居留地跡(南山手・東山手)/西坂〜筑後町/稲佐・浦上界隈の坂道

居留地ならではのネーミング?
全国に名を馳せるオランダ坂

●オランダ坂(おらんだざか/東山手町)
傾斜  約10度(大浦海岸通り電停側)、約7度(活水坂)、約15度(石橋電停側)
認知度 ★★★★★
分類  坂

大浦海岸通り電停側のオランダ坂から石橋電停側の誠孝院(じょうこういん)前のオランダ坂までの切り通し、活水坂、英国聖公会会堂跡前の坂一帯の総称。
海星高校体育館の登り口に「英国聖公会会堂跡」の標識が石垣に埋め込まれているが、この場所には文久2年(1862)に日本初のプロテスタントの会堂・英国聖公会会堂が建設されていた。居留地時代、日曜毎にたくさんの外国人がこの坂道を通り礼拝に行っていた。出島に住むオランダ人の影響だろう、開国し、オランダ人以外の外国人が長崎の町に移住した居留地時代を迎えても、長崎の人々は東洋人以外を「オランダさん」と呼んでいた。つまり「オランダさんが通る坂」という意味で居留地にある坂はすべてオランダ坂と呼ばれていたのだという。おそらく南山手に住んでいた多くの人々が礼拝の度に通っていたのだろう、石橋電停側の誠孝院(じょうこういん)前のオランダ坂がオランダ坂と呼ばれた第一号だといわれている。



<居留地にある坂はみんなオランダ坂と呼ばれていた>


●どんどん坂(どんどんざか/南山手町)
傾斜  約9度
認知度 ★★★★
分類  坂



馬渡外科医院前からマリア園への坂道。
どんどん坂周辺は居留地の風情が色濃く残る静かな佇まい。通りの道筋には数件の今も現役の洋館が現存し、古い石畳の脇には底がV字の形をした三角溝と呼ばれる溝がある。水流の速さを調節するために溝の形が上と下とで違うのがおもしろい。雨が降るとドンドン音をたてて流れるから通称・どんどん坂。雨のどんどん坂は長崎の異国情緒を代表する風景だ。



<近頃は観光客も多く訪れている>


西坂〜筑後町にある
歴史を感じる坂道

 

●西坂(にしざか/西坂町)
傾斜  約10度
認知度 ★★
分類  階段(石段)

<春徳寺から見て「西にある坂」で西坂>

NHK横、日本二十六聖人殉教地である西坂の丘(現・西坂公園)へ上がる坂道。
西坂の丘は、当時長崎の中心だった春徳寺後山の城の越(しろのこし)から見て西側にあり、浦上方面へ行く坂道だったので、古くから西坂と呼ばれていたのだという。昔は樹木がうっそうと茂る海に突き出た小さな岬でその高台に刑場があった。豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人は、慶長元年(1597)、この刑場で殉教した。この坂道は、昭和25年(1950)、ローマ教皇・ピオ十二世によってカトリック教徒の公式巡礼地と定められた西坂の丘へと続く。

●ヘイフリ坂(へいふりざか/筑後町)
傾斜  約26度
認知度 ★
分類  階段(石段)

 

寺町にある2ケ所のヘイフリ坂(前ページ参照)と同じ名称を持つのが東本願寺東側の石段。
近年、“弊振坂”と刻まれた碑が傍らに置かれた。字を見る限り語源は寺町のヘイフリ坂と同様のようだ。現在は、寺院が集中しているエリアといえば寺町だが、中島川対岸の区域が開拓される以前の一時期には、この辺りに寺院が集中していたのだという。寺町のヘイフリ坂と同様、名前の由来が“弊振坂”なのであれば、風頭山のように立山にも切り出すような石があったのだろうか? 今のところ不明。
<上には墓域が広がっている>

●玉園町の坂(たまぞのまちのさか/玉園町)
傾斜  約32度
認知度 ★
分類  階段(石段)

その名の通り玉園町にある玉園幼稚園前の坂。この坂を上ると筑後通りで、唐寺の聖福寺がある。昔ながらの和の佇まいが残る料亭・迎陽亭(こうようてい)跡の脇にあたるこの坂道は、かつて長崎のあちらこちらで見られていた石畳の石段。街中の坂道は車が通れるように変わりつつある中、昔の面影が色濃く残っている長崎らしい坂だ。


<風情ある石畳の坂道>


国際都市であった長崎の
歴史を感じさせる坂道

 

●悟真寺国際墓地の坂(ごしんじこくさいぼちのさか/曙町)
傾斜  約26度
認知度 ★★★
分類  階段(石段)

こちらもその名の通り、稲佐の悟真寺(ごしんじ)にある悟真寺国際墓地の中央の石段。
悟真寺は、キリシタンの町長崎に慶長3年(1598)に開かれた長崎最古の寺院。そして、寺の西側稲佐山の麓、斜面ではあるが広大な敷地に広がるのが悟真寺国際墓地だ。2002.3月特集『長崎に眠る異国の人々』
寺院も最古ならこの国際墓地も長崎最古。大浦、坂本の両国際墓地が長崎市の管理の元にあるのに対し、ここは寺の歴代住職によって守られてきた世界的にも珍しい国際墓地だ。後に興福寺、崇福寺、福済寺などの唐寺が建つまでは、悟真寺が長崎在留唐人の菩提寺だったため、中国人墓地が全体の3分の2を占めている。中国人のほかには、ロシア人、ポルトガル人、オランダ人、フランス人、イスパニア人、アメリカ人、インド人など、航海中の死者や長崎市内での死亡者が多く葬られている。稲佐山の中腹辺りまで続く坂道、最上部からの市街地を眼下に望む風景は素晴らしい。



<レンガ塀が続く石段>


被爆者の思いを綴った永井隆博士の
平和への願いを今に伝える桜並木道

 

●永井坂(ながいざか/城山町)
傾斜  約7度
認知度 ★★
分類  坂

 

2004.7月特集『城山小学校発! 未来へ繋げる平和への願い』で紹介した城山小学校の正門に上る坂道。この坂の右手にはコンクリート3階建ての被爆校舎が保存され、現在城山小平和祈念館として平和を訴えかけている。2004.8月ミュージアム探検隊『永井隆記念館(如己堂)』で紹介している医学博士であり作家の永井隆博士の著書『この子を残して』の印税から基金をいただき植樹した千本桜の木の一部があることから命名された坂道だ。昭和24年2月に寄贈された桜は、毎年春になると世界が平和になることを願っているかのように美しい花を咲かせ、花のトンネルがこの永井坂を彩るのだという。
<永井隆博士の願いを世界の人々へ伝える永井坂>


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