それでは、浦上地区の信徒さん達が信仰の支えとしてきた浦上天主堂周辺の巡礼地へと実際に足を運んでみよう。


出発地点・大橋電停へのアクセスは次の通り。
●JR長崎駅からのアクセス
路面電車/長崎駅前電停から赤迫行きに乗車し、大橋電停下車。
バス/長崎駅前バス停から長崎バス溝川、桜の里、滑石、上床行きに乗車し、大橋バス停で下車。
長崎駅前バス停から県営バス純心高校経由の女の都入口・女の都団地行きに乗車し、大橋バス停で下車。
車/長崎駅前から約8分。

浦上天主堂周辺の巡礼地コース(約2時間)
●サンタ・クララ教会跡
●ベアトス様の墓
●帳方(ちょうかた)屋敷跡(如己堂・永井隆記念館)
●聖フランシスコ・ザベリオ堂跡
●聖ヨゼフ会堂跡
●十字架山
●聖マリア堂跡
●マリアの山
●カトリック本原教会
●小峰のルルド
●赤城聖職者墓地

●浦上巡礼コース詳細地図はこちら



●サンタ・クララ教会跡
 大橋電停から徒歩2分


ここは慶長8年(1603)、ポルトガル船の船員達の寄付によって建てられた教会跡。弾圧によって元和5年(1619)に建物は破壊されたが、その後も浦上の潜伏キリシタンの信仰の支えとなってきた場所だ。
信徒発見の出来事でプチジャン神父と心が通じた浦上の潜伏キリシタン達が、大浦天主堂の巡回教会として密かに神父を迎え、洗礼を受け、要理の勉強をするために設けた秘密教会の一つが、このサンタ・クララ教会跡地にも建てられた。現在、国道206号線大橋のたもと(浦上天主堂側)に記念碑が建てられている。


●ベアトス様の墓 サンタ・クララ教会跡から徒歩5分


キリシタン弾圧の頃、本原郷小峰(現石神町)に、百姓のジワンノ(ジョアン)ジワンナ(ジョアンナ)夫妻とミギル(ミカエル)という親子3人がいた。この一家は信仰と徳によって、キリシタンだった浦上村の村人の尊敬と信頼をあつめていたので、役所は一家を改宗させて村人達を背教に導こうと見せしめのために水攻めにした。しかし彼らは背教しなかったので、この地で火あぶりの刑にされ殉教したのだという。
生命をかけて神への信仰と愛に生きたこの一家の精神を村人達は忘れず、9世代350年もの間、ここを「ベアトス様の墓」として大切にしてきた。ちなみにベアトはポルトガル語で神のみもとで永遠の至福に入るという意味で、ベアトスはその複数だという。この墓碑は山里小学校下、橋口町にある。


●張方(ちょうかた)屋敷跡(如己堂・永井隆記念館) ベアトス様の墓から徒歩6分




長崎大学放射線科の教授、永井隆博士終焉の地として知られる如己堂がある場所は、潜伏キリシタン時代の指導者である張方屋敷跡だった。帳方とは司祭の助力なしに教義、儀式の維持と伝承につとめる互助組織で、浦上ではサンタ・クララ教会を世話していた看坊孫右衛門によって組織された総頭(そうがしら/帳方)、触頭(ふれがしら/水方)、聞役の三役体制の最高責任者・総頭のこと。帳方は最高責任者として日繰り(教会暦/バスチャンごよみ)を所持して年間の祝日や教会行事の日を繰り出し、祈りや教義を伝承していたという。ちなみに水方は洗礼を授ける役で、聞役は水方を補佐して日繰りなどを各戸に伝えるものだった。初代帳方は孫右衛門がなり、これを代々子孫が受け継ぎ、安政3年(1856)、浦上三番崩れでミギル吉蔵が検挙されるまで7代続いた。



●聖フランシスコ・ザベリオ堂跡 帳方屋敷跡(如己堂・永井隆記念館)から徒歩2分


4つの秘密教会の一つ、聖フランシスコ・ザべリオ堂跡。慶応3年(1867)7月15日午前1時、幕府の捕方がここへ押し入り、泊まっていた守山甚三郎と松田喜助という人物が捕らえられ、各地で捕らえられた68人の信徒と共に桜町の牢に打ち込まれた。このことが全村総流配となった浦上四番崩れへとつながったとされる。帳方屋敷跡から平和公園方向へ進み、左手2本目の道筋にある。


