市街中心部/寺町界隈/丸山界隈/新大工界隈の坂道

長崎の中心部にある
興味深い名前の坂道

●巌流坂(がんりゅうざか/興善町)
傾斜  約8度
認知度 ★
分類  坂



<江戸時代のことが
坂の名前に残されている>


長崎市消防局から電車通り(魚の町)へ向かう坂。江戸時代、長崎には九州諸藩の蔵屋敷があったが、この坂を挟んだ両側には長州屋敷(現・自治会館)と、小倉屋敷(現・長崎食糧事務所)があったのだという。宮本武蔵と佐々木巌流(通称・小次郎)の決闘地として知られる厳流島が長州下関と豊前小倉の間にあったことからこの名前が付いたのだろうが、時は流れ、現在このように呼ぶ人はほとんどいないようだ。


●大音寺坂(けんか坂)(だいおんじざか・けんかざか/万才町)
傾斜  約20度
認知度 ★★
分類  階段(石段)


長崎地方検察庁と長崎地方法務局の間にある石段。元禄13年(1700)12月19日の昼過ぎ、深堀家の深掘三右衛門と柴原武右衛門の2人がこの坂を歩いていて、はねた泥が町年寄高木彦右衛門の仲間にかかり争いになったのが事件の発端。高木家の仲間達は深堀屋敷(五島町)に殴り込みをかけて乱暴を加えた。無念に思った深堀藩士達は翌日未明、深堀から駆けつけた20余名で高木家へ討ち入り、高木彦右衛門の首をあげたのだという。これは、赤穂浪士討ち入りの1年前の事件で、赤穂浪士はこの深堀藩士の行動をお手本にしたと伝えられている。つまりここは長崎版忠臣蔵「深堀喧嘩騒動」の発端となった坂なのだ。現・法務局の場所にはかつてミゼリコルディア教会があり、キリシタン弾圧で跡地に大音寺が建ったため「大音寺坂」または前述の騒動から「けんか坂」と呼ばれるようになったというわけだ。(大音寺は寛永15(1638)鍛冶屋町に移転)
大音寺の後に天満宮が置かれたため、天満坂、または天満宮坂とも呼ばれる。



<長崎版忠臣蔵舞台の坂>

●県庁坂(けんちょうざか/江戸町ほか)

傾斜  約5度
認知度 ★★★★★
分類  坂



<交通量が多い県庁坂>

県庁前国道202号の坂。現在の県庁所在地は、かつて森崎という岬の突端で、サン=パウロ教会、サンタ=マリア教会、イエズス会の教育機関であるコレジヨなどが置かれていたが、慶長19年(1614)のキリスト教弾圧で破壊され、それ以降、長崎奉行所が寛永10年(1633)、この地に移された。県庁前を境に片側は江戸町の交差点へ、片側は大波止の電車通りへと両側へ下るこの坂道は、県庁の前の坂だからズバリ!県庁坂。しかし、長崎の人は長崎弁で“けんちょんさか”と呼び親しんでいる。この県庁坂は、毎年8月15日に行われる盆祭り“精霊流し”のメインストリートでもある。


往時の風景が思い浮かぶ
風頭山の麓にある坂道

 

●ヘイフリ坂(へいふりざか/寺町)
傾斜  約10度(坂)、約26度(石段)/大音寺と晧台寺の間の坂
認知度 ★★★
分類  坂+階段(石段)

大音寺と皓台寺、長照寺と延命寺の間のいずれも風頭山頂へと続く坂道。
この名前の由来は寛永15年(1638)、当時諏訪神社は現在の諏訪町(寺町周辺)にあったが、その諏訪神社の大鳥居(現在の二の鳥居)を造るため石材を風頭山から切り出し運んだ。途中、あまりに石が大きくて動かすことができずに人々が思いあぐねていると、一人の宰領が突然石の上に乗り御幣を振って励まし、何とか石材を麓へ下ろす事ができたという光景から坂の名前が付いたのだ。以来この坂は「幣振り坂」と呼ばれている。違う意味に考えた人も多いのではないかな?


<大音寺と晧台寺の間のヘイフリ坂>


丸山界隈に点在する
歴史を偲ばせる坂道

 

●丸山オランダ坂(まるやまおらんだざか/丸山町)
傾斜  約32度
認知度 ★★
分類  階段(石段)+坂

路面電車の発着点、正覚寺電停近くの崇福寺入口バス停から丸山へと上る細い石段交じりの坂道。
この坂の名前の由来には2つの説がある。1つ目は、かつてこの坂を通り正覚寺の墓域に沿って上っていった場所に西洋料理店・福屋があり、オランダさん(東洋人以外は皆こう呼ばれていた)が通っていたからというもの。そして2つ目は、本国から女性を連れてくることを禁じられていたオランダ屋敷(出島)へ唯一、出入りを許されていた日本女性”丸山遊女”が通っていたからというもの。遊女が目立たないこの坂を通って当時流れていた川に出て、小舟に乗って銅座川を下り出島へ通った。つまり、オランダ行き(当時オランダ屋敷へ出入りする丸山遊女はこう呼ばれていた)の坂から付いたというのだ。
いずれもこの静かな佇まいが広がる町並みにふさわしく、当時の情景が目に浮かぶような仮説だ。もちろんこれは江戸時代のことだから、東山手にあるオランダ坂よりも以前、つまりここが本家本元のオランダ坂といえるのだ。

