本邦初公開! 油屋町にあった大浦慶の屋敷跡





お慶が生まれ住んだ屋敷跡は、長崎市油屋町で、現在橋本ビルが建っている場所。お慶の破産後は、旅館・宝屋となり、その後この土地を買い取ったのは、明治5年創業、橋本商会の初代・橋本雄造氏。その後2代・橋本辰二郎氏(貴族院議員)の邸宅となった。
明治23年(1890)創設、明治憲法下で衆議院と共に帝国議会を構成した立法機関で上院の一種)
後に大浦屋の建物をいかし、清風荘という旅亭を4代・橋本和太八氏が経営していたが、屋敷跡は今より約40年程前に橋本氏の私邸へと移築された。

現在の橋本商会社長、橋本寛氏の協力を得て、大浦慶が住んだ屋敷跡をいかした現在の住居を拝見させて頂いた。




●全体の3分の1を移築

大浦屋の敷地は426坪だったという記述が残されているが、橋本氏によれば裏の敷地も含めて600坪近くはあったのではないかとのこと。
移築されたのは、全体の3分の1にあたる主に母屋の部分。現在も橋本氏の住居の中心となっている。




前述の通り、大浦屋は天保14年(1843)に大火にあっている。その後、お慶が製茶業で富みを得てから建てられた建物だと推定すると、移築当時で100年は優に越えた建造物。しかし、10年ほど前、煤(すす)がひどかったので専門の職人に頼んで磨きあげたため、まだ新しい建物のように感じられる。

橋本氏によると移築前の大浦屋は長い木塀に取り囲まれていたのだそうだ。そして、その長い木塀の中の庭園は樹木や石灯籠の配置も風趣に富んでおり、往年は、平庭では長崎一といわれていたという。

大浦屋の庭園に趣きを添えていたのが数多くの石灯籠だったようだ。大浦屋の表門を入ると左手に3mはあろうかという巨大な石灯籠があったそうだが、それを運搬するのはさすがに困難で断念したという。しかし現在、橋本氏の私邸の庭園には大浦屋から移築した11基の石灯籠が点在している。
大浦屋と配置は違うそうだが、木々に囲まれ配された石灯籠は庭園の趣きを更なるものにしている。










●和の趣きと洋の洗練が混在
1階には2間続きの大広間があり、1室には茶室用に炉が切ってある。

床の間脇の付書院(つけしょいん)の風流な花頭窓(かとうまど)に施された明り障子の繊細な障子格子は感動すら覚える美しさだ。
付書院(つけしょいん)/床の間の脇に設けた板張りで、縁側に張り出し、前に明り障子を立てたもの。 花頭窓/禅宗建築と共に日本にもたらされた上部が曲線状になっている形の窓。)



襖の取っ手は、大浦家の家紋であった「花菱」を縦にしたような形だ。



また、広間には、中央部にガラスをはめ込み、そのガラス部分に開閉できる小障子を組み込んだ猫間(ねこま)障子が配されている。おそらく大浦屋の屋敷だったころも、冬の寒い時期でもここから見事な庭園を眺めることができたに違いない。

縁側には一枚続きの畳が敷かれている。幕末の志士達との交流があったことが事実であれば、もしかしたら坂本龍馬もここを行き来していたのかもしれない。


2階へ上がる階段は桜の木で造られているという。階段の両側には備え付けられた手すり。程よい太さの横木の両端は重厚な銅製の止め具で止められている。



2階へ上がると和風様式の1階とは一変、洋風な造りが目立つ。意匠が施された階段脇の欄干、高い天井、大きな窓枠とすりガラスの窓。
ふと、明治41年(1908)に完成した旧英国領事館の建物内部を思わせる造りだ。





最後に特別にと見せて頂いたのが、大浦屋の土蔵。大浦屋には3つの土蔵があったというが、移築されたこの土蔵の扉は厚さ20cmはあろうかと思われる。ズシンと重い扉は時代劇の世界そのもの。ここにお茶を保管、貯蔵していたのだろうか? それはそれはりっぱなお蔵。
まさに、お慶は“蔵が建つ”程、大金持ちになったことを証明してくれる代物だ。



〈3/3頁〉
【最初の頁へ】
【前の頁へ】