●センスは持って生まれたもの?上野彦馬撮影の人物・風景たち

彦馬の人物写真は「ナダール風」というフランスの肖像写真に近いといわれている。
それは彦馬を指導したフランス人写真家のロシエの影響と安易に考えがちだが、実際には絵師の家に生まれた彦馬自身の絵画的センスが大きいという。
集合写真での人物配置にも定評があったそうだ。
また彦馬の写真は時代ごとに光りの使い方が違い、常に撮影技術の進歩がうかがえるのだとか。
絵師の家柄と勤勉で努力家の血筋が写真の始祖・上野彦馬を作り上げたようだ。

1.坂本龍馬ほか幕末の志士たち


創業当時は「写真が人の精気を吸い取る」という迷信から、長崎在留の外国人が主な客だったらしく、トーマス・B・グラバーや来日したロシア皇帝のニコライ二世(当時は皇太子)、ド・ロ神父などをカメラに収めている。


しかし幕末から明治にかけて、彦馬はまだ無名だった志士を多く撮影する。
松本良順勝海舟伊藤俊介(博文)高杉晋作、そして坂本龍馬
彼らは次々に上野撮影局を訪れ評判になったという。
吉田松陰の松下村塾の門下生だった高杉晋作は、長崎に出張した際わざわざ上野撮影局を訪ね撮影してもらったのだとか。
あまりにも有名な坂本龍馬の肖像写真は龍馬の晩年をとらえた一枚。


〈坂本龍馬の肖像写真〉



2.日本初の天体観測写真と報道写真


明治7年(1874)12月、金星が太陽面を通過するという天文現象が起こり、その際最適な観測地にあたる日本に各国の観測隊が来訪。
彦馬は天文学者ダビッドソンを隊長とするアメリカ隊に依頼され、長崎の大平山山頂(現在の星取山)で約50枚の撮影に成功した。
また、明治10年(1877)の西南戦争の際には日本政府の要請で熊本・田原坂(たばるざか)を中心に撮影、200枚前後の写真を残している。
彦馬は報道写真家の先駆けでもあるのだ。
ただ、彦馬撮影の「戦争写真」には戦死者の姿をとらえたものは全くない。
これは現代との大きな違いである。


3.上野撮影局と中島川上流の写真


長崎に残る古写真にはベアトという写真家の写真が多く残されている。
彼はイギリスに帰化したイタリア人フェリックス・ベアトで、文久3年(1863)春頃に来日し、慶応元年(1865)横浜の外国人居留地に商業写真館を開業。
来日する外国人はもちろん、様々な職業の日本人を撮影した写真家だ。
日本各地を旅行して幕末から明治期の風景・風俗・建築をカメラに収めているベアトは、4回程、長崎を訪れている。
外国人居留地や上野彦馬宅を背景にした中島川の写真を撮影しているほか、上野撮影局で使用していた椅子を用いた写真も残されていることから彦馬との交流があったと推測される。
彦馬は独自の現像法を用い、鮮明かつ退色が少ない写真技術を持っていたベアトの影響を大きく受けているに違いない。
それは上野彦馬宅を背景に中島川上流を撮影したベアトと同じアングルを彦馬も後に撮影していることからもうかがえる。



中島川上流(1864年・ベアト)
【長崎大学付属図書館所蔵】

中島川上流(明治中期・彦馬)
【長崎大学付属図書館所蔵】



4.移り変わる長崎港の風景写真(取材DATAへ


彦馬は南山手や小島の丘など、絶好のロケーションである港を取り囲むいくつかの高台から長崎港の風景をとらえている。
三菱重工業株式会社長崎造船所 史料館には、明治5年(1872)、彦馬が撮影した長崎港と長崎製鉄所の写真が展示されている。
造船の歴史とともに移り変わる長崎港の風景。
4枚綴りの超パノラマ写真は彦馬が生きた時代の美しい長崎港の姿を現代に伝えてくれている。



三菱重工業株式会社長崎造船所史料館

史料館内の4枚綴りの超パノラマ写真



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(ギャラリー協力:扇精光株式会社)


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【1.上野彦馬ってどんな人!?その人物像と功績に迫る】
【2.センスは持って生まれたもの?上野彦馬撮影の人物・風景たち】
【3.彦馬ゆかりのスポットで記念撮影にチャレンジ!】


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