだったと伝えられている。
つまり創建から現在のような寺院が形成されるまでには、様々な人々が関わり、長い時を経ているわけだ。その様々な人々の中でも、次に挙げる3人の※禅師の存在がとりわけ大きい。
まずは、興福寺を造り上げた3人の禅師の偉業に触れてみよう。
(※禅師とは中国、日本で智徳の高い禅僧に朝廷から授けられる称号)

真円の創建後、3人の禅師が興福寺の住職を務めている。それぞれの住職は興福寺に、長崎に、はたまた日本に何をもたらしたのだろう? できれば、ここでも見えるお宝、見えないお宝をチェックしながら読みすすめてほしい。




◆建てる◆

黙子如定禅師(もくすにょじょうぜんし)/寛永9年(1632)渡来


第2代の住職は、長崎の観光名所、中島川に架かる眼鏡橋を架設したことで知られる黙子如定禅師。眼鏡橋は興福寺の参詣者のために参道を横切る中島川に架けられた、いわば興福寺の檀家さん専用の参道だった。しかし、興福寺への参道の役割を担う橋ならば眼鏡橋の先には当然興福寺があるに違いないと思いきや…違う。興福寺への参道である橋は一覧橋。唐寺は魔除けのために山門から本堂まで直線ではなくずらされて配置されているため、興福寺の場合は参道である眼鏡橋から魔除けのための※伽羅(がらん)配置が用いられているのだ。


川面映ると双円を描き眼鏡に見える眼鏡橋
(国指定重要文化財)

さて、黙子如定禅師が造ったものは、眼鏡橋だけではない。媽祖様を祀る祈祷所だった興福寺に、本堂(大雄宝殿/だいゆうほうでん)を建て、そのほか諸堂伽藍(がらん)、また山門の完成にも力を注いだという。ということは黙子如定禅師が興福寺の住職に着任するまでは本堂はもとより山門さえなかったのだ。黙子如定禅師の役割は、興福寺の基盤を造ることであり、禅師はそれを見事にやってのけた人物だった。
(※伽藍とは寺院の建築物のこと)



◆伝える1◆

逸然禅師(いつねんぜんし)/正保元年(1645)渡来


黙子如定禅師に継いで第3代住職に着任したのは、絵に秀で、仏像などの仏画や人物を得意としていた逸然禅師だった。逸然禅師は、中国で明末期に盛んに行なわれた※篆刻(てんこく)や、明末期から清初期にかけて興った画法の“漢画(かんが)”を長崎に伝えた人物。禅師には渡辺秀石(しゅうせき)、河村若芝(じゃくし)という2人の門人がいて、彼ら名手が近世漢画、いわゆる唐絵(からえ)といわれる長崎系絵画を発達させた。
後に漢画は長崎画壇の主流となり、“唐絵目利(からえめきき)”と呼ばれる長崎に舶来した絵画の制作年代や真贋(しんがん)などを判定したり、その画法を習得したりする長崎の地役人の職種の一つに伝承された。元禄10年(1698)、逸然禅師の愛弟子の渡辺秀石が唐絵目利に命ぜられ、以来、渡辺家、石崎家、広渡家、後に荒木家が加わり四家が世襲制で唐絵目利を務めていった。また、逸然禅師は日本にまでその名声が伝わってくる隠元禅師を日本へ招き呼ぶ動きの中心的人物でもあったが、何より逸然禅師の役割は、やはり自身の得意とした漢画を日本に伝えた近世漢画の祖という立場につきるだろう。漢画の流れを汲んだ画家として、江戸時代の絵師でありながらカラフルな色使いやグラフィックデザインのような構図で、没後200年を経た現在、人気が浮上している“伊藤若沖(じゃくちゅう)”がいる。このように日本で、多くの絵師が育ったのも、逸然禅師の功績だ。
(※篆刻とは木、石、金などに印をほること。逸然禅師が伝えた見事な印章は書を引き立たせ、日本に篆刻の楽しさや、印章の美しさへの目を開かせたといわれている)