●聖ヨゼフ会堂跡 聖フランシスコ・ザベリオ堂跡から徒歩18分



4つの秘密教会の一つ、聖ヨゼフ会堂跡。この地は潜伏キリシタンのリーダー的存在、高木仙右衛門の屋敷だった。その後、仙右衛門と次男・敬三郎は寝込みを襲われ捕われる。これも浦上四番崩れへとつながった出来事だ。また、仙右衛門の長男・源太郎は、キリシタン復活後、日本最初の邦人司祭となった人物だ。


聖フランシスコ病院前バス停前にある片岡酒店脇の道路をうみのほし保育園方向へ。右手、レンガ塀のお告げのマリア修道会敷地内にある。


●十字架山 
聖ヨゼフ会堂跡から徒歩10分



明治14年(1881)、当時の浦上教会主任プト師を中心として流配から生き残って帰ってきた信徒達によって築造された浦上キリシタン殉教の歴史を語る道標であり、信仰の遺産でもある十字架山。当時信徒達は競って労力奉仕をし、十字架山にある大十字架の台石は60人の屈強な男達によって本原郷「いしがみ」の石切り場から7日間を費やして頂上まで運び上げられたといわれている。昭和25年(1950)、当時の長崎教区長・山口愛次郎司教がローマを訪問。教皇ピオ十二世に謁見の際、十字架山は公式巡礼地に指定された。栄誉ある祖先の遺徳を偲ぶ聖地として巡礼者が絶えない場所。
聖フランシスコ病院前の道を隔てた方の聖フランシスコ病院前バス停わきの石段を上りきった場所にある。





●聖マリア堂跡 十字架山から徒歩5分


4つの秘密教会の一つ、聖マリア堂跡。慶応3年(1867)7月15日早朝、最後の水方(当時、神父の代わりに洗礼を授けていた人)を務めた又一という人物の家の裏山にあったこのお堂では、ロカイン神父を迎え朝の礼拝が行なわれていた。ところが、とうとうここにも幕府の手がまわり、ロカイン神父は難を避けたが、又一の子どもで、伝道士を務めていた友吉は捕らえられ、他の信徒153人と共に津和野に流配されることになった。ここもまた浦上四番崩れへとつながった場所といえる。


●カトリック本原教会 
聖マリア堂跡から徒歩10分



昭和27年(1952)、浦上小教区に属していた本原のクラブを仮聖堂として発足。聖フランシスコ会が昭和34年(1959)に現在地に修道院を設立し、翌年、本原小教区新設に際し司牧を委託された。昭和37年(1962)5月、現在の円形の新聖堂献堂。教会入口には、日本二十六聖人である聖ペトロ・バプチスタの銅像が浦上一帯を望むように建てられている。




●マリアの山(一本木山) 本原教会から徒歩2分



聖フランシスコ修道院の手で聖母像が建設され、マリアの山と呼ばれるこの一本木山は、潜伏キリシタンが密かに集まり祈りを捧げた場所。浦上四番崩れが始まった時、ロカイン神父はこの山に隠れ、信徒達に秘跡(キリストによって定められた恩恵を受ける手段)を授け、「旅」の前には殉教に耐えるように精神的準備をさせた場所といわれている。また、往時マリアの山の中には、清い泉が湧き出ていて、迫害時代からプチジャン神父の頃までこの泉の水を使って洗礼を授けていたという。カトリック本原教会の敷地内にある。


●小峰のルルド マリアの山から徒歩20分



フランスのピレネー山脈北麓にあるルルドで、19世紀半ば、羊飼いの少女ベルナデッタが聖母マリアを目撃し、奇跡が起こったという泉がある巡礼地にちなんだ場所。この地は現在でも多くの信徒たちが信仰の場所としている。(188-8823)聖フランシスコ病院前バス停前にある酒屋を目印に、聖フランシスコ病院側に坂を下り、川沿いを左に折れ20m程の所にある。


●赤城聖職者墓地 小峰のルルドから徒歩10分



旧本原郷の墓地であるこの墓域には、キリシタン復活後、長崎教区の司牧にあたった歴代の司教・司祭の墓地(明治28年(1895)に司祭叙階1年半足らずで、遭難した司祭のために墓碑が建てられたのがはじまり)や、キリシタン史学の大家・片岡弥吉氏の墓がある。小峰のルルドへ向かった川の場所から坂を上り、右手、本原自動車学校脇の道筋を下った場所にある。


〈3/3頁〉
【最初の頁へ】
【前の頁へ】