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平成30年度第2回 長崎原爆遺跡調査検討委員会

更新日:2019年9月2日 ページID:033375

長崎市の附属機関について(会議録のページ)

担当所属名

原爆被爆対策部被爆継承課

会議名

平成30年度第2回 長崎原爆遺跡調査検討委員会

日時

平成31年3月20日(水曜日)9時00分~

場所

長崎原爆資料館地下1階平和学習室及び山王神社

議題

1. 前回会議での意見・指摘等への対応について
2. 山王神社の調査について

審議結果

会長
「前回会議での意見・指摘等への対応について」事務局からの説明をお願いします。
  〔事務局より資料「前回会議での意見・指摘等への対応について」を説明〕

会長
 引き続き、「山王神社の調査について」事務局より説明をお願いします。

事務局
 山王神社境内にて樹木医の協力を得て樹木調査を行いました。
具体的には、山王神社境内にある樹木の位置図と樹木リストを作成し、樹木リストには樹種名、形状寸法を記入し、被爆時に存在した可能性がある樹木については個別に写真を掲載した調査票を作成することとしました。

 被爆した可能性が否定できない樹木はすでに被爆樹木と知られていたものが2本、写真や宮司さんの証言により被爆当時から存在していたと考えられるものが4本、幹周の大きさから樹齢70年以上と推定され被爆当時に存在していた可能性のあるものが15本、樹齢50~70年と推定されるものが11本の合計32本で全てクスノキです。

 今回の調査で、全部で205本、又は株把握しました。10以上あるものではツバキが45、クスノキが38、サカキが15、アラカシが14、ムクノキが13、タブノキが10です。クスノキ以外には古い木は現存しないようです。

 続いて、石造物調査のご報告をします。岩石や石垣に詳しい有識者に山王神社にお越しいただき、所見をいただきました。

 お一人目は地質学・岩石学がご専門の先生です。

 参道の石灯籠については、階段の下から上を見上げ、右と左にある土台について、「石材はいずれも中粒の優白質花崗岩(花崗閃緑岩)である。左の土台のほうが、右の土台に比べて、多くの亀裂が入り、角がそげ落ちながら、たまねぎ状風化がより進行している。この理由については、石材の個体差の問題と考えましたが、被爆の影響があるか否かは判断できない」ということです。

 二の鳥居(直立)について、「石材は先ほどの灯籠と同じ優白質花崗岩(花崗閃緑岩)である。円柱に刻まれている文字のうち、西方向に刻まれている文字の風化が激しい。風化は、石材が太陽光により熱せられることで、鉱物が膨張と収縮を繰り返し、亀裂が生じることで進行していく。西方向の風化が著しく進行している理由として、建立から現在に至る日光照射に加え被爆の影響があるかどうかは、倒壊した部材も含めた確認が必要である。参道の石灯籠と同様、石材として使用されている花崗岩には、数センチ程度の暗色包有物が特徴的に含まれる。この種の石材は、長崎県内には分布していない。おそらく、北部九州に分布する領家帯の花崗岩類(白亜紀)であろう」ということでした。

 二の鳥居の倒壊した部材については、「直立している二の鳥居と同じように、西側の面に風化面が集中しているかどうかは、倒壊する前の状態に復元し、風化が進行している石材の向きに共通性があるか確認する必要がある」とのことです。

 参道の石畳については、「砂岩である。長崎では古くから建築資材として多く使われている。出島の石垣にも使用されている。おそらく、諫早石というものか」ということです。

 1-2(平成30年度に石造物の調査に際し石造物に振った番号)三の鳥居の部材は「二の鳥居とは明らかに異なり、中間質の火山岩(安山岩からデイサイト)である。長崎市内に広く分布する長崎火山岩類(約400万年前)の一つかもしれない」ということです。

 3-1石灯籠については、「参道の石灯籠や二の鳥居と異なり、ピンク色のカリ長石を含む中粒から粗粒の花崗岩である。参道の石灯籠や二の鳥居に比べ、風化がかなり進行しているが、これはおそらく石材の種類の差である。また、雨水が流れ落ちる通り道に沿って特に風化が進行しているようである。被爆の影響は不明」ということです。

