●彦馬ゆかりのスポットで記念撮影にチャレンジ!

幕末から明治期の長崎に生きた上野彦馬。
彼が目にし、シャッターを切った風景は、今はもうほとんど残されていないが、彼の努力のたまものともいうべき「写真術」はプロに限らず多くの日本国民に息づいている。
さてそれでは、長崎にわずかに残る彦馬ゆかりの地を訪ね、お手持ちのカメラで記念撮影といきましょう。
くれぐれも敬意を忘れず、アングル、光りの調整にもこだわってくださいね。

1.彦馬の写真世界が広がる古写真資料館(取材DATAへ


石橋電停から入ったオランダ坂途中、東山手洋風住宅群の7棟の内、3棟を利用した古写真資料館では、彦馬の偉業と日本における写真の歴史を紹介するとともに幕末から明治期の貴重な写真資料を展示している。
上野撮影局初期の屋外写場の再現スペースや、当時の撮影風景の模型、彦馬が作った写真機を再現したものなど、興味深い展示物が並ぶ。


また眼鏡橋、出島、外国人居留地、そして長崎港など現代の風景と照らし合せても楽しめる写真が盛りだくさん。
長崎の町歩きの前に立ち寄ってほしいスポットだ。
ここでは館内の撮影は禁止。
洋館群の前で記念撮影をしよう!






2.長崎県立図書館前に建つ彦馬の胸像


昭和9年5月、新大工町中島川河畔の上野彦馬宅跡に石碑を建て像も作られたが、昭和20年の戦災で破壊したため、昭和26年5月に長崎写真師会が再建。
諏訪神社に隣接した諏訪公園下の緑に囲まれた県立図書館前に静かに建っている。
晩年の彦馬の面影が忠実に再現された写真術の始祖の胸像に一礼してパチリとシャッターを切ろう。




3.中島川の畔の上野撮影局跡(上野彦馬宅跡)


中島川に架かる石橋群のひとつ、阿弥陀橋の上流に架かるコンクリート橋「ぜにやばし」から上流方向へ約10メートル。
電車通りに面した立体駐車場があるこの場所が上野撮影局跡地だ。
現在は中島川沿いの一角に「上野彦馬宅跡」の石碑が建てられている。
上野撮影局は、横浜の下岡蓮杖と並び日本最初の営業写真館だった。
文久2年(1862)の開設から20年後の明治15年(1882)、家屋を新築した際、彦馬は採光のために天井をガラス張りにした洋風のスタジオを設置。
この頃には一般庶民の利用客も増え、このスタジオは「ビードロの家」と呼ばれ親しまれていたという。
当時この川沿いは肖像写真を撮るためにお洒落をした多くの人々が行き交っていた。
当時のことを思い描きながら記念撮影はいかが。





4.彦馬のファーストショットを撮った興福寺山門


彦馬が自作の写真機で最初に撮影に成功したのが、興福寺の山門といわれている。
この時のモデルは松本良順
白粉を顔いっぱいに塗られ、露出の関係で5分以上、ジィーッと立っていたのだとか。
ちなみに興福寺の山門は現在まで修復されていないので、彦馬が撮影した時と同じなのだ。




5.幕末の志士たちの写真を展示した亀山社中跡(取材DATAへ


寺町通り、禅林寺と深崇寺の間から続く「龍馬通り」
坂本龍馬をはじめとした亀山社中の同志たちが、どこへ行くにも上り下りしていたというこの通りを風頭山めがけて上る。
すると、慶応元年(1865)に坂本龍馬が設立した日本最初の貿易商社・亀山社中跡の遺構があり、ここには幕末の長崎の様子がうかがえる風景写真や、人物写真、資料など、約150点ほどが展示されていて、その中には彦馬が撮った写真も多く見られる。
さて、彦馬の肖像写真の腕前はいかに。





6.彦馬が眠る風頭山の上野家墓地


寺町、晧台寺後山の最後部にある上野家の墓。
この付近一帯には江戸時代後期の地役人で砲術家の高島秋帆など長崎の著名人の墓が集中しているが、御用時計師の幸野家の初代から5代までの墓もある。


幸野家は初代吉郎左衛門の父、良慶の時に上野家から分かれた分家といい伝えられていて吉郎左衛門は将軍家の大時計の修理を行ったといわれている。
近くの風頭公園には坂本龍馬の銅像も建っている。
見晴らしのいい高台は、彦馬永眠の地にふさわしい場所かもしれない。
お墓に手を合わせ、長崎港をバックに写真をどうぞ。


 

晧台寺後山(寺町)にある上野家の墓



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【1.上野彦馬ってどんな人!?その人物像と功績に迫る】
【2.センスは持って生まれたもの?上野彦馬撮影の人物・風景たち】
【3.彦馬ゆかりのスポットで記念撮影にチャレンジ!】


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