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平成30年度第1回長崎原爆資料館運営審議会

更新日:2018年12月28日 ページID:032227

長崎市の附属機関について(会議録のページ)

担当所属名

原爆被爆対策部 平和推進課

会議名

平成30年度第1回 長崎原爆資料館運営協議会

日時

平成30年11月22日(木曜日) 15時30分~

場所

・長崎原爆資料館地下2階 常設展示室及び地下1階ビデオルーム
・長崎原爆資料館地下1階 平和学習室

議題

・展示室Cコーナーのミサイルの撤去について
・Dコーナー(ビデオルーム2)の上映内容の更新等について
・図書館(ビデオコーナー)の視聴コンテンツの追加について
・被爆資料の紹介「工場日記」

審議結果

1 開 会
2 常設展示室等内覧
3 報告:トリップアドバイザー「博物館部門 日本全国 第1位」受賞
4 議 事 
5 閉 会

議事内容
(1)平成29年度長崎原爆資料館運営審議会において審議決定した常設展示室Cコーナーのミサイル模型の撤去について、その撤去後における現状報告
(2)同様に審議決定されたDコーナー(ビデオルーム2)の上映内容(ICANの活動等)の変更について報告
(3)図書館(ビデオコーナー)の視聴コンテンツ(ゼノさん)の追加について報告
(4)被爆資料の紹介として「工場日記」の説明

報告:トリップアドバイザー「博物館部門 日本全国 第1位」受賞について
配布資料により世界的な旅行の口コミサイトであるトリップアドバイザーの「美術館・博物館ランキング2018」において長崎原爆資料が博物館部門の日本全国第1位を受賞したことを報告した。

議事
(1)展示室Cコーナーのミサイル撤去について

【事務局】
先ほど、Cコーナーのミサイル模型の撤去後の状況を見ていただきました。撤去を行った理由ですけれども、模型の重みにより天井躯体部にひずみを生じさせていたことや、天井のガラス天板をつないでいるゴム樹脂部(シーリング)の劣化を早めていた可能性があり、天井部から雨水の浸み出しが確認されていたこと、また、古い模型であったため、現行ミサイルの形状と違う展示物であったことなどです。なお、撤去後の現状としては、雨水の染み出しは止まっており、一定の改善が図られたと考えております。
今後の運用についてですが、もともとこのコーナーが地球上あるいは世界に迫りくる核兵器の脅威を表現していた空間であることを踏まえて、次回の審議会までに、事務局で(案)を作り上げ、委員の皆様にお諮りしたいと考えております。
以上です。

【会長】
ありがとうございました。ただいま事務局から「ミサイルの撤去について」、説明がありましたけれども、委員の皆様方からの何かご意見・ご質問等ございましたら承りたいと思います。ご意見・ご質問等、発言を希望される方は挙手のうえ、発言をされる前に質問などなのか、要望なのかということをあらかじめ言っていただければ大変助かりますのでよろしくお願いします。
委員の皆様方、ミサイルが無くなって、あれも旧式でしたけれども、いろいろ弊害もあるということで撤去したんですけども、ご意見を承りたいと思いますが、いかがでしょうか。

