境内に点在するお宝探し
建物の内外をじっくり観察!

寺域全体が県指定の史跡となっている興福寺。
境内には美しい黄檗文化の風格が漂っている。
ここでは、せっかくのお宝を素通りして見逃さないために、
境内の見どころポイントをたっぷり伝授しよう。



かつて国宝だった中国南方建築の代表作
●大雄宝殿(だいゆうほうでん/本堂) 国指定重要文化財


本堂のことを大雄宝殿と呼ぶのは、お釈迦様(大雄)を本尊として祀っているから。現存する長崎の4つの唐寺では全て本堂を大雄宝殿ということを覚えておこう。三官 大帝の神像は唐からもたらされたもので生き身として深く信仰されて、その証拠に御神体の 中から雄鶏の足音が聞こえると言い伝えられている。これは三官 大帝の神が幸福を授けるという唐の伝えによるものだ。
さて、この建物は寛永9年(1632)第2代住職・黙子如定禅師が建立したが、大火や暴風で大破したため再建を繰り返し、現在の建物は明治16年(1865)に再建したものだ。しかし、昭和16年に改修工事を行った直後に原爆の爆風を受け背後の山に向かって倒れかかる格好となったため、立て起こしのみを行ない現在に至っている。
近づいて見るとよくわかるが、とっても大きな建物。向かって右手庫裡(くり)側から内部へ入ると、二層分が吹き抜けになっているため、なおさら壮大に感じられる。資材は中国から運ばれ、中国工匠による中国明清風を取り入れた純粋な中国建築となっている。氷裂式組子の丸窓やアーチ型の黄檗天井、※斗拱(ときょう)や※蟻壁(ありかべ)に施された人物、鳥獣、花などの繊細な彫刻、反り屋根、そして大棟上の瓢瓶(ひょうびん)などなど中国南方建築の美しさが印象的だ。明治時代の建造物でありながら戦前は国宝に指定されていたのがスゴイ!



大雄宝殿と呼ばれる本堂


氷裂式組子の丸窓


アーチ型の黄檗天井


大棟上の瓢瓶

暗くて多少見づらいが、左奥に約300年前に製作されたと推定されている隠元禅師と黙子如定禅師の木像が安置されているのでお見逃しなく。
(※斗拱とは建築物の柱上にあって軒を支える部分のこと。※蟻壁とは天井と蟻壁長押(なげし/柱と柱の間の横木)の間の壁のこと。)


当時の最先端!上海産瑠璃燈
●瑠璃燈(るりとう) 市指定有形文化財

大雄宝殿内部中央、本尊釈迦如来像の目前に懸けてあるこの瑠璃燈は、上海から運ばれ堂内で組み立てられたのだという。確かに燈としては高さ2m以上もある巨大なものなのでそのまま運ぶのは難しかったのだろう。よく見ると、蛇や人間など細やかな彫刻が施されている。これは清朝末期の優れた工芸品の系譜に属するものらしい。周囲に紙や絹ではなくガラスを使っているところに、当時の上海の西洋趣味がうかがえるのだという。


本堂内に懸けられた瑠璃燈


媽祖信仰は興福寺の原点

●媽姐(祖)堂(まそどう) 県指定有形文化財

通称・菩薩堂(ぼさどう)と呼ばれるこのお堂には、航海の神、媽祖様が祀られている。
媽祖信仰は中国宋代に福建省に起こった土俗的信仰。元の時代には江南から北京へ糧米を運ぶ全ての船舶に祀られ、長崎へ来航する唐船にも必ず「媽祖」が祀られ、停泊中は船から揚げて唐寺の媽祖堂に安置した。これを「菩薩(ぼさ)揚げ」といい、賑やかに隊列を組んで納めたという。唐人屋敷内にも媽祖様を祀る天后堂があるが、興福寺、崇福寺以外の唐寺には媽祖堂がないことから、南京と福州出身以外の出身の唐人達が、天后堂へ媽祖様を祀ったのではないか、または、できるだけ自分の近くにあって欲しいという考えから唐人屋敷内に安置したのではないかといわれている。本尊は、天后聖母船神で、脇立(わきだち)はふつう赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳。しっかり媽祖様を守っているかのようで力強い! 中国的な意匠も見られるので縁起ものを見つけだしてみよう。