<ここが本家本元のオランダ坂>

●忍び坂(しのびざか/船大工町)
傾斜  約36度
認知度 ★★
分類  階段(石段)

 


<坂の途中にはお堂がある>

船大工町光永酒屋横より大徳寺に抜ける階段。勅使坂(ちょくしざか/丸山町)へ続く。
丸山遊郭で遊んだ帰り、丸山の大門を通るのは気が引けるというので、この裏階段を通るところから名付けられたのだという。
ちなみにカステラの老舗本店から丸山の派出所前に出て道を右にとり、丸山公園から大徳寺公園に行く勅使坂は忍び坂を上がった場所にあたる。この坂の行き着く先、現在大徳寺公園となっている場所には、明治元年(1868)、戊辰戦争(奥州征伐)に長崎から参加した振遠隊士(しんえんたいし)の墓が造られ祭祀してあった。そして天皇の使いの者がこの墓を訪ねる際この坂を通るためきれいに整備され、以来、勅使坂と呼ばれるようになったという。


<大徳寺公園へと続く勅使坂>

●ピントコ坂(ぴんとこざか/上小島)
傾斜  約22度(平均)、上部14度(坂)、下部30度(石段)
認知度 ★★
分類  坂段

旧茂木街道にあたる東小島〜中小島にかかる墓域から長崎県立南高等学校正門前まで続く坂段。
寛永年中(1624〜1643)、贋金作りの唐人・何 旻徳(か ぴんとく)が処刑された場所で、彼を慕った悲恋の遊女、阿登倭(おとわ)がここで自死。この遊女を葬った傾城塚(けいせいづか)があることからこの名で親しまれるようになったという。ピントコ坂の表示板から南校前にある表示板まで、それにしてもピントコ坂は結構険しくて長い。ちなみに、長崎では険しい坂段を上り下りするときに“ぴんとこどっこいしょ”というからピントコ坂という説もあるのだとか。



<上り下りの掛け声は“ぴんとこどっこいしょ?”>


古い町ならではの石畳と
ご神木に守られた坂道

 

●トロトロ坂(とろとろざか/中川2丁目)
傾斜  約6度
認知度 ★★
分類  坂


<なだらかな坂道は車も通る生活道路>

新中川町電停から鳴滝川の上流方向へ一筋入った場所に橋が架かっている。この石橋は江戸時代、長崎街道の玄関口だった見事な造りのアーチ型石橋で古橋(中川〈なかご〉橋/市指定有形文化財)。そしてこの古橋から続く坂道がトロトロ坂と呼ばれている。なだらかな傾斜のため、とろとろ歩けるからトロトロ坂なのか? 由来は不明。さて、この坂道は長崎開港の3年前に舗装された、清時代の江南風のエキゾチックな石畳で、周囲は後から道を広げたため中央部分のみが石畳となっている。坂の途中に一の瀬橋や古橋と同じ頃に造られたお地蔵様と、弘法大師を祀る地蔵堂(大師堂)があり、長崎街道の風情をかすかに漂わせている坂道だ。

●長坂(ながさか/上西山町)
傾斜  約24度
認知度 ★★★★
分類  階段(石段)

 

秋の大祭・長崎くんちで知られる諏訪神社の踊馬場から拝殿までの73段の石段。子どもの頃、一段一段数えながら上ったという方も多いことだろう。名前の由来は、やはり一息に上るにしては長いからだろうか? 長崎くんちの際には、本殿を正面に演技がなされるため、桟敷席ではなくこの長坂が最高の観客席。上から見るとかなり急な石段だということがわかる。10月7、8、9日の長崎くんち本番も迫ってきた。桟敷席や長坂の整理券など、長崎くんちについての詳しい情報は公式HPへアクセスしよう。
長崎くんちホームページ http://nagasaki-kunchi.com/


<長崎くんちの一等席>

●ご神木の連なる道(通称:六角道/上西山町〜立山1丁目〜西山町1丁目)
傾斜  約12度
認知度 ★★★
分類  坂

日本銀行長崎支店西側から長崎県立長崎図書館横を通り立山公園へと上がる坂道。
長崎公園(諏訪公園)の敷地にある道路で車も通行するが、道路の真ん中にご神木(クスの大木)が7本程あるから観光客の方はびっくりだろう。
名前の由来は、坂を上っていくと右側に“六角堂”という屋根が六角形をした東屋があるからといわれるが、カーブが6つあるから!が正解かもしれない。
しかし、この“六角道”は、下から見ると霞(かすみ)のようにゆらゆらと しているところから“かすみ道(かすみじ)”と呼ぶ人もいるのだとか。

<ご神木をかわしながらのドライブは
安全運転で!>


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