【委員】
ミサイル撤去して、説明をされる方が上のこれは雲と言われて、雲と言われることとミサイルの何か関係はあったんですか、全然なくて。

【事務局】
私が知っている限りでは特段関係あるという情報は把握できておりません。だから、多分、デザインの関係で取り付けてあったものだと思います。

【事務局】
ちょっと補足しますと、一つに見た目の、光がキラキラ輝いて見えるようにという一つの演出があったというところと、それから核戦争が起きたときに発生する雲だというのをちょっと聞いたことがあるんですけど、なかなかはっきりしたことがよく分かりません。その雲の割れ目からミサイルが飛んでくるということで、それを下から見ると非常に切迫感があるようなそういった模型の作り方をしていたような経過があるようです。
ただ、私はいまになって、今回撤去するときに苦労したのは、とにかくなかに鉄の芯が入って、ものすごい重さになって、なぜそこまで演出だけであればそこまでの重さにする必要があったのかが最後まで分からなかったような状況なんですが、足場もお金かけて組んで、いまちょっとはずしてみて、ひずみが出るかどうかというのを見ているような状況です。
先ほどごらんになったら分かるように、やはり何かあったほうがいいのは間違いない。前あったのは確か古いトマホークですかね、古い機械で当然時間が過ぎれば変わってきますので、それ以降考えたのは新しい情報を組み込みながら何か展示物はできないかということで、これはまた次回以降で具体的な案をお示しして、また皆さんのご意見をいただきたいと思います。

【委員】
資料館というのは非常に暗いイメージがあるわけですけれども、そして最後の出るところで、核兵器が無くなったらという希望が与えるようなそういう展示の内容にしたらどうかなとちょっと私は思いましたけれども。

【会長】
分かりました。いまご要望みたいなことでありましたので、その意見も十分事務局のほうで踏まえて、よろしくお願いします。

【委員】
これまでのミサイルを含め、撃っていたという意味で展示されているんですが、最近の自衛官の関係の方と話す機会があって、今年の夏だったですか、ハワイで日本の陸上自衛隊がミサイルを飛ばして、目標物を落としたという産経新聞の記事が出ていたんですが、意味が解らなかったので船の艦長と会う機械があって話をしたら、要するに今まで見てるところをミサイルでやっていたのだけど、そうではなくて、地球規模で衛星を利用して、普通、目では見えない地球の向こうにいる船を攻撃するというのが、もう日常になってきているという話だったんです。それで艦長に聞いたら「うん、そのとおりなんです」と、だからイージス艦がうんぬんと言っているけど、もう見えているものではなくて、極端なことを言うと、地球の反対まではちょっといかないのですが、そこまでいって、科学技術の発達がものすごいと、だから原爆なんかの場合でも数が増えている、減っているというような議論がたくさん出るんですけど、その運搬手段についての議論はあまり出てこないです。新聞に。だから、ああいった核の内容とそれから運搬手段の発達がものすごくあるということですので、そういう目に見えない発達、軍事的に動きがあるというようなことが分かるような展示をしていただくほうが、見学者がこれ大変なことに、科学技術と一言で言うんだけど、その化学技術の意味ですよね。従来と全く違う次元でそういった開発が進んできているし、それもしっかり精巧にできているし、ボタンを押せばもう目的地に着くという状況まできているということのようなので、だからそういった怖さというか、ものを見るときの考え方をもっと大きくしてもらうという意味でそういうような展示が考えられないかなと、だから上だけではなくて、全体を使って地球の、それはできるかちょっと分からないですけれども、反映みたいに、こっちからは人が見えないようと、だけどこれをやる時代になってきているよというような科学技術の発達を考えさせられるような、展示をこれから検討されるという、検討していただいたらどうかと思うのですが、いかがでしょうか。

【会長】
ありがとうございました。科学技術の発達にそういうことで核の脅威ということについても考えてほしいというご意見だと思うんです。

【事務局】
委員がおっしゃるように、核兵器というのは14,000発以上あるなかで実際、現実の脅威なんですけど、私たちに日常的にほとんどの脅威を感じることがない。そういった意味ではその脅威をやはり具体的に目に見えるようなかたちで、見えない恐怖を見えるようなかたちでの展示というのを考える必要があるなと思います。具体的になはかなかそれが難しいということは確かにあるんですけれども、直観的に分かるようなものということで、前のミサイルもそういったものだったと思いますけれども、何かそういった工夫がちょっとする必要があるかなと思いますので、ちょっとまた前みたいに検討をさせていただきたいと思います。ありがとうございます。


