● マンネリ回避に努める商館員の出島生活


1820年(文政3年)来崎。書記から荷倉役に昇進を遂げ、9年間、出島に滞在したフィッセルは、『日本風俗備考』(1833年)において出島での境遇を次のように話しています。

出島に上陸してしばらく忙しさに追われているが、やがて夕刻になって門が 閉じられるのを見て、そしてこの狭い出島の囲いの中で、厳格な規則のもとに自由が完全に失われることを知ると、新しく来た者は、これから長い年月をどうやって耐えていけるか、とても理解できないだろう。

また、商館医として来崎した植物学者のケンペルは『日本誌』の中で出島を「監獄」といい、また、同じく商館医で植物学者のツュンベリーは、「出島で孤独に生涯を送ることは生き埋め状態に匹敵する」と述べたといいます。はたして、厳しい制約に縛られた彼らの生活は辛く苦しいものだけだったのでしょうか? 出島暮らしの一端を商館長ブロムホフの日記から検証してみましょう。

まず、出島に住むオランダ商館員は、長崎の町に自由に出かけることは禁止され、目的があれば長崎奉行所や役人に許可を願い出なければなりませんでした。 この制限された単調な日常生活に変化を与えようと、オランダ人達は様々な工夫、趣向を凝らしています。商館長ブロムホフの時代に注目してみましょう。ブロムホフの商館日記には、商館員達で配役を決め、演技する「素人芝居」が行なわれていたことが記されています。商館員達の間から、以前から芝居をやりたいという申し入れがあり、ブロムホフが許可を与え遂に実現したものです。

1820年9月17日、※1庭園の商館長の住居の広間を飾り立て上演。テーマは「芸術は長く人生は短い」。演目は、喜劇「結婚の策略」別名「二人の兵士」でした。見物席には、奉行所の許可を得た乙名や通詞たちをはじめとした多くの日本人の姿も。最後は、その場にぴったりの歌曲が素人劇団員によって合唱され、書記フィッセル(前述)が自作の詩を朗読して閉幕したといいます。その後10月13日には喜劇「気短な人」とオペレッタ「二人の猟師とミルク売りの娘」を上演。これを見た日本の役人が、ぜひ奉行に見せたいと言い出し、10月20日には、2人の長崎奉行、★筒井和泉守政憲と間宮信興を招き再演、またその2日後の22日には奉行所の役人達のために再々演されました。言葉がわからなくても理解しやすいような筋書きだったのでしょう。また、奉行のひとり、筒井和泉守は日本語に翻訳された荒筋を持っていたといいますから、そのようなものが準備されていたようです。

22日、ブロムホフの日記によると、奉行所の役人は、この「素人芝居」の様子を描き将軍に送るために、スケッチさせる画家を連れて来ていました。シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀です。新潟県柏崎市の博物館『黒船館』所蔵の『川原慶賀筆阿蘭陀芝居図巻』には、慶賀の本名 登与助“Toyosky”の署名があることからこの時のものと推定されています。慶賀はシーボルトが来崎する以前、ブロムホフの時代から出島絵師として仕事をしていたんですね。

出島での暮らしを活気づけたに違いない「素人芝居」と同様、毎年太陽暦の元旦を祝った阿蘭陀正月も生活に彩りと変化をつけるものだったことでしょう。1822年1月1日のブロムホフの日記には次のようにあります。

夜明けとともに新年が、奏楽のうちに旗を揚げることで知らされた。書記バウエルの指揮のもとに、勝手方たちと召使たちを伴った書記ファン・ベンメル(フィッセル)が補佐して、私の住宅「カピタン部屋」の前で、大好きな国歌「ヴィルヘルムス」をもって始まった。

午後4時からは、日本人の役人や通詞を招いての大宴会。この日は、日本人との交流を図る大切な場でもありました。商館長日記には、毎年欠かさず日本人の役人を招き行なわれるこの阿蘭陀正月の祝いの様子が記され、商館長が毎年長崎奉行と贈物のやりとりをしているのも恒例だということがわかります。振る舞われた数々の西洋料理や食事マナー、ひいては西暦まで……。交易品にとどまらず、この時代に行なわれた日本人と出島のオランダ人との数々の交流から、多くの異国文化が日本に浸透していったのだということを実感します。

そして、商館員達にとって自国の慣習にのっとった様々なイベント事は、やっぱり出島での単調で窮屈な日々に変化を与える貴重なものだったに違いありません。
 
 
★出島ワールド人物伝★
江戸時代末期の旗本である筒井和泉守政憲は、1817年(文化14年)から4年間、長崎奉行に着任。その後は、江戸、南町奉行を20年も務めあげ、1828年(文政11年)に起こった「シーボルト事件」の際には、関与した天文学者の高橋景保を捕縛し尋問しています。また、1853年(嘉永6年)、ロシアのプチャーチンが国書を携え長崎に来航し、樺太、千島の日露国境確定と交易開始を要求してきた際には、幕府より交渉全権代表の命を受け長崎に派遣され、そののち、下田での交渉時も代表を務めました。南町奉行時代は、公平な裁きを下し、多くの人々から敬愛された名奉行であったと伝えられている人物です。
 

※1庭園の/従来のカピタン部屋とは別の、庭園(薬園)の東の建物、新任カピタンの居宅のこと。





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