●日本最古の国宝・大浦天主堂 隠れた観覧のポイントはコレ!●

少しひんやりとする天主堂内に入ると、一瞬にして荘厳な空気に包まれる。
ステンドグラスを通して入り込む柔らかな七色の光りは、自然と心を落ち着かせ、ここが神聖な場であることを身体に瞬時に感じさせる不思議な力を持っているようだ。
決してこの雰囲気を邪魔せず一定のトーンで語られる解説ナレーションが、大浦天主堂の歴史や堂内の装飾についてレクチャーしてくれるので、しばらくイスに腰をおろして耳を傾けてみよう。


創建時の正面大門扉に注目!


正面主祭壇奥の「十字架のキリスト」像を描いたステンドグラスに目を奪われがちだが、入堂したらすぐに後ろを振り返って。
内側にある両開きの板扉は、平成14年の修復工事によって補修されてはいるものの、創建時からのもので、その位置も同じ場所にあったものらしい。
その重厚な扉は、ステンドグラスから差し込む光りの輝きで、目立たない影の存在だが、この大浦天主堂で起こった信徒発見の歴史的瞬間を見守った代物なのだ。




壁面の石碑、実は墓碑




中央の通路を主祭壇の前まで進んでいこう。
右側壁面にはめ込まれた蝋(ロウ)石版碑が目にとまるだろう。
これは大浦天主堂を建立し、旧キリスト教徒の子孫を発見し、日本カトリック教会を復活させた故プチジャン神父の墓碑。
遺体は、祭壇の真下である地下に安置されているのだとか。
プチジャン神父がこの大浦天主堂に眠っておられることはあまり知られていないことだ。
天主堂に上る途中左側にある庭園には偉大なプチジャン神父の銅像も建てられている。



小さなマリア像が第一発見者?


これがかの有名な信徒発見のマリア像
浦上のカクレキリシタン達がプチジャン神父に「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ね、信徒発見のきっかけとなったマリア像だ。
世界宗教史上、類まれなこの出来事がこのマリア像の前で起こったため、この聖母子像は『信徒発見のマリア像』と呼ばれるようになった。
向かって右側の脇祭壇に飾られているこの像は、創建当時にフランスから持ってこられたものだ。




感動の場面を再現したレリーフ


プチジャン神父の銅像がある庭園には、ほかに日本人神父の誕生を記念して作られた十字架、ローマ法皇が来崎された記念の胸像、そして1965年、信者発見百周年記念として建立されたレリーフがある。
このレリーフには全世界を教歎させた信徒発見の場面が再現され、往時の様子がイメージできる感動的なものだ。




温かく出迎えてくれる日本之聖母像


現在、入り口中央におかれているこのマリア像は、日本に数多くのカクレキリシタン達がいたというビッグニュースが全世界に伝えられた後、フランスからその記念に贈られてきたもの。
プチジャン神父はこの像を最初、1865年の6月2日に天主堂の門前に据付、日本信徒発見の記念祭典を盛大に催したのだそうだ。
その後、改築で聖堂を2倍の大きさに広げられたときに、現在のように入口正面に据付けられた。


「日本の聖母という称号は、いま新たに聖母に捧げられたからというのではなく、日本の教会は初めから聖母のご保護の下にありました。」「教皇様が困難なこの国の布教を私に信託されたときに、私は我が身も、我が教会もすべて慈悲深い聖母に捧げました。」ということから、プチジャン神父が命名されたものらしい。
慈悲深い表情を浮かべた美しいマリア像は、いつも訪れた観光客を温かく出迎えている。



祈りの空間を生み出すステンドグラス


フランス北部を中心とする各都市の中心に位置するゴシック大聖堂では入り口上部にうたがれた巨大な円形のバラ窓をはじめ、高窓の全てにステンドグラスが用いられた。
大浦天主堂も同様にゴシック様式が用いられている。
しかし、何と言っても代表的ステンドグラスは正面祭壇奥に掲げられた『十字架のキリスト』像
これは1865年、天主堂建立を記念してフランスのマン市のカルメル修道院から寄贈されたもの。


