●浦上村に存在した
 4つの秘密教会

7世代待ち望んだ神父との出会いを実現した浦上の潜伏キリシタン達は、すぐに要理(キリスト教の教え)を学ぶために浦上村の4ケ所に秘密教会をつくった。


『秘密教会想像図』
浦上天主堂写真集より

西田さん「禁教中だったため、神父様が私の方から出向いて来るとおっしゃったんだそうです。秘密教会の外見は、藁葺き屋根の人家同様のもので、堂々とは礼拝できないから遠くから拝んでいたんじゃないかと想像されています。ここで大浦天主堂の巡回教会として密かに神父を迎え、洗礼を受け、要理の勉強をしていたんです。信徒発見から100周年を迎えた記念にこの秘密教会跡4ケ所に記念碑を建てました。(サンタ・クララ教会堂跡、聖フランシスコ・ザべリオ堂跡、聖ヨゼフ会堂跡、聖マリア会堂跡)」


サンタ・クララ教会堂跡



●最大の弾圧事件
 「浦上四番崩れ」

しかし、日本はまだ禁教時代、この「信徒発見」の出来事が、浦上信徒に最大の迫害を呼び起こす。

西田さん「多くの人々が浦上から毎日のように大浦天主堂を見に行ったことで奉行所が“これはおかしい”と隠密(スパイ)を派遣していたんですね。すると当時浦上村には馬込郷、里郷、中野郷、本原郷、家野郷と5つの郷があったんですが、馬込郷(現在の銭座町辺り)以外は全員がキリシタンだったわけですよ。そこで幕府に報告され浦上最大の迫害を招くことになりました。」
 

これが、明治元年(1868)の浦上四番崩れ。浦上村民総流配(流罪)が決定され、村民3394人が20藩22 ケ所に流配された。

西田さん「“崩れ”とは、検挙されることです。※浦上崩れの一番から三番までは噂や密告が主流で、1回につき12〜16名が奉行所に検挙されました。しかし、四番崩れはこれらとは性質が違います。禁教時代、浦上の潜伏キリシタン達は仏教徒を装っていました。その多くが銭座町・聖徳寺の檀家だったようです。しかし、信徒発見の出来事があってからは開き直って、寺では葬儀をあげたくないと絶縁状を叩きつけたんです。この寺との関係をやめようとしたことが決め手となり、浦上四番崩れへとつながったんですよ。」
(※浦上一番崩れ/寛政2年(1790)、浦上二番崩れ/天保13年(1842)、浦上三番崩れ/安政3年(1856))

秘密教会へ神父が訪れてくれるようになり、浦上の信徒達はしだいに自信を持つようになり公然と信仰を表明するようになった。もう黙っていることはできなかったのだろう。

流配の期間は短くて4年、長くて6年。人数が多かったため、順に流されて行ったのだという。突然に明日どこそこに行きなさいと言われ、着の身着のままということもあった。
浦上信徒達はこの流配のことを“旅”と呼んだ。




●西田さんの祖母が語った
 「旅」(流配)での話

西田さん「実は、私の祖母は6歳の時に和歌山に流されたんです。幼い頃から祖母に聞かされてきたのはこの時の話でした。ほとんど忘れてしまいましたが、忘れられない話がひとつあります。
それは祖母の父(西田さんにとっては曾祖父)が亡くなる前日のことです。祖母達家族は馬小屋にむしろを敷いただけの場所に入れられ、そこはトイレもなくたれ流しの状態だったそうです。ある日台風で胸までつかるような大水が入ってきて、一時高台へ移動させられ、水が引いたらもどされました。そして多くの人が次から次と高熱を出し死んでいく中、曾祖父も40度近くの熱が出て、今にも死にそうになりました。その時、曾祖父は最後に水が欲しいと言ったそうです。子どもは小屋の出たり入ったりが許されていたので、母は役人のところに“水を一杯下さい”と言いに行きましたが、役人からこう言われたそうです。
“キリスト教をやめれば、水どころかどんなご馳走でもあげるけど、やめないのであれば水もあげられない”
小屋に戻ってくると、まだ幼かった母はその役人の言葉を言われた通りに伝えたそうです。
すると曾祖父はこう言いました。
“浦上を出る時に命は捧げている。死ぬ時に水を一杯飲んで背いて死ぬよりも、飲まずにそのまま命を捧げたい”。そう言い残して翌日亡くなったそうです。
何度となくこの話を聞かせてくれた母は、“お父さんが天国に行ってないなら誰も行っとらん!”というのが口癖でした。」

明治6年(1873)、世界の世論に屈した明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去する。迫害に苦しみ、流配先で660人が殉教。しかし、163人の新たな命も生まれていた。
長く苦しい日々に耐え、浦上の信徒達は“旅”から帰ってきた。

西田さん「旅から帰ってきた時、自分達の家はほとんどがあばら家になっていたそうです。帰る時には明治政府から少しのお金を持たされたそうですが、以前耕していた畑も荒れ、田畑を耕しても当然すぐに食べるものもできない。母達は一日がかりで外海(そとめ)まで干したイモ、それも賞味期限がきれたような古いものを買い出しに行っていたそうです。食べ物には相当困ったと言っていました。」