航海の神、媽祖様


航海の神、媽祖様を祀った媽姐(祖)堂



梵鐘不在。鐘がならない鐘鼓楼
●鐘鼓楼(しょうころう) 県指定有形文化財

寛文3年(1663)の市中大火のあと元禄4年(1691)に五代悦峰禅師が再興。後に日本人棟梁により享保15年(1730)重修、その後もたびたび修理が加えられた興福寺の鐘鼓楼。建築様式は和風で2階建て。上階は梵鐘を吊り太鼓を置き、階下は禅堂としていた。現在ここには、原爆で吹き飛ばされた瓦などが保管展示されている。梵鐘は立派だったため、戦時中真っ先に供出しなければならず、もちろん戻ってくるはずもない。ゆえに現在興福寺梵鐘はない。上層は梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、よく時代劇に出てくる丸い※花頭窓(かとうまど)を四方に開き※勾欄(こうらん)をめぐらせ、軒廻りには彫刻が施されている。朱丹塗りの木部が中国っぽい!!
(※花頭窓とは上部が曲線状になった形の窓で、禅宗建築と共に日本にもたらされた形式。※勾欄とは、高欄、つまり社寺の端の反りまがった欄干、手すりのこと)



興福寺の鐘は出征したまま不在だ


今も昔も人々が集まる社交的空間
●三江会所門(さんこうかいしょもん) 県指定有形文化財

境内に遺された三江会所の門。三江とは揚子江下流地方の江南、浙江、江西のことで、かつての興福寺はこの地方出身者にとって、菩提寺であり、同郷会館という社交的サロンだったという。明治元年(1868)唐人屋敷の処分がはじまり、同年、彼らは興福寺境内に三江出身者の霊を祀る三江祠堂を建て、明治13年(1881)には、新たに集会場として三江会所を設置した。
会所には厨房もあり法事や会合に賑わったが、原爆により大破し門だけが遺存している。中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物で、門扉を中心に左右に丸窓を配し、他は白壁、門扉部分上部の棟瓦を他より高くした簡素清明な意匠。彫刻など細部手法は純中国式で、大雄宝殿と同じ中国工匠の手によるものと思われている。敷居が高いが、これは豚などが門内に入らないよう工夫した“豚返し”と呼ぶ中国の様式なのだそうだ。


明治時代、3省の中国の人々が集った
集会所・三江会所の遺構


通称“あか寺”の由来はこの山門
●山門(さんもん) 県指定有形文化財

入母屋造単層屋根・総朱丹塗りの豪壮雄大な山門は長崎で第一の大きさを誇る。興福寺の山門は、初め承応3年(1654)隠元禅師の長崎滞在中、諸国より寄せられた多大な寄進で建てられたが、9年後の長崎大火で興福寺は全焼した。現在の山門は、元禄3年(1690)に、日本人工匠の手で再建されたもので和風様式を基調としている。また、原爆でも大破したがその後復元された。この雄大な朱色の山門のイメージからだろう、昔から長崎の人は興福寺を“あか寺”と呼び親しんでいる。


長崎一の大きさを誇る
総朱丹塗りの山門


唐人屋敷内に建てられた貴重な住宅門
●旧唐人屋敷門(きゅうとうじんやしきもん) 国指定重要文化財(長崎市所有)

元禄2年(1689)、市内に散宿していた唐船主以下の中国人は、民宿を禁じられ十善寺郷(現在の館内町)の唐人屋敷に収容された。日本人で唐人屋敷に出入りを許されていたのは遊女と僧侶だけだったが、唐人達の外出は比較的自由で唐寺などへ頻繁に出掛けていた。また、約1万坪の広大な敷地内には住宅、店舗、祠堂(しどう)などが軒を連ね一市街地を形成していたという。当時の建物は大火や移転などで何一つ残っていないが、この唐人住宅門だけが民家の通用門として遺存していたのを、昭和35年(1960)、保存のため中国にゆかりの深い興福寺境内に移築復元した。扉は二重で内門は貴人来臨専用。小さな門であるにも拘わらず、細部の意匠に凝った中国特有の様式が見られる貴重なものだ。グルリと回って観察しよう!


かつて唐人屋敷内にあった住宅門


移築された由緒ある中島聖堂の遺構
●中島聖堂遺構大学門(なかしませいどういこうだいがくもん) 県指定有形文化財(長崎市所有)

長崎聖堂(中島聖堂)は東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂と共に日本三聖堂のひとつで最も古く由緒あるもの。長崎出身の儒者向井元升(げんしょう)が正保4年(1647)東上町(現在の上町)に開いた儒学の学問所で当初立山書院と称したが、元升の子・元成が京から帰来したのでこれを迎え入れ正徳元年(1711)、中島川河畔に移転し再興。その後は中島聖堂と呼ばれた。聖堂は長崎奉行の保護下にあり壮大な構えだったが、明治初年に廃滅し、杏檀門(あんだんもん)と規模縮少した儒学の祖・孔子を祀る大成殿(たいせいでん)を遺すのみとなったので、昭和34年(1959)、保存のため興福寺境内に移築された。門扉に大学の章句が刻まれているので大学門と呼ぶ。この門のコウモリ型の意匠から覗き込むと大成殿が見られるが、現在は孔子の御霊は祀られていないそうだ。


