案内人●廣瀬孝さん


十善寺地区連合自治会長、
長崎十善寺地区まちづくり協議会会長ほか
地域任務を兼任されている
(2005年2月5日に亡くなられました)

四方に色鮮やかな中華門がそびえ建ち、福建省から取り寄せられた石畳が敷きつめられた新地中華街。
この町は「新地」という名のごとく、その昔新しく海を埋め立ててできた場所で、現在の長崎文化を形成する上で欠かせない中国文化との出会いの地だった歴史ある町なのだ。

現在その名残りがある建造物を目にすることができないのは残念だが、十字路になった中華街の中央に明治維新後、唐人屋敷とともに廃止された新地蔵(しんちぐら)跡の石碑が建てられている。

江戸時代の元禄期(1699〜1702)の新地蔵の護岸の一部がホテルJALシティ長崎のロビーに移設されているので、大いに想像力を膨らませてほしい。
ユニークな中国雑貨や長崎中華が味わえる店がひしめく中華街を抜け、湊公園方面へ向かおう。


中華街の南門(朱雀門)を左手に湊公園から鎖国時代に建てられた唐人屋敷跡を取り囲む十善寺地区へ向かうと、その入口に広馬場商店街の看板を掲げたアーチがある。

唐人屋敷には2つの門があったといわれているが、ここが唐人屋敷の第一の大門があった場所。
続いて入っていくと右手に四海楼ガレージがあり、長崎中華の祖とも言える長崎ちゃんぽんの元祖・四海楼が以前この場所にあったことがうかがえる。

この十字路の隅に唐人屋敷跡の石碑が立っていて、その左手に十善会病院(籠町)がある。


そのちょうど道向かいに「居留地境」と刻まれた石標があり、ここが唐人屋敷の外角辺りにあたるようだ。


メインの道路はこの十字路辺りから上り坂になる。
その坂道を上っていくと、大門の所と同じく広馬場商店街の看板を掲げた二の門(現在商店街アーチ)がある。
そしてその右手には雑多でいい雰囲気の館内市場が見えてくる。

新鮮な魚介、産地直送の野菜、蒲鉾、生花、買い物客じゃなくても坂を上り下りする十善寺地区の住民がいつもと同じような挨拶を交わす、そんな穏やかな空気が流れている。
ひと固まりのように見える市場だが、下から館内市場、岩永牟田口市場、富士市場というように実は3つに分かれいて、中には地元住民の憩いの場である銭湯もある。
現在は地域の過疎化からか、空き店鋪が目立つ虫食い状態。
ランフェスの期間中はこの空きスペースに餃子やお茶の接待を行う「唐人屋敷茶館」が登場する。
町角にはおいなりさんや煮物が陳列ケースに並ぶ昔ながらの味わい深い味処も見られる。


市場の向かいには、唐人屋敷時代の資料や、発掘されたものの展示などを展示する「十善寺地区まちづくり情報センター」があり(10:00〜16:00/土日祝日休)、ランフェスの期間中はここがランタングッズ販売やイベント案内を行う唐人屋敷会場の拠点となる。

細い道をはさんで上の段にハダカのキユーピーたちが迎えてくれる駄菓子屋さんを発見!。

そして館内市場の上にあるのが土神堂。
この2つを隔てるメインの道路を大きなクスノキを目指し坂道を上がってみる。
途中に煉瓦塀の天后堂、アーチ型の石門の観音堂、反り屋根が印象的な福建会館などが町中に溶け込むように存在しているのが魅力的な光景。
さて、さっきのクスノキが唐人屋敷跡の外壁付近(奥行き)を示す目印になっているので、その場所まで上がる。

内外を隔絶するために周囲を練塀で囲み、その外側に水堀やカラ掘を設けていた唐人屋敷の堀の跡が、天后堂裏の側溝や、榮(さかえ)橋の付近にみられる。


この榮橋と森橋、森伊橋の十善寺地区にある3つの橋は、地元出身・森伊三次氏寄贈の石橋だとか。


ここから坂を上ると中新町。
中新町には鐘楼と一体となった珍しい山門がある廣済寺があるので足を伸ばしてみよう。
高台まであがると、往時の風情が残る長家を手前に十善寺地区が一望できる。

左手に活水学院、海星高校などのクリスチャン私学校などの洋風建築校舎の屋根に夕日が当たり、その東山手から漏れた日が右手の館内町の木造4階建ての民家辺りへ差し込む。
移動する夕陽を建ち並ぶ民家が次々に受け、しだいに暮れていくこの場所からの夕景は素晴らしい。


唐人屋敷の遺構である四堂を擁し、唐人館の内にあたることから名付けられた館内町。
長崎村十善寺郷稲荷岳と呼ばれ、稲荷岳、田ノ浦の中から一字づつをとって名付けられた稲田町。館内町、十人町の南東側にある中新町。
万治元年、野母遠見番十人の官舎がこの地にあったので呼ばれるようになったという十人町。
十善寺地区とは、その昔十善寺郷であったこの四ヶ町のことを指している。
この界隈はきれいに整備され観光地化された新地中華街の佇まいとは異なり、かつての十善寺郷の谷間をびっしり埋め尽くした積み重なるような家並みや、多くの石段が残る長崎独特の景観を色濃く残したエリア。