(2)Dコーナー(ビデオルーム2)の上映内容の更新等について

【事務局】
先ほど、Dコーナービデオルーム2を見ていただきました。このコーナーでは、「核兵器のもたらしたもの」「核実験と反核・平和」というビデオを上映しておりましたが、昨年度末より核兵器廃絶に向けての機運の醸成をアピールするため、核兵器禁止条約誕生までの流れと核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の活動やノーベル平和賞の受賞などを紹介した上映内容に変更しました。また、ビデオルームについては、家族交流証言等の場として活用を図っているところです。このため、Dコーナーにおいては、一般の来館者を含め、より多くの方々に観覧していただけるよう開放しているところです。説明は以上です。

【会長】
ありがとうございました。今、見学してきたところなんですけれども、あそこで上映の他に、家族証言、交流証言も行っていると、だいたい20人ぐらいは座れるというか、立って聞くことも見ることもできると思うんですけれども、これについてご意見・質問等承りたいと思いますけれども、いかがでしょうか。

【委員】
お伺いしたいんですけど、一般の観客というか見学者からのいろんな意見とかを出されているかと思うんですが、何か核廃絶についてこうすればこうなるのではないかとか、こうすべきではないかとか、何か具体的な話が出たりすることというのはあるんでしょうか、ただ見て「ああ、核はこんな落ちたのか、大変だったな」ということだけで、原爆資料館から出られているような気がするんですけど、本当にいらっしゃる方をなんとかしなきゃと思われているのはよく分かるし、私たちもそれは思うんですけど、名案というか、名案があれば、名案をすぐ実行されるんでしょうけど。

【事務局】
原爆資料館を見学していただいた方からいろんなご意見はいただいております。やはり一番多いのは修学旅行生が、これは平和教育の取り組みの一環として、見学した後にもそれぞれが手紙を書いて、私どものほうにまたお送りをいただくということで、これは一般的な平和を願うというかたちなんですが、やはりなかには具体的な現実の政治を見据えたうえでのお話というのが、ご意見というのがこれも無いわけではありません。ただ、なかなか私どもも回答ということは難しいところもありますので、確かに非常に専門的な立場からのご意見もいただければ、いろんなそれぞれの思いを込めて、いろんな立場からのご意見もいただくというような状況にはあります。

【委員】
この展示内容が変わったということを来た人に宣伝するんですかね、そういうことは入った人にすぐ分かるようになっているんですか。例えばICANのノーベル平和賞のメダルとか、このビデオ変わったとか。

【事務局】
ここに来られる方はリピーターではなくて、一回限りということで、具体的に変えましたよ、という展示の情報提供というのは、これはまったくしていないようなところがありまして、ただ先ほど田中委員さんからごらんいただいたように、ずっと見ていって、できれば最後の所ぐらいは、ビデオコーナーの1というのは、原爆の当時のアニメーションは非常に悲惨なものがありますけど、少し明るい話題の提供の場所があっていいのではないかということで、今ICANの紹介をしたり、家族証言の取り組んでいる姿自体を見ていただくというかたちも含めて、印象として少し変わったというところはあるかもしれません。ただもうちょっと具体的に今これやっていますよというかたちでの情報提供というのはもう少し必要かなとは思います。以上です。

【委員】
質問です。家族証言のほうは見ていないので何とも言えないですけれども、ちょっときょう見せていただいた、全部を見てないので評価のしようがないんですが、ちょっと文字が小さいとか、文字が多すぎるとか、中学生とか小学生があれを見たときに果たして、ここで未来への取り組みということで、足を止めてあそこで本当に勉強ができるかなと思うと、ちょっと小学生・中学生には難しいし、字も多くて英語もあるので流れが早いし、映像も小さいというんですか、もうちょっと大人対象ということではないと思うし、結構子どもが、修学旅行生が多いと思うので、もう少し内容を変更とかいうことはできるんでしょうか。