◆伝える2◆

隠元禅師(いんげんぜんし)/承応3年(1654)渡来


隠元禅師は臨済・曹洞と共に日本三禅宗といわれる中のひとつ、黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖として知られる人物。第3代住職逸然禅師の後に興福寺の住職を務めているから、事実上は第4代住職。しかし、他の僧侶とは位が違うため歴代住職とは肩を並べないのだそうだ。
逸然禅師の時代、 明国(中国)で黄檗山・万福寺(まんぷくじ)の住職を務めていた隠元禅師は、禅界の重鎮として活躍し、その名声は日本にも伝わっていた。 その頃、日本では禅宗が衰退していて、それを案じていた逸然禅師や長崎の唐寺の檀家達は隠元禅師による新たな禅宗の伝来を願い、3回も中国へ赴き来日を懇願。高齢63歳の隠元禅師はついに渡海を決心されたのだという。30名の弟子をはじめ仏師、絵師など職人らも一緒に引き連れて来日、興福寺に入山したのは、承応3年(1654)。その際伝えられたのが黄檗宗だった。
禅師の名声は日々に高くなり、その新鮮な明朝禅と徳を慕って各地から何百人もの学徒が参集したため、興福寺では、外堂など建て増して彼らを住まわせた程。聴衆は僧俗数千、長崎奉行も参謁したと記される。翌年には崇福寺にも進み2ヶ月住して法を説かれた。
また、隠元禅師は諸国より寄せられた寄進によって山門を建て、隠元禅師自ら筆をとり「東明山」の額を書かれたので、これを興福寺の寺号とした。
「祖道暗きこと久し必ず東に明らかならん」という意味の規模壮麗なもので、これが隠元禅師をもって興福寺中興の開山とする由縁なのだ。
長崎滞在1年後、禅師は、京都妙心寺竜渓禅師らの懇請によって上京、4代将軍家綱に日本に留まるよういわれ、この国への永住を決意。寛文元年(1661)、京都の宇治に黄檗宗の総本山として故郷の寺と同じ名の黄檗宗大本山万福寺を開山した。それから81歳で亡くなるまで僧俗貴賤多くの人々と交わり、慕われ尊敬されたという。
そんな隠元禅師が数多くのものを日本に伝えたことを知っているだろうか?
まずは、建築や書画など明の文化。そして有名な名前に禅師の名が付いたインゲン豆。さらに今は和食に分類する胡麻豆腐、胡麻あえ、けんちん汁。すいか、なし、れんこん、なすび、もやしなどの野菜果物、印鑑に木魚、ダイニングテーブル。そのほかにも煎茶や普茶料理(ふちゃりょうり/中国僧の精進料理)など、とにかく現代の日本で馴染み深いものばかりだ。


隠元禅師直伝の品

隠元禅師は、日本黄檗宗の開祖という僧侶としての役割だけでなく、日本文化、それも庶民に身近なものを中国から持ち込んだ人物でもあった。



2004年、隠元禅師東渡350周年
中国文化は興福寺から伝わった

日本には古くから中国文化への憧れがあったが、鎖国によりそれを見聞きすることは禁じられていた。そこへ、大明国の文化を背景にもつ高僧隠元禅師の渡来。黄檗宗を通じて皇室、将軍家、武家、寺院などは建築、彫刻、書画、茶道、料理などの新鮮な明朝文化を日本文化に取り入れていったのだ。

今年は、隠元禅師が興福寺に入山して350年目の記念すべき年。興福寺では、1月26日に黄檗宗祖 隠元禅師東渡350年記念大法要、7月5日に東渡350周年祝賀年記念碑除幕式などの催しが行なわれ、隠元禅師の功績が改めて讃えられた。
黄檗宗の日本伝来は、宗教上だけではなく、その後の日本文化に多大な影響を与えた豊かな中国文化との出会いでもあった。
そして、そのスタート地点は、長崎の東明山興福寺だった。



check! check! 隠元禅師の書

隠元禅師は、望まれれば快く筆をとられたと伝えられている。隠元禅師の書は、興福寺に残る3つの扁額、伝世の品として興福寺に伝えられる『黄檗開祖国師三幅対』のほかに崇福寺の三門に掲げられた崇福寺の山号「聖壽山」の書、そして玉園町にある唐寺、聖福寺の山門に掲げられた「聖福禅寺」などがある。
隠元禅師、そして隠元禅師のお弟子さんで崇福寺の住職を務めた即非禅師(そくひぜんし)や、清水寺の住職を務めた木庵禅師(もくあんぜんし)は唐三僧、三筆大家と呼ばれ、その黄檗流の書風は日本の書に新風を吹き込んだという。
隠元禅師らの書の素晴らしさは、一心不乱に文字に集中して書くためお坊さん自身の個性を表し、体感温度を持っている点だ。様々な修業を積み重ね、禅宗の思想を筆に込めた躍動感溢れる隠元禅師の書、ぜひじっくりと鑑賞しよう。

大雄宝殿に掲げられた扁額
「大雄宝殿」


山門上部の扁額「初登宝地」


山門上部の扁額「東明山」


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