道の途中には約35個のベンチが設置されていて、上り疲れたらいつでもひと休みできるようになっている。




今登った坂道の方向へくれぐれも迷わないように下り、榮橋まで戻ると右手の方へ足を進めてみよう。
きれいに整備された道路と、石塀の一部には唐人屋敷跡の石垣が残されている。

そこから奥に進むと面白い空間に出る。
一見普通のマンションだが、住民だけでなく地域の人が次々に出入りをする。
ここは、実は長崎市の市営住宅。
このコミュニティ住宅のエレベーター(6:00〜22:00使用可)を利用して、石段上の稲田町に出ているのだ。
ここに坂の町長崎ならではの知恵を発見!
このエレベーターを3階で下りると日本一?狭い市道にでる。
もちろん車は不通。

ここを通り抜けると、館内町の4階建て木造住宅がある場所にでる。
4階の住民は上の道が玄関というユニークな建造物、現代の建築基準ではありえない代物。


館内の坂を下りていると昔ながらの小店に出会った。
十善会病院の裏道へ下る途中には雰囲気のいい路地がいっぱい。
日なたぼっこするネコにもよく出会える。




湊公園から見て館内の右手の脇から上っていく十人町には中庭に井戸を持つ風情ある和風民家や、ピエル・ロチ寓居の地跡や旧御崎(みさき)街道、天満神社、昔病院だったという白い洋館などが見られれる。



しかし、何分十善寺地区は路地が多い。
道なのか、住宅の庭なのかさえ区別がつかないところに突然出た場合、素直に通りがかりの地元の人に訪ねると親切に教えてくれるに違いない。

十人町を坂の頂上まで抜けると、なんと活水大学・海星高校へ通じる東山手地区へ出る。
唐人屋敷跡から外国人居留地跡へ。
長崎の街は、歩いてこそ面白みがある町だと改めて実感!



1万2000個ものランタンが瞬き長崎が中国色に一色に染まる長崎ランタンフェスティバル。
しかし会場である新地(湊公園)と十善寺地区(唐人屋敷)の夜はまるで対照的な「動」と「静」の印象を放っている。
今は住宅地と化し静寂に包まれた十善寺地区に、中国の面影を探しにぶらり立ち寄ってみませんか?
ただし、夜道は危ないので明るいうちにどうぞ。


新地中華街

明治維新後、唐人屋敷と共に新地蔵所も廃止されたため、在留中国人は港に近い新地蔵所跡地に移り住み、長崎独特の中国人町を形成していった。

現在の中華門は、横浜、神戸と並ぶ中華街に発展するよう本場中国から資材を取り寄せ職人も招き入れ築造したもの。
完成は昭和61年(1986)。
浜の町側が北門で玄武門、出島側が西門で白虎門、湊公園側が南門で朱雀門、そして唐人屋敷側が東門で青龍門という。



湊公園

昭和初期に開設。昭和32年(1957)に再整備される。
その後平成2年(1990 )に長崎市内で行なわれた長崎「旅」博覧会に合わせて中国風庭園や中華門が造られた。
庭園は、公園の東側に中国産の御影石で高さ50センチの石畳舞台を設けた他、中国蘇州に残る伝統的な建築様式の石造り表門(中国名碑楼)と裏門(同碑坊)そして、中国風あずま屋(休憩所)が造られた。



天満神社

十人町に遠見番所(中国・オランダ以外の外国の船などが来ないか見張る役目の遠見番が詰める役所)が置かれていた万治年間(1658〜1661)筑前(福岡)出身の遠見番士が常盤崎の山中に祠を建て、天神様の木像を安置した。
やがて遠見番士や付近住民もその山を天神山と呼び、その祠を十人町天神様と称して信仰されるようになり、明治以降も十人町の鎮守の神として今日に至っている。



ピエル・ロチの寓居の跡

明治期に来日したフランスの文豪ピエル・ロチは1ヶ月をこの地に住まい、長崎の女性おかねさんと過ごしたが、その時の体験は小説『お菊さん』などとして発表した。
ゆかりの地としてピエル・ロチの寓居の跡の石碑が建立されている。



旧御崎(みさき)街道

唐人屋敷と西彼杵郡・野母崎町の観音寺を結ぶ道。
詣でに行く人々や深掘方面の人たちが多く往来したと言われている。

慈航山 廣済寺(こうさいじ)

真宗仏光寺派。
寛永三年正覚寺開祖道智の隠居所として十善寺郷に創立。
延宝4年(1676)正覚寺境内に移されて寺号を免許された。
明治16年、正覚寺内から独立して現在地に移転。
大正7年火災により全焼したが、翌8年再建した。



||[周辺地区地図]||

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