【事務局】
いまご指摘いただいた、いま現在ICANの紹介というのはもともと円形のパビリオン)のところで置いていたパネルを基に急遽作ったパネルだったものですから、それを基に今の映像を作っておりますけども、いまご指摘いただいたように、もうちょっと文字も大きくして子どもにも分かりやすいようなかたちで、あのコーナーというのは少し足を止めてもらいやすいようなところが確かに必要かなとは思います。
このあいだ、地球市民集会の中で絵本の特別企画があって、私も見せていただいたんですが、その時の先生のお話が子ども向けのお話で非常に分かりやすかったというのは、核兵器は何でできているか分かりますかという質問を投げかけたあと、当然ウランとか原料の話をするのかプルトニウムと言うのかなと思ったら、「あいつが憎いぞ」とか「やっつけてやる」そういった気持ちで、お話をされて、私は非常に感心しましたけども、やはりもう少し小さな子どもさんにも分かるようなかたちで、いまはちょっと始まったばかりですけれども、今のご意見を参考にさせていただいて、あのコーナーの活用に関してまたいろいろ工夫をしてみたいと思います。何かご意見あれば、ここ以外の場所でも結構ですので、いただければ、やれるかなと思っていますので、また、内容の充実を図りたいと思います。

【委員】
是非、今回のお話のこともよかったと言われるんですけれども、そういう方とか、それから実際ガイドで小学生・中学生を相手にずっと説明をされている方とか、学校の先生方とか、そういう方々からの意見を取り入れて、できるだけ分かりやすいように是非作って利用ができるようにしていただきたいと思いますのでよろしくお願いします。

【会長】
今の要望一つよろしくお願いします。覚えといてください。

【委員】
すみません、ビデオのことなんですけど、こういう動画に変わったということで、見学をさせていただいて、これがまとめ振り返り、被爆継承の空間というようにあったものですから、全体では伝わるんでしょうけど、ああいうなかに若い世代がどう取り組んでいるかみたいなところをああいう動画の中にももう少し入ったがいいのかなという思いもしました。
というのはこの前の地球市民集会ナガサキの分科会でも大学生がこの平和運動をすることに対して、就活に影響があるとか、そういったような意見が出ていたというのを聞きまして、やはりこの若い世代の人たちが自分たちが携わったことで、どう実際若い世代が大きな声になっていくというのが非常に影響力があることなんですけど、どういうふうにそういった意味では影響があっているかとか、どういう運動を若い人たちがしているかみたいなことも、最後振り返りの中でああいう少しちょっと絡んだ映像でもあればいいのかなと、これは感想ですけど思いました。

【事務局】
ご意見ありがとうございます。
きょうご説明させていただいたなかに、ビデオルーム2を学習室として活用ということで、随時大型モニターを活用して、家族交流証言などを行う学習室として活用しているという記載部分がございますけれども、こちらの空間のビデオモニター、かなり大型なモニターになりますので、実は横に接続、コネクターがありまして、そこにパソコンをつないで、家族交流証言者がこの場でお客様に向かって説明をさせていただいている講話の日がございます。その日は家族交流証言者ということで、今被爆者につながる次の世代ということで、若い方たちが皆さんにご説明を被爆の体験を代わってご説明をさせていただいております。そうしたなかには、今10代のお子さんというか、10代の若い方たちもいらっしゃいますので、そういう方々がこの空間を活用して新たに若い世代、それから被爆を知らない世代の方にお話しをしていただくという空間としても活用させていただいております。今いただいた意見の、福澤委員からのご意見の中にはいろいろ上映している映像の中にも、若い世代の活用というものを入れていただいたらいいのではないかということだと思いますので、そのへんも含めてちょっと今後はまた検討をしていきたいと思います。以上でございます。