●真っ先に欲しいのは
 神の家・教会

しかし、信徒達が何よりも欲したものは、魂のよりどころである神の家・教会だった。
当時、浦上の信徒数は約5000人。本聖堂建立の願いが高まった明治13年(1880)、村を取りまとめていた村長的役割の旧庄屋屋敷が売却されることになった。ここは村の中央の丘で場所もよく、何より約250年7世代浦上村民の信仰の取り締まり、特に潜伏時代には信徒達が踏絵を強制された場所。ここに聖堂を建て踏絵の赦(ゆる)しを祈るには最も適した場所だと、時の主任司祭プワリエ神父は信徒達と相談して土地と建物を買い取った。

西田さん「当時の信徒達からお金を集め、米一俵(60キロ)が2円64銭だった時代、わずか1600円で購入したそうです。」

しかし、信徒達は旅の傷跡が深く、庄屋屋敷の買収がやっとだったため、庄屋屋敷跡を改修し、仮聖堂として用いることになった。本聖堂建設のため、明治35年(1902)に聖堂裏手の東側に移築され、本聖堂ができる大正4年(1915)まで仮聖堂として用いられた。
その後は要理教室(今でいう教会学校)として使用していたが、原爆で焼失した。


『元庄屋屋敷仮聖堂』
浦上天主堂写真集より

西田さん「幼い頃、学校が終わるとカバンを放り出し、すぐにカトリックの教えを勉強する要理教室へと通っていましたね。」



東洋一の大聖堂・旧浦上天主堂と
 被爆から甦った新浦上天主堂

旧浦上天主堂は、「旅」から浦上に戻ることができた1883人の信徒達が中心になって建設が計画され、当時の主任司祭、フレノ神父が設計施工し、明治28年(1895)に建造開始。信徒達が力を合わせて工事を進めた。1914年(大正3)に未完成のまま献堂式が行われたが、それは仮聖堂では日曜のミサ毎に信徒達が堂外に溢れるようになったからだった。その後も整備が続けられ、起工から30年後の大正14年(1925)、正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘がつけられた、石と煉瓦造りのロマネスク様式では東洋一の大聖堂が完成。浦上信徒の苦難と信仰の象徴となった。

西田さん「30年もかかったのは、資金が足りなくて工事が途絶えがちになったからなんです。」

しかし、長い年月をかけて建てられたこの建物は昭和20年(1945)の原爆によって全て倒壊。浦上天主堂は爆心地から0.5kmに位置していて、一瞬のうちに爆風で全壊したのだ。
浦上一帯は焼け野原となり、当時の浦上教区信徒約12000人のうち約8500人が命を失った。
そして被爆後、昭和21年(1946)には木造仮聖堂が建てられる。 

西田さん「被爆当時、浦上の信徒達は畳一畳程度の犬小屋同然の家に住んでいたんですが、真っ先に仮聖堂を建てようと動きだしました。ところが、浦上周辺の木々はみんな焼け焦げて緑はまったく無いんですよ。それで木材を求めて金比羅山まで行き、裏山から資材を運んできて木造仮聖堂を造りました。」

木造仮聖堂が建てられてから13年後の昭和34年(1959)、鉄筋コンクリートの近代様式とロマネスク様式を混合した新しい天主堂が甦り、教皇特使フルステンベルク大司教によって聖別(神聖なものとして区別すること)された。そして、昭和37年(1962)、大司教区座聖堂(カテドラル)に指定。これは長崎教区で唯一の聖別された聖堂で、かつ最大の教会であること。そして浦上が長い信仰伝承の地であり、キリシタン復活も浦上信徒によって実現したという由緒あるものだった。
しかし、再建された天主堂はまだ全て完成したものではなかった。当時は建築資金も不足がちで、音響装置、窓ガラス、天井、壁面などの装飾的完成はその後の課題として残されていたのだ。

そこで教皇ヨハネ・パウロ二世の訪日要請の動きを機に、天主堂改修の機運が高まり、昭和55年(1980)、外壁にレンガタイルを張り付け、外国製の5色のステンドグラスを用いたバラ窓を新しくし、原爆の遺品となった「悲しみの聖母像」と「使徒聖ヨハネ像」とを正面の両袖に配した新しい浦上天主堂が完成した。
そして、創建当時の双塔にそれぞれつるされていたアンジェラスの鐘は、爆風によって左片方の鐘楼が吹き飛ばされたため、奇跡的に現存したひとつの鐘だけが、現在右の塔に吊るされている。

西田さん「幼い頃、祝い事を知らせる鐘が“カランコロン”と鳴るのがとても嬉しかった記憶がありますね。」

フランス製の鐘の響きは余韻が残る。
原爆以前は、双塔にそれぞれ違う音を奏でる鐘が吊るされていたため、“カランコロン”という美しい音が響いたのだという。
現在は右の塔にのみあるアンジェラスの鐘。
残されたひとつの鐘が浦上信者の過去と現在の信仰の形を、未来へと繋げるように今日もまた、同じ時刻に鳴り響いている。


アンジェラスの鐘


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