 5-7狛犬については、「個体によっては、風化による亀裂が多く入る。日常的に日当たりの悪い場所にあるため、主に雨水による風化であろう。被爆の影響は不明」ということです。

 全体としてこの先生によると、「原爆被爆の影響の有無を示す直接的な証拠となるような、部分的に溶融した組織などは観察されない。ただし、被爆当時の位置を特定できれば、爆心方向に面していたであろう場所と面していなかったであろう場所とでは、数十年を経た現在、風化の進行状況が異なっている可能性は示唆された。現在の風化の進行状況をなんらかの手法で定量化し、爆心地との位置関係を押さえていくことが、評価の一つのやり方であろう」とのことです。

 狛犬については他の先生にも見ていただき、「山王神社の石造物の中で最も雄弁な存在になりそうに感じた。破損の状況は普通の風化であるとは考えにくく、何らかの衝撃を受けたものではないか」との意見もありました。

 続いて、考古学がご専門の先生の所見です。

 3-3石灯籠については、「用いられたピンク色の花崗岩石材は、長崎地方の地元産ではなく、瀬戸内地域(尾道地方など)から移入されたものである。江戸時代の海上交通・流通の一端を示している」ということです。

 5-15石垣については、「規格石による布積みの石垣であり、近現代の構築であろう。樹根の影響によって、その一部がかなり前に傾いており、いずれ崩れる状況にある」、

 5-22石垣については、「大きい矢穴を残す石材が見られるが、それらは円福寺が現在地に創建された江戸時代、1652年頃に石垣があったことを示している。しかし、それらを再利用した『矢羽積み』で積まれた箇所もあることから、近現代に積み直されており、時代は昭和期である可能性も十分ある」とのことです。

 5-23石垣については、「5-22石垣に続く石垣であるが、土に埋もれている部分に、江戸時代の築造当初の石垣が残っている可能性がある」とのことです。

 5-17石垣については、「整った規格石による布積みをなす。石材加工に幕末期頃から多用された『金場取り残し』や出角部に『キヲイ』という反りの技法が見られ、全体の状況としては近現代に積まれたと推測される」、

 5-21石垣については、「前事例と同様、本石垣の基本の技は規格石による『金場取り残し』である。しかし、一部の石材にはその技がなく、新しく交換したものも見られることから、後にさらに新たな修復・積み直しがなされていることが分かる。修復・積み直しは原爆による影響であろうか」とのことです。

 5-26石垣については、「石材として、庭石に使用するほどの大きなものを使って全体を構築しており、山王神社地に所在する他の石垣とは明らかに異なる。技としても、石材の広い面を表とし、控えが短い積み方をなしており、いわゆる魅せるための『鏡積み』という特殊な技法も用いている。さらに、その石垣の背後には1mほどの幅を採る(築地)塀跡も確認し得ることから、これらに囲まれた北側のやや狭い区画内部には、何らかの特別な建物があったことが推定される」ということです。

 4-24石垣については、「石垣として、上半部と下半部の在り様が異なる。下半部の石材を見ると、江戸期の粗割石(丸い矢穴の石)を利用しているものの、明治期以降の石材も散見されることから、この北側は明治・大正期の近代に積み直したものと見られる。さらに、その上部であるが、原爆の影響を受け、玉石垣とそれを据え置いていた基礎石がほとんど崩壊・欠失したのであろう。何とか残った玉石垣の石材だけを用い、モルタルによって新たに据え直している」とのことです。

 3-4石垣については、「本石垣の右端部は、切石による現場合わせのいわゆる『亀甲積み』であり、近現代の時期と推測される。それ以外の中央から左側の箇所も、積み方の規則性・技を確認し得ないほどの乱れをなしていることから、かなり新しい積み直し・修復であることを示している。これらの状況を鑑みるに、この石垣については原爆の爆風によって大きく崩れ、その後に修復されたものと推される」。

 3-10石垣については、「用いられた石材を見ると、その表面に機械による細やかな敲打の調整が確認されることから、本石垣は現代のものであろう。被爆直後の状況写真と比べてみても、石垣から張り出して据え置いていた天端石がなくなっている。舞台ということであり、被爆の激しさから見て、あるいは脆くなった石材を交換して舞台を復興した可能性がある」。