【委員】
小学校に務めております。今年初めて家族交流証言を学校で6月に行ったんです。私、伊王島ですので、非常に遠いということで、直接被爆を体験された方というのは、ちょっと遠方なので行きにくいですということで、体験を聞いた方が伝えてくださるという被爆講話をしていただいたんです。私も、今までずっと毎年被爆者の方のお話を聞いていて、やはり大変申し訳ないんですがやっぱり切実感って違うなというような気がしました。ただ、もう、これからはこういう状況になっていくんだろうなと、だんだんもう73年も経てば直接経験された方が少なくなってきて、それを伝え聞いた方から、伝え聞くと言うようなかたちになっていくんだろうなと思いました。きょう、先ほど見て回ってやはりビデオというかたちで証言を残していくとか、伝え聞いた人が伝えてもらうというようなかたちになっていくんだろうなというふうに思いました。
最後のICANの話も今年の原爆の日にしたんですけれども、すごく前向きで今から何か明るい話題だなと、こういう明るいニュースが出たときにはどんどん資料を変えていっていただきたいなというのが願いです。
先ほどリピーターは来ないと言われました。そうだろうなと、ディズニーランドやUSJみたいなもう一回来るという施設ではないんだろうなと思います。修学旅行などで一度来て、でもそこで見たものが素晴らしいということで、このトリップアドバイザーというものの一番をいただいているというのは、一回来たことでのインパクトが素晴らしいんだろうなと、資料館の方の努力の成果だろうなと思いました。さらに、資料など本当に新しくあたらしく、新しいものがあれば変えていくというようなことをしていただければ、すごい大きなインパクトになっていくのではないかなというふうに思いました。以上です。感想です。

【委員】
質問なんですけど、日本人の方と外国人の方、比率は最近のデータはどれくらいなんですか。

【事務局】
29年度の全体の入館者数は705,314人で、そのうち外国人の入館者が135,900人ということで、パーセンテージにしたら約18.5%ということになります。

【会長】
このトリップアドバイザーというのは、旅好きの人が選んだ博物館ということと聞いておりますけども、やっぱり過去、鹿児島の知覧の博物館とか広島の平和資料記念館が1位になって、長崎にあった資料館が1位なったのが初めてだそうですけれども、やっぱりこういった戦争の記録というのは、非常に鮮明に訪れる方の印象に残るんではないかという気がするんです。そういう意味でどこが印象に残ったのかとかいうことまで知りたいと思いますけども、やっぱり展示を含めて、そういう先ほどのビデオコーナーでの表現とか、幅広いそういう資料館での訴えというのが訪れる人の気持ちに沿っているのではないかというふうな気がします。

