3.桃渓橋〜高麗橋〜阿弥陀橋〜中通り側の復路を歩く

大井手橋から歩いて行くと、中島川の本流と支流の西山川の2つに分かれる。
この電車通りへ出る一つ前の西山川に架かっているのが桃渓(ももたに)橋


昔は河畔に桃の木がたくさんあって、桃の名所として有名だったそうだ。
大水害の時に半壊し復元されたこの桃渓橋辺りの川沿いには、今なお民家が建ち、昔の面影を残す唯一の場所になっている。

橋下に下りてみると、流れる水の音が間近に迫り、新緑と昔ながらの石造りの橋に心和まされる風景が広がる。

この橋を挟んだ2ケ所には、唐船の安全を祈願した唐船安全祈願塔が建っている。


昔は唐船から下ろされた荷物を積んだ小舟がこの辺りまで漕いで上り、荷役に従事していたのだとか。
桃渓橋を渡ると長崎三社の一つで長崎神前結婚式の始まりといわれる「伊勢宮」が左手に見えてくる。



この向かいの橋が、高麗橋
豊臣秀吉の朝鮮の役後、長崎に移住した朝鮮高麗の人たちは、最初現在の鍛冶屋町あたりに住み、高麗町といった。
後に現在の伊勢町に移され、新高麗町となったことから、橋の名前を高麗橋というようになった。



そして今回の折り返し地点である阿弥陀橋
その昔、死刑囚が市中引き回しの途中必ず渡らなければならなかった石橋で、橋際に阿弥陀堂が建てられ、この橋を渡る囚人たちが来世は極楽に生まれるようにと結縁されたのでこの名前が付いたのだとか。
高麗橋、阿弥陀橋共に車道の役割が大きく、片側が大きな曲線を描いているのが特徴だ。
こんな橋、あまり見たことない!



阿弥陀橋の脇に中島川河童洞というお堂(水神社)を発見!
かっぱ地蔵のほか、いろんな表情のカワイイ河童像に出会えるので立ち寄ってみよう。


こぼれ話●「カッパ伝説」

カッパの伝説は日本でも九州が一番多く、カッパの本場だと言われている。
中島川にもカッパ伝説が残されている。
昔、中島川の畔に水神様があったが、水神様の家来であるカッパの数がどんどん増えて人間にいたずらをするようになった。



そこで水神様の神主が毎年6月15日のウシミツ時、カッパを全部招いて人間にいたずらをしないように頼みご馳走したのだとか。
酒に酔っぱらったカッパが翌朝石の上で真っ赤な顔をして日向ぼっこをしている光景が見られ、人に石を投げられるとドブンと水音高く水中に逃げ込んだそうだ。


さて、阿弥陀橋まで辿り着いたところで、今度は対岸へと渡り、スタート地点の賑町方向へと歩こう。
大井手橋の手前当たりの2ショット。


(小型ナイアガラ)

(蔦のナイアガラ)


川沿いにあるので川端饅頭。
長崎ならではの桃饅頭もあった!

他に中島川周辺には骨董店も多く、南蛮渡来の物や、中国製のものなど長崎らしい骨董品が多く揃っているので見るだけでも楽しめる。



川沿いの米屋にはこんなものが。
「鯉の餌に最適。麩・ふ・フ。
お吸い物にもどうぞ。」

眼鏡橋の横には架設者の興福寺2代住職・唐僧黙子如定の銅像がある。
眼鏡橋を望むように建っているので、眼鏡橋と同時の記念撮影が不可能なのが残念。
しかし川沿いがすっかり整備される中、存在感を増してきたことには満足しておられるかも?

行きと帰り、角度や陽の当り具合いによって違う表情を見せる石橋群。
夜は1年を通じて眼鏡橋など一部の橋のライトアップもなされており、昼だけでなく、光に照らし出された橋の連続した風景を見てまわると、昼間とはちがった趣きが味わえるため、中島川周辺の夜の散策もおすすめだ。

中島川の両側の公園のベンチや、川へ下りる坂段に腰掛けて幻想的な光景を楽しもう。
(賑町方面から袋橋、眼鏡橋、魚市橋、東新橋、すすき原橋、一覧橋がライトアップ中。
日没〜22:00)

 

Check!●阿弥陀橋からもう一歩足を伸ばしてみると……

1.日本初のプロカメラマン、長崎出身の上野彦馬邸跡であり、日本最初の写真館「上野撮影局」を開設した場所がある。
坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、グラバーなど、多くの著名人を撮影した人物として知られる彦馬。
今でもよく目にする坂本龍馬の写真は彼によって撮影されたものだ。
上野彦馬が撮影した写真は、バックナンバー「寺町界隈ぶらり散歩道」の中の龍馬通りに出てくる亀山社中跡で見ることができるので、ぜひ足を運んでその目で見てみよう。



2.長崎聖堂は日本最古の孔子廟で正保4年(1647)東上町に儒者向井元升が開いた儒学の学問所で立山書院と称した。
正徳元年(1711)に中島川畔に移転。
そのため一般には中島聖堂と呼ばれるようになった。
この中島聖堂遺構大学門は、県指定の有形文化財として興福寺に保存されている。





3.江戸時代の中期、生活用水に困っていた市民のために本五島町乙名(町長格の役人)だった倉田次郎右衛門が私財を投じて布設した倉田水樋水源跡(くらたすいひすいげんあと)。
この水樋は明治24年(1891)まで使用されいていた。



4.電車道を渡った出来大工町の路地には福沢諭吉使用の井戸が今も残されている。
光永寺に居候した後、福沢諭吉は高島秋帆の弟子で砲術家の山本物次郎宅に住んでいた。
その時使用の井戸というわけだ。



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【 1.賑橋電停〜眼鏡橋 】
【 2.魚市橋〜大井手橋 】


||[周辺地区地図]||