十字架上のキリストとその右に立つ聖マリアが描かれている。
日本で最も古いものに属すると言われていたのだが、原子爆弾の爆風を正面に受けたため大破。
現在のステンドグラスは戦後の復旧工事でパリのロジェ商会に発注したものだ。
後・側廊や高窓には色とりどりのステンドグラスがはめ込まれている。
側廊や脇祭壇の高窓の部分は創建当時ものも残されているが、1879年に改築された際のもの、次に1945年、原子爆弾によって入り口上部、祭壇奥が大破し戦後に修復されたもの、そして1990年の台風災害により破損した部分を補修したものと、大浦天主堂のステンドグラスは3度修復されているため、例えば同じ赤でも少しづつ微妙に違うので、よくよく観察してみよう。



建立以来、南山手に鳴り響く鐘




天主堂の後方にあり、一般の人は入れない場所にあるため、ほとんどの人は目にしたことがないに違いない。
聖鐘は朝顔型の青銅製。
この聖鐘の作者の伝来については、1865年、フランス人の信仰厚きカトリック信者から匿名で寄贈されたものなのだとか。
聖鐘にはフランス語でこう刻まれている。

「私はクロチルド・アドルク・ルイズという名前です。
1865年、フランスのマン市に生まれ、その地の司教シャルル・ジャン・フィリオン台下に聖則されました。
私の代父はシャル・ジャン・アドルク・ド・ルジュ男爵で、代母は、アンナ・クロチルド・ドロリエル夫人でした。
ボウル・ベル父子が私の鋳工であり、調律師です。」


この聖鐘は大浦天主堂建立以来ずっと鳴らし続けられているが、以前は人力で引っ張って鳴らしたのに対し、現在は自動で昼の12時と夕方6時に「お告げの鐘」として鳴らされている。
第二次世界大戦中、多くの梵鐘が供出させられたにも関わらず、大浦天主堂は戦前より国宝だったため、供出を免れた由緒ある聖鐘だ。



ド・ロ神父設計の旧羅典(らてん)神学校




大浦天主堂すぐ横にある建物にも注目したい。
天主堂奥、木造三階建ての旧羅典(らてん)神学校は、明治政府のキリスト教禁令廃止を契機に、明治8年(1875)、プチジャン神父が日本人聖職者育成を目的に設立したもの。
校舎兼宿舎として使用され、その後は司祭館や集会場にも利用されたという。
設計・施工はキリシタンの里として知られる外海(そとめ)地方の主任司祭として出津(しつ)に居住し、「ド・ロ様」と呼ばれ親しまれたド・ロ神父だ。
実用的で素朴な造りが特徴で、構造は木骨煉瓦(れんが)造り。
木造の壁にコンニャクレンガを積み、目地には天川漆喰(しっくい)、建築金物の使用など、西欧建築技術をふんだんに導入した建物だ。
昭和47年に国指定重要文化財に指定されている。
現在1階は、長崎のキリシタン史をわりやすく解説したキリシタン資料室として多くの展示物を公開している。



コルベ神父も居住したカトリック長崎大司教館


旧羅典神学校の手前にどっしりと構えるのが、大正3年(1914)にこちらはド・ロ神父の指導で長崎県内の数多くの教会堂を手掛けた鉄川与助が設計・施工を手掛けたカトリック長崎大司教館
この建物も文化庁の方から文化財に指定したいと度々視察が行なわれているが、現在は神学校として機能しており、大学過程の学生や神父様が住んでおられるのでお断りしているのだとか。


ここには、アウシュビッツ強制収容所で死刑を宣告された若者の身代わりとなって餓死刑室に送られ殉教したことで知られるコルベ神父が、来日してすぐの1〜2年、2階の一室に住んでいたのだそうだ。
コルベ神父に関する資料はキリシタン資料室で展示しているので、ぜひ立ち寄ってみよう。

旧羅典神学校と共に長崎現存の最高レベルの洋風建築の一つであるカトリック長崎大司教館。
中に入ることはできないが、天主堂にまっしぐらにならないで外からしっかり見学しよう。



キリシタンの資料といえば


踏み絵などのキリシタン資料が、グラバー園出口側の南山手十六番館・歴史資料館に展示されているのでぜひ訪れてその目で観てみよう。


また、この資料館にある踏み絵にインスピレーションを感じ、執筆されたという小説『沈黙』の作者・遠藤周作は、自らがカトリック信者であることから数多くの切支丹(キリシタン)小説を執筆している。
カクレキリシタンの里であった美しい景観を誇る外海町にある、遠藤文学に関わる資料や愛用品などを展示した遠藤周作文学館へも足を運んでみることをおすすめしたい。
わかりやすく展示された彼の作品を通して、殉教の様子やカクレキリシタンの心情などが伝わって来るはずだ。


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