(3)「図書館(ビデオコーナー)の視聴コンテンツの追加について
(4)被爆資料の紹介「工場日記」

【事務局】
会長失礼します。被爆継承課松尾でございます。それでは、原爆資料館のほうに新たに収蔵または寄贈していただいた資料を展示しておりますけども、その中で特に注目しております資料について、今回ご紹介させていただきたいと思います。
正面のディスプレイに今表示しておりますけども、「ゼノ死ヌヒマナイネ」という口癖で、長崎の方々それから東京の方々に親しまれた、ゼノ・ゼブロフスキーさんという方の生涯についてまとめたビデオが原爆資料館に本年8月寄贈を受けました。このビデオについては、DVDというかたちで、ポーランドと日本の国交回復60周年の記念事業ということで、ポーランドの外務省がお金を出して、現地で作っていただくための準備をされ、日本に取材に来て作っていただいたものです。この中にはゼノ修道士様が長崎に非常にゆかりのある方で、本河内の聖母の騎士の修道院のほうにおられましたので、こちらの中で原爆も体験され、その後長崎で当時発生したといいますか、原爆の際に原爆孤児というものを皆さん言葉ではお聞きになったことがあろうと思うんですけども、原爆で両親を亡くされ、孤児になった方々を特に社会福祉事業として、聖母の騎士のほうでお引き取りになって、その後諫早のほうに移られて、また諫早のほうでもその活動をされたというふうなこと、それから東京のほうに移られて、東京のほうでも「蟻の街」ということで、東京の戦災の中で被害を受けたお子さんたちを身が立つように、いろいろ支援なさったということで、後々は瑞宝章を受けられたり、ポーランドの国からも勲章を受けられたりして、社会福祉に貢献されたということで、私どものほうにビデオを作って、その生涯を表すものとしていただいたものでございます。
一つその原爆について、非常に長崎原爆資料館とご縁があるという点で今正面に映しておりますのは、私どもの原爆資料館常設展示の入口、入ったところに11時2分で止まった柱時計がございますけども、この右側に実はモニター、ディスプレイが置いてありまして、こちらに被爆前の長崎の写真をこちらに入れさせていただいております。
モニター形式ですので順次繰り返しながら写真が出てくるんですけども、その中の1枚ちょっとごらんいただきたいんですけれども、こういうふうにこれは太平洋戦争直前の町内の運動会ということで、ご寄贈いただいた写真でございます。丸で囲ったところに少し日本人とお顔立ちが違う方がいらっしゃると思うんですけれども、この方が実はゼノ修道士様で、ちょうどここに映っておられる方です。偶然、運動会のほうに参加されていて、地域の中での行事に参加されて写っていたということで、資料館の常設展示としても開館以来ずっとここにこういうようなかたちで写真がございます。これは今回ご寄贈いただきました、DVDのラベルになりますけども、こちらの右のお子さんをお膝に乗せられて非常ににこやかな表情をされている方でゼノさんがこちらでございます。
少しビデオのほうは私どものほうの上のほうに長崎原爆資料館図書室というのがございます。そちらでは、DVDをデータベース化いたしまして、ちょうど資料のほうは6ページのほうをごらんいただきたいと思うんですけども、6ページに先ほど映しました、このラベルの写真の下のほうに、いくつか3枚ほど写真がございます。この3枚の写真のうち1番左のほうにありますのにいろいろメニュー欄がございまして、ここを図書室に行って画面をクリックすると、このビデオを上映するのを見ることができるという仕組みになっております。少しだけ、実は30分の長い番組になっておりまして、その中にはその長崎で被爆されて当時ゼブロフスキーさんとお隣の部屋だったという小崎登明様、今諫早のほうにいらっしゃいますけども、この方は以前は被爆体験証言を長崎のほうでされてましたし、聖母の騎士のほうで当時一緒にいらっしゃって、この方も非常に有名な方なんですけども、被爆の体験をお話しされた方です。この方も修道士会の岩崎さんですね。この方もゼノさんの生前の間に交流があられた方でゼノさんの人格お姿をよく知っておられる方です。

 (DVD観賞中)