 3-5石畳については、「真ん中の列のみ他と異なっており、石材も新しく据え置き直したようである。いつの時期か、何らかの事情で敷石を一旦は剝ぎ取り、再び敷き直した可能性がある」とのことです。

 1-16-S石垣については、「構築状況を見ると、何らかの事情によって壊れた当初石垣を積み直した後、さらにもう一度部分的な修理をなしていることが分かる。特に、慰霊碑の背後あたりは新しい積み直しである」。

 1-17(石段)の石垣については、「この石段部の全体状況を見ると、本来あるべき石段の縁石が、右側には一部残るものの、左側には全くない。さらに、ほとんどの縁石と手摺部分を欠き、それらをコンクリートで再築している。その石段基礎部の壁石も積み直されている。このように崩落状況としてはかなり激しいものであったことをうかがわせていることから、原爆で大きく破壊された後、新たに修復された可能性が高い」。

 1-19不明石材については、「大きな矢穴が見られることから、江戸期のものであろう。ただし、意図した割れ方をし得なかったようである。撤去することなく、ここに所在しているのは何故なのか不明。何かに再利用しようとしたものか」ということです。

 1-16-N石垣については、「粗割石を用いた石垣であり、安定した布積みをなす箇所もあるが、一部には修復された箇所も見受けられる」。

 参道の石畳については、「石材の石面が所々赤くなっているが、これは原爆の高熱を受けたそのままの状況であることを如実に示している」。

 二の鳥居や石燈籠の部材については、「石材の花崗岩が所々弾けて割れたり、赤くなったりしているのは高熱を受けた状況を明らかに示している。つまり、これら石造物の破壊が原爆の爆風による倒壊だけではなく、高温の灼熱を原因としていることは間違いなく、被害の激しさの一端を示している」。

 二の鳥居の部材北の石垣については、「築石部は規格化された石材を布積みとし、出角部は幕末期以降に盛行した『キヲイ』の技を採るなどの点から、近現代に築かれた石垣であろう。この箇所の石材にも、所々に赤く焼けた跡が見られることから、被災した状況を留めている」とのことです。

 参道の石灯籠については、「この石燈籠の基壇部は、ほぼ当初の位置に据わっているのであろうが、かなり割れており、さらに石面の所々が大きく弾け飛んでいる。その上部に据わっていた燈籠竿石・火袋・笠石なども倒壊していたという。さらに、一帯に残る石畳の石材も赤く焼け、ひび割れしたものもかなり多い。これらの諸様相を見ると、原爆による高熱の影響の激しさが如実に残されているようである」。

 参道踊り場北の石垣については、「石垣の出角部には、幕末期以降に盛行する『キヲイ』の技が見られる。さらに、石垣面の構築には『矢羽積み』が見られることから、近現代の石垣であろう」。

 参道(車道)の縁石及び路面については、「元々、山王神社の参道であったこの箇所では、現舗装道路の両端にそのことを表す縁石を確認することができるが、それら縁石の多くが赤く変色しており、原爆による高熱の影響を示している。また、それら縁石に区切られた本来の参道通路部分では、現在はカラー舗装されているが、当然、当時は参道であったことから、その舗装下部にあるいは石畳を敷いていた可能性や被災の状況を留めている可能性も残されている」ということでした。

 次に今年度実施している石造物調査についてご報告します。

 まず境内全体について石造物管理図と写真帳を作成しました。

 境内全体で石造物の存在を把握し、石造物が全体では多量になるためそのうち一部について基本的に刻字がある面の拓本と立面図を作成しました。今年度は調査区4にある石造物で拓本と立面図作成に取り掛かりましたが、会長に来ていただいて組になる石造物を一体的に把握するとよいとご指導いただき、調査区4に存在する石造物と組になる石造物についても着手しました。ほかの石造物については来年度以降実施する予定です。