学問の神様、孔子を祀る聖堂の遺構


新お宝は隠元禅師の書を刻んだ碑
●黄檗開祖国師三幅対(おうばくかいそこくしさんぶくつい) 市指定有形文化財

隠元禅師が書かれた三幅対は、興福寺に伝えられる禅師の代表作といわれる品。普段は目にすることができなかったのだが、隠元禅師東渡350周年を記念し禅師の書を再現した記念碑が大雄宝殿前の蘇鉄の脇に建立された。この記念碑は隠元禅師の故郷・中国福健省の石にこだわり、中国で製作された。興福寺の新しいお宝の誕生だ。


隠元禅師の筆になる三幅対


隠元禅師東渡350周年を記念して
今年7月、建立された記念碑


興福寺のトレードマークの魚板
●魚板(鰍魚)(ぎょばん/けつぎょ)


日本一美しいといわれる興福寺の魚板


雌がこちら

庫裡の入口にさがる巨大な魚鼓は、お坊さん達に飯時を告げるために叩いた木彫の魚。長年叩かれたので、腹部がかなりくぼんでいるが、この音は山裾まで聞こえるほど響いていたのだという。本来は“はんぽう”というこの手の魚板は禅寺ではよく見かける代物。魚板を寺に吊るすのは、魚は夜も目をつぶらない 不断の精進を怠らず、だんだんに出世し昇天すると竜になるという故事によるものだというが、興福寺のこの魚板は日本一美しいと定評がある。確かに明朝の風格をうかがわせるこの魚板、姿形が美しい! もうひとつ並んでさがる小振りの魚板と比べると一目瞭然だ。実はもうひとつの魚板は雌。雄雌一対で懸けられるのはとっても珍しいのだそうだ。
もちろん、この魚板には意味がある。中国の代表的な魚である鰍魚(けつぎょ)が象られていて、口にふくむ玉は欲望。これを叩くことによって、欲望を吐き出させるという意味なのだ。実はこれ、木魚の原型ともいわれている貴重なもの。残念ながら老朽化のため現在は叩くことはできない。


茂吉が感じた興福寺の昼下がり…夏
●斉藤茂吉の歌碑(さいとうもきちのかひ)

「長崎の昼しづかなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花」
山門を入るとすぐ木立の中にたつ歌碑は、長崎医学専門学校精神科(現在の長崎大学医学部)の教授として大正6年(1917)から10年(1921)までの3年3ヶ月、長崎に住んだ斉藤茂吉が詠んだうた。人けも絶えた夏の午後の静かな唐寺の趣を歌ったものだ。確かに中国南方建築と、蘇鉄などの南方系の植物が配された興福寺の境内には、太陽がサンサンと降り注ぐ夏が良く似合う気がする。今も夏の興福寺を彩る白いさるすべりの花は、茂吉が長崎にいた頃からあったのだ。


今も昔も夏の午後の興福寺の趣きは
変わらない

check! check! 境内に点在するお宝意匠

黄檗建築の特徴として、中国で縁起がいいとされる吉祥文様、意匠がふんだんに施されているということが挙げられる。縁起がいいとされるものの代表格は、コウモリ、桃、牡丹の花だろう。コウモリは中国で“蝙蝠(びぇんふー)”と発音し、「蝠」が「福」と同じ音であることから中国人の最も好むもののひとつとされている。吉祥を意味し福寿を祝うものには必ずコウモリが用いられている。鍛冶屋町の唐寺・崇福寺の国宝・第一峰門裏のコウモリは有名だが、興福寺にもコウモリをあちらこちらに象った文様がある。桃は3000年に一度実をつけ食べると寿命を伸ばす生命の果実といわれる。悪鬼を追い払う魔除けの意もあるため、中国原産の牡丹の花は、中国で“百花の王”と呼ばれる中国の国花。やはり縁起がいいのだ。また、極めつけは、鐘鼓楼の鬼瓦。外向きが鬼面で厄除け、内向きが大黒天像で福徳の神と、とても珍しいものなのだ。もちろんこれは「福は内、鬼は外」を意味するもので、日本人棟梁の工夫といわれている。
興福寺境内には、ほかにもたくさんの吉祥文様、意匠があるのでぜひじっくり丁寧に探してみよう。


大雄宝殿正面にはコウモリ

媽姐(祖)堂正面に施された牡丹の花

旧唐人屋敷門の瓦に牡丹の文様発見!

見えるか、見えないか?鐘鼓楼の鬼瓦
 


〈2/3頁〉
【前の頁へ】
【次の頁へ】