【事務局】
途中ですけど、この番組だいたい30分ぐらい構成されておりますけども、今お話しされたのが聖母の騎士修道会にいらっしゃる小崎登明さん、トーマス小崎というふうなお名前で当時撮影された当時、現在90歳ですけれども、昨年だったと思いますので89歳のときに撮影されてますので、非常にお元気な方でこの前ちょっとお会いしたときもやはり明るくて聖母の騎士のお子さんたちに、いろいろ今までお話をいままでされてきた方です。このDVDについては先ほども申し上げましたけども、デジタル化して図書館のほうでご自由にご観覧いただけるような仕組みを作っております。
他にもビデオコンテンツとして現在90本を超えるDVDを当館所蔵の分も含めてデジタル化して図書室のほうでご観覧いただけるような作りにしております。
続きまして議事4のほうに入らせていただいてよろしゅうございますか。
それでは議事4のほうに入らせていただきますけども、同じように昨年から今年にかけて資料館のほうに収蔵いたしました資料の中で現在企画展示室のほうで新着・収蔵品展というのを開催させていただいております。その中で新着収蔵品展の中で私どものほうで展示させていただいているのは、こういうふうな状態で展示ケースの中に入れて不特定多数の方がいらっしゃいますので展示ケースの中に入れてポイントポイントというものを解説するようなかたちで展示させていただいているんですけれども、この資料についてちょっとこちらのほうにお持ちいたしております。どういう点についてこの資料の価値が高いと思うのかという点を含めて、この資料の重要性というものをちょっと皆様にお伝えしておきたいなと思います。
今回資料をいただきましたのは、この工場日記と言われるものです。これは長崎原爆当時に長崎には女学校がありました。県立長崎高等女学校、東高とか西高の前身に当たる学校です。当時女学校ですのでやはり非常に勉強に志を立てた方が通っていた学校ですけれども、そこが戦時中ですので工場の動員ということで、工場に働きに行っております。
それは授業の一環というふうなかたちで工場に動員されているんですけれども、この県立高等女学校の女学生たちが当時どのようなかたちで動員されたのかというふうな日常の動員状況について、この角田京子先生、動員された子どもたちを監督する教員として工場のほうに出向いてどういうふうな出勤状況であるのかというのを見守った方です。この方はじめ3人の監督の教員がいらっしゃるんですけれども、その3人の教員の方々3人とも原爆で亡くなってしまいます。
亡くなった時期が若干時期がずれるんですけれども、この角田先生が一番最後までご存命だったということで、亡くなったお二人の先生方に代わって工場動員されていた学生さんたちの行方を捜して、その安否状況を調べるというようなことをご自分でされていますので、非常に外傷が実はない状態で亡くなっていくという、原爆症にほぼ間違いないと思いますが、関連資料として右側のえんじのやつ「たちばなの歩み100年」というのは、県立高等女学校の同窓会のほうで発行いたしましたご本です。
それから、「あの日あの時」という本は茂里町の工場のほうに動員されていた方々を中心として手記をまとめたものです。実は、大橋工場のほうは県立高等女学校でも43回生が動員されております。当時3年生です。茂里町工場のほうには42回生一学年上ですね、4年生の方々が動員されておりますので、「あの日あの時」の実際の中の手記というものについては42回生の方々、特に42回生で著名な方というのは、嘉代子桜で有名な林嘉代子さん亡くなっておりますけれども、この方が42回生で非常に著名な方です。今回の角田京子先生は43回生の大橋工場のほうの担当でございましたので、この工場日誌の中には43回生の安否状況というもの、それから工場に動員されたときの状況というものがこの日誌にかなり克明に記録されております。
例えば、これ日誌の一部をちょっと拡大させていただきますけれども、大学ノートにこういうふうにきれいな字で書かれているんですね、上に監督職員ということで蒲池悦子、角田京子、立花玉枝という3人のこの方3人とも先生です。学校の教員で生徒の動員状況を確認するために一緒に大橋工場のほうに行かれています。右上に山本という○(まる)山本とサインみたいなものがありますけれども、当時の県立高等女学校校長先生が山本先生ということで、おそらく校長先生にお見せになったときのサインのような感じになっております。だんだん先に行くと山本という印鑑が押されるようになってきます。ここに書かれていますのは5月25日天候晴れということで、天気から始まりまして当日の欠勤者学徒行かれているなかで、この生徒さんは休んでいましたよということが書かれていたり、事故ということでケガをされた方々がこういうお名前の方で、どういうふうな症状にありますよとか、奥村さんという方は扁桃腺のため発熱で早引きさせるというふうにこの日記には、工場日記ということで非常にパブリックな面も工場の日記とかはあるんですけれども、非常にむしろ身近な生徒さんたちの現況・状況を表すものとして、非常に記録性の高いものだと思います。