 今年度の調査成果は、石造物の全体の分布を把握でき、現況の記録ができたということになります。

 山王神社の調査については以上です。

委員
 狛犬のところに当時の位置を特定できればとあるんですけれども、それはできそうですか。写真などはなさそうですか。

事務局
 写真は確認できておりません。
                  〔山王神社現地調査〕

〔山王神社大クス〕

樹木医
 左側のクスノキは主幹は原爆で折れてなくなっています。上に伸びている分は戦後伸びた枝です。こちら右側のクスノキは主幹が最頂部はなくなっていますけれども、熱線で焼かれた部分は残っております。

〔階段を上る〕

樹木医
 この傷が被爆によるものなのかどうなのか私には分かりかねます。ただ左側の主幹が折れていますから、こちら側に倒れて当たったか枝が折れて当たってその傷がもとで腐朽が進んだのかもしれませんしそれは分かりません。ただ根本とか生きているところがありますので部分的に熱線が当たった可能性は否定できないと思います。

 被爆樹木一般にクスノキが多いんですけれども、触っていただくと分かるとおり樹皮がとても厚い樹種です。コルク質があって樹皮があって樹皮の直下に水分と養分を通導する組織があります。ですから、カシの木とかそんな皮一枚の樹木と違って比較的耐えられたんじゃないかなという印象があります。

事務局
 平成28年度に掘削調査をしたときに出てきた根も、樹木医さんに見てもらっておりますのでご説明をお願いします。

樹木医
 まずそのとき根が黒くなっている部分があり剝いでみました。そうすると黒い部分のすぐ下には生の白い組織があったんですね。組織の状態から一般的な腐朽じゃないかと考えました。周りの状況からしてもあそこのクスノキの根本あたりも熱線で焼かれていないことを考えると、物理的にもこの地面よりも下の部分に熱線が当たって炭化したという様子は見られなかったので、被爆によるものではないんじゃないかなというのが私の印象でした。

会長
 地面に出ていて、その部分だけが熱線の影響を受けたということはないんですか。

樹木医
 露出根の場合に、こちらの木もそうですけれども土壌改良で何箇所か掘っています。掘っている部分で根が多少出てきます。そのときには、大体同じ高さぐらいのところの根は生きているんですね。腐朽しているものもあれば生きているものもあり、腐朽している根と生きている根が同じぐらいの高さのところでまだらに出てくるんですね。それを考えると、露出根に何らか後からこういう折れた枝が火災なんかで一部焼けて腐朽が広がった可能性はありますけれども、以前の調査で出てきた黒い部分に関しては、一般的な腐朽菌による黒色化と言いますか色がついている状態ですので、そう判断しました。

〔拝殿前階段脇の樹木〕

樹木医
 まずこの木なんですけれども、この木に関して会議資料にこういう写真があります。階段と参道の位置等々がまず変わっていないと仮定して、生えている場所はほぼ同じ場所です。なおかつ最後のページのこの木、階段がわずかに見えるんですけれども、この階段の脇にこの木が残っているのが分かります。写真でほぼ同じ場所だと特定できるのはこの木だけでした。ということはこれ、その当時のもので、宮司さんにお伺いしたところ、被爆後もクスノキ等々を伐採したことはないというお話でしたので、この木はほぼ位置的にも樹形的にも確実ではないかなと考えています。

 それと、最初の写真では左側にアラカシのような葉っぱが見えますが、幹は確認できません。その木がアラカシなんですが大きさからいってアラカシは50年ぐらいでこのくらいには成長しますので、同一樹木だとは確認できませんでした。それと、この最後の被爆後の写真では、このくらいの幹のものが残っている様子もありませんでした。

 樹木は、階段の右の木のように障害物があって押し出そうとして押し出せないと分かると飲み込もうとするんですね。ですから下の根が太くなって成長すると根元の石列を動かす可能性はあります。その時点でまた考えなくてはいけないと思います。

〔拝殿向かって右の樹木〕

 この木は宮司さんの記憶で、幼少期から木登りして遊んでいた木だそうです。「この木は確実にありました」と宮司さんがおっしゃっているものです。その当時に登って遊んでいた木が4本あったそうです。「大きさからいってこれではなかったかな」という話で、これがその中の1本です。

