● 商館医が町にもたらしたもの


出島の出入り口である出島橋には門番がいて、たえず出入り者を厳しく取り調べたといいます。そこには出島の規則を記した「制札」が立てられていました。

  禁 制
一、 傾城之外、女入事
一、 高野聖之外、出家山伏入事
一、 諸勧進之者、ならびに乞食入事
一、 出島廻ぼうじより内、船乗入事 附 橋之下船乗入事
一、 断なくして、阿蘭陀人出島より外へ出事
  右条々堅可相守者也


つまり遊女以外の女、高野聖のほかの山伏や僧侶、勧進や乞食の出入り、出島の外周に打ってある棒杭の中、橋の下への船の乗り入れ、そして、オランダ人は許可なく出島からの外出が禁じられていたということです。vol.3商館員の出島生活でも触れたように、出島で隔離同然の生活を送っている商館員達は、長崎の町に自由に出かけることは禁止され、目的があれば長崎奉行所や役人に許可を願い出なければなりませんでした。それは、商館医が町を出る時も同様で、奉行所の許可をとるのには丸一日かかったといいます。

商館医の本来の職務はもちろん商館員の健康管理で、出島の外に出て一般の日本人を診療したり交遊することは禁じられていましたが、ときには公に許可を得て日本人を診療したり、日本人医師たちの質問に答えたりしていました。

商館員(荷蔵役、簿記役、筆者役など)とその下僕などは、高い給料目当ての他に行く所のない者達も多かったといいますが、代々、商館長と商館医のポストには優秀な人材が送り込まれてきました。特に商館医については幕府でも、医師として、あるいは科学者としてその存在を重く見ていました。1641年(寛永18年)、今から370年前、オランダ商館が平戸から長崎に移転して以降、ほぼ毎年1、2人の医師が来任。その人数は約63人に達しました。初期のライネ、ケンペル、中期のツュンベリー、後期のシーボルト、モーニケなどが有名です。


1649年(慶安2年)から3年間、出島商館医として在任したカスパル・スハン・ベルヘルは、江戸参府のつど患者を診察しその名を馳せたといいます。また、将軍家綱が病気をした時も、優秀な医師を派遣するよう申し入れ、1674年(延宝2年)、これに応える形でウィレム・テン・ライネという医師が商館医として来日しました。幕府の商館医への信頼の程がうかがえます。

この江戸時代、特に鎖国期に日本に伝わった西洋医学は、「蘭方医学」または、「紅毛流医学」「紅毛流外科」と呼ばれ、主として外科に関するものでした。1809年(文化6年)5月1日、長崎奉行はオランダ通詞を通して商館長ドゥーフにオランダ商館医の執刀を依頼しました。数日前、大砲を発射した際に負傷した検使役の役人の手を診察してもらうためです。ケガ人は、三本の指を吹き飛ばされ、手は完全に砕かれていました。数日間、連日診察を重ねる商館医と日本人医師は協力して患者の命を救おうと懸命に努力。結局手術を行なわない日本人医師の治療法を優先させたため、結果は残念なものとなってしまいましたが、双方の意見を交換しながら治療していったのは大きなところです。そのとき、商館医の意見と日本人医師との交流の仲介にあたったのがオランダ通詞でした。長崎の町には、彼らオランダ通詞を祖とするオランダ流外科が成立しました。楢林鎮山の「楢林紅毛外科」吉雄耕牛の「吉雄紅毛外科」が広く知られています。



このように、オランダ商館医と日本人医師との交流の場は、出島、もしくは商館長に随行する※1江戸参府の際の宿舎に限定されましたが、各地で商館長や商館医ら一行と問答を交わす日本人学者がしだいに増えていきました。これが蘭学者達のさらなる関心をいっそう募らせるきっかけとなっていったのでしょう。 書籍の知識に満足せず、蘭学・医学・兵学・本草学・科学・美術等の知識を習得するため、人々は、全国各地から長崎へと赴いてきます。平松勘治著『長崎遊学者事典』によると、その遊学者の数は1052人にのぼり、その内、医学560人、蘭学132人だったといいます。そのようにして、鎖国時代、長崎の町は意欲に燃えた学者達の集う、一大文教の町へとなっていったのでした。
 
 
★出島ワールド人物伝★
商館医の科学者としての活躍に注目してみましょう。現代の日本人の生活になくてはならないものといえば……幕末日本に伝来した「電信機」です。日本人がはじめて電信機の実物とその動作を目にしたのは、ペリー艦隊が2度目に来航をした1854年(嘉永6年)、幕府に献上した際だといわれています。しかし実は、その1ヶ月前の1854年(嘉永6年)2月、長崎でオランダ渡りの電信機を目にし、実際の操作まで関わった人がいました。幕府の命でオランダ商館を訪れた幕臣・川路聖謨(かわじとしあきら)です。彼に電信機を見せたのは、商館医ファン・デン・ブルック。彼が1847年(弘化4年)に著した『理学原始(2版)』に電信機の記述があり、これを医師で蘭学者の川本幸民(かわもとこうみん)が翻訳。それをベースとした『遠西奇器述』を著していたため、ペリー再来航の際、電信機の情報についてはすでに日本人の知るところでした。実際、その頃長崎では、すでに外科医 吉雄圭斉(よしおけいさい)は電信機の操作法を学んでいましたし、1849年(嘉永2年)、松代藩士の佐久間象山(さくましょうざん)は、その文献を元に、70mほどの通信実験をしたといいます。しかし、ファン・デン・ブルックから出島で直に電信機を見せられた川路の衝撃は大きかったことでしょう。「脈1つ動くうちに100里の内にても通達・合図できる品」と、その驚きの様を記しています。
 
※1江戸参府/年に一度(寛政2年以降は4年に一度)義務としてオランダ商館長が江戸に赴き将軍へ拝謁して貿易許可の礼をのべ、献上品を呈する行事。





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