宮司さんの話で、この木とこの木ではないかなというのが拝殿奥にもあります。根っこの張り方と石垣の飲み込み方からしても、戦前からあったのが相当ではないかと考えます。

 それともう一本はこの木です。根元が3本に分かれていますけれども根元の大きさは3mを超えて、十分年数的にも樹齢的にも戦前からあったのではないかなと推定できます。被爆直後の写真でも、幹が残っているのを確認できますけれども、大分樹形も変わっておりさっきの1本を除いて確実にこの木だと断定できる木はありません。しかし複数幹が残ったことを考えるとやはり何本か残ったんだろうということは想像に難くないと思っています。

 悩ましいのがちょうど中間ぐらいの大きさの幹の木で、一時的に被爆によるストレスを受けて成長が停滞したのであれば、こういう大きさでも不思議ではないのかなという印象もありますし、戦後すぐに種から萌えたとも考えられ、条件さえよければクスノキはどんどん大きくなりますので、両方否定できません。

委員
 ほかの樹木が古い樹木に悪影響を与えている可能性はあるのでしょうか。環境条件を改善した方がよいということはありますか。

樹木医
 環境条件を変えなくていいと思っています。急に日が当たるようになったりとかそういうことではないほうがよいと思います。

委員
 その辺に落ちている枝は、落ちたんでしょうか。

樹木医
 落ちたんです。クスノキは枯れ枝になるとすぐに落ちますので。

委員
 これはこのままでよいのですか。

樹木医
 普通の林はこのままですね。有機物ですから、自然と虫とか何とかが食べて土にかえっていきますので、森林学の考えからすると、有機物は土にかえしていくのが妥当だろうと思っています。

〔事務局より石造物調査について現地説明〕

〔平和学習室へ移動〕

会長
 現地での説明その他等について、委員の皆様の評価・意見というものをお聞きしたいと思いますので、お気付きのところからお願いいたします。 

委員
 農学系の大学院にいたというのもあって、今日は大変面白く思いながら参加しました。樹木の調査を全部やるのかとなったときに本当に全部できるのかなと思っていたんですが、やればやっただけのことはあるなというのが率直な感想です。

 樹木医の先生が、いま生えている樹木を変に伐採するということではなしに現状を維持しながら管理していくという提案をおっしゃっていましたが、そのことはきちんと受け止めておく必要があるなと思います。だから文化財としてどれがふさわしいのかとなったときには対象となるものはおのずと限られてくるだろうとは思いますが、その保全の仕方というところで、物とは違うやり方をしなければいけないというのが今日よく分かったし、あそこの樹木に則したやり方、無理ないやり方でやってくれればよいと思いました。 

委員
 私も同意見で、今、現状として残していくというのを優先して、それとあと樹木とは別の話になるのですけれども、壊れた狛犬はちょっと気になっていて、それを元のあった場所に戻すのかどうかも含めて何か少し検討できたらなと思いました。

委員
 樹木と石造物・石垣の調査結果を伺って、山王神社の敷地内に被爆の痕跡を残す可能性があるものがかなり多く残っているというのがよく分かりました。石造物に関しては被爆の痕跡があるのかどうかということが、地質学・岩石学がご専門の先生の所見でもはっきりしないところがあったりとか、同じものに対しても専門家の見方によって所見が違うところがあったりしますので、それも価値付けのときにどう捉えて、その辺を盛り込んでいくかということでもう少し詳細な調査がいる部分もあるのかなと思いました。

委員
 石造物と樹木を見てもらったんですが、大分調査が進んで正確な情報が得られそうな感じですね。特に樹木のほうは、現状を保管して、あまり手を付けないほうがいいという樹木医の先生のご意見で、それはそれでいいとして、石造物の調査の結果、二次的な動きが大分なされておりますから、それを明確に記録に残しておく必要があるんじゃないかと思います。だから現状をきちんと把握して、過去において別から持ってきたというようことを明確に記録しておく必要があるのではないかと感じています。特に調査の成果が大分挙がってきましたから、今度は次の段階に入っていき、保存という問題が出てきましょうから、今回の調査の成果が次のステップの基本資料になるということで、調査の成果については高い評価をしたいと思います。

会長
 ありがとうございます。私の意見を言う前に一つ私自身が間違えていたというのは、調査をしたときに出てきた木の根は地表面にあった部分が黒く焼けたんじゃないかということを考えていたので、あの面が被爆したときの地表面であるという認識でした。今日説明を聞いてみるとそうでもないということですから、今度は被爆当時の地表面をどこにするかというのを修正しなければいけません。今日4人の委員の先生方から聞かせていただいた見解で、今後に問題になってくるのは景観保全をどのようにしてやっていくかだろうと思います。

 あとは整備の件で出てきているのは原位置に戻すかどうかの問題ですよね。そういうところはこの会を続けていくなかでどういうかたちが一番然るべきかということは考えていく。ただし、現在我々が調査しているこの段階においての原位置は把握しておかないとどうしようもないということです。戦後70年を過ぎた段階の様子ではこうですよというのは記録を留め置いておかなければならないですね。だから今日説明を受けた樹木にしてみても、この辺がこうなんだというところは記録に留めて置いておくと、これが被爆したクスノキの70年後の姿であるということが100年後に残ります。その辺では気を使ってやっていただきたいという気がしております。またこの問題に関してはいろんな意見が出てくるかと思います。

 ほかに何かありませんか。はいどうぞ。

委員
 遺跡を見に来るビジターの目も少し意識しながら考えていったときに参道の石畳とか、指定地外ではあるが参道の手前の車道の脇の縁石が被爆の影響を受けているということは、被爆の歴史を考えてあるいはそうしたものを見に来ようとするものに大変分かりやすいというか、いろんなことを想像しやすいものなので、大事にしていったほうがいいと思います。

 もう少し言うと、石段を上がっていったところにある、あるいはその石段の階段そのものがどうなのかということもこれから言っていったほうがいいと思います。

 もう一つ言うと、鳥居について、二の鳥居の一方の柱はそのまま残っているけれども、もう一方の柱はどこにいっているのか意識していなくて、横たわっているのは分かるけれども、例えば慰霊碑に使われているものとか、その脇にあるものも実は言われないと存在が分からないので、そのあたりも指定の範囲に入れるかどうかも一つの議論でしょうし、もう一つはどういう説明をしていくのかがその先で問われてくると思います。

 むしろ活用の議論かもしれませんが、原爆の遺跡を見るときに非常に象徴的な遺跡、山王神社で言えば一本柱の鳥居それ自体を見るという見方も一つあると思うんです。その次のステップで、現にそこに残っていてしかも象徴性の高いものではないけれども非常にその当時のことを思い起こす助けになるもの、これが石畳とか、手摺とか、慰霊碑とか、樹木もそういうふうに見ることができると思うんです。今、一本柱の鳥居でかなり強く印象付けるかたちになっていますが、できれば次のステップに行けるような全体の位置付けをきちんとしていければなと、それも価値付けの部分とも絡んでいる話だと思うんですけれども、全体を見た印象でその二つ目の位相みたいな部分を大事にしていくための説明の付け方であり、価値付けであり指定の仕方ということになってくるのかなと思いました。

会長
 史跡地を今後拡大させていくということ、いわゆる原爆遺跡の遺構の単体でなく、面的に広がっていきますよということ自体はこの会の基本的なことですよね。それは今後いろんな会を通しながら実現していっていただきたいなという気がしております。ほかに何かございますか。

委員
 あと、山王神社の調査はどのくらい継続して行われるものですか。

事務局
 来年度、再来年度までは山王神社をやるつもりでおりまして、一度調査報告書を取りまとめることとしたいと考えております。

会長
 今日は県のほうからもお見えですから、一つ率直なコメントでもいただければと思います。

長崎県教育庁学芸文化課
 今日一日、皆さんと一緒に行動を共にさせていただき、かなり樹木の調査、石造物の調査、成果は挙がってきていると思われます。先ほど会長の言われた史跡地の拡大、いわゆる点から面へということについても、もしこれをということになれば、当然県といたしましても国への取り次ぎですとか、現実的なスキーム、どの時期にどういうことをするというところも長崎市と協力しながらやっていきたいと思っております。

会長
 これをもちまして今回の委員会を終了させていただきます。みなさんどうもご苦労様でした。

お問い合わせ先

総務部 行政体制整備室 

電話番号:095-829-1124

ファックス番号:095-829-1410

住所:〒850-8685 長崎市魚の町4-1(9階)

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