それから当時7時50分に整列して8時入所式開始この日が動員された最初の日なんですね、最初の日に日記をつけ始めております。さらにずっと進んでいくと、例えばここですね、5月28日日曜日晴れここ8時30分ということで、体操開始と書いてあるね、体操開始8時35分途中警戒警報発令により、射的場杉の木下に分散対比ということで、警戒警報空襲警報の前に注意しましょうねということでの警戒警報が鳴りましたよと、それからこういうふうに何時に解除されましたよということが実はこの日記にはずっと書かれております。そういうふうなものを展示した後私どもまとめていくと、非常に頻繁に警戒警報だとか空襲警報が発令されていたというのがこの記録では分かってきますし、この中でもう少し先のほうに行くと、8月8日水曜日天候晴れ8月8日ですね原爆の前の日、ここに欠勤者ということで名前がずらっと書かれているんですけれども、欠勤者が8月になるとかなり増えております。この関係がちょっとどういうことかなというものもこの欠勤者の状況人数というものをちょっと把握していくと、この6日も欠勤者がかなり多いんですね、それから4日前にずっと戻っていますけれど、4日になると1ページ一面ほとんど欠勤者の名前が書かれている状態で、7月31日はこれくらいの欠勤者の状況で、実はいろいろ私どもも他の資料とか照らし合わせてみますと、7月の末から第4次、第5次、第3次から言いますと、空襲が頻繁に長崎に爆弾が実際に落とされるようになります、特に7月の31日それから8月の1日というのは、長崎大学病院に直撃の通常爆弾が投下されたりして、この地域が非常に戦火にもろにさらされた日になります。その翌日ぐらいから、実は欠席者が非常に増えていっていますので、体調も心情面でも体調が悪くなったりとかご家族の方も特に心配されたりして増えていったんじゃないかなというものも推察される次第ですね。
あと、私どもがその辺をちょっと表にまとめてみると、こういうふうにちょっと表を作りまして、5月25日に動員で工場に行き始めました。そのときの欠勤者というのは4名でしたと、最初は少ないんですね欠勤者が、だんだん日が経っていくと欠勤者もだんだんだんだん増えてくる、これは疲れたというのもあるのかもしれないんですけれども、欠勤者がどんどんどん増えていって、特に急速に増えるのが8月の2日の日に104名、ここ前日の50名から、50名でも結構多くなっていくんですけれど、ここからずっと倍以上に欠勤者が増えております。
これがこの日に長崎大学病院に爆弾が投下された日ということで、ここから急速にいったん欠席者が増えていくという状況もこの資料からは見受けられます。これがそれをちょっと表にしたものですけれども、8月1日8月3日あたりでは全体的に欠席者の数が増えていくというふうなものが、ちょっと客観的に見るとそういうふうな現象が見受けられます。
あと、この原爆投下の際この動員学徒たちの監督職員であった角田京子先生は、実は学校の業務で出島のほうにいらっしゃっておりました。出島のほうで原爆を体験する、被ばくするといったことになるんですけれども、慌てて工場のほうの自分の生徒さんそれから同僚の立花先生、蒲池先生を捜しに行くんですけれども、同僚の方、特に立花先生はほとんど即死状態で機械に挟まれて亡くなっていた、蒲池先生もひん死の状態でそのままご自宅のほうに運ばれてのちに亡くなったと聞いているということで、特に3人の監督先生の中で自分だけが無傷で生き残ったということで、その日から生徒たちを探し回って大橋工場のほう、それから関係の茂里町のほうに行かれたりして、ずっとこの資料を作っておられます。ここ第1機械と書いているのは第1機械の課といいますか工場で、その中の名簿ですね、ずっと自分の生徒さん、県立工場の生徒さんたちをずっと調べて分かったものから健在であるとか、それから当日休みというようなことでこの方は書かれていますね、あと負傷しているけれども自宅のほうにいたと、こういうふうななかにお名前がずっと記載されているんですけれども、実はこの角田先生8月の18日になると高熱を出して倒れられます。
そのまま療養生活に入られますけれども9月の7日には亡くなってしまいます。ですからこれは、当時その場その時に書かれた記録ですので、特に内容が変わっていることはありません。ですから非常に記録性が高いもので、当時のことを非常に振り返ってみるのには私どもとしては、当時上書きされていないという点では、非常に資料的価値が高いものだと考えておりますし、この中に非常に私どもがいろいろ原爆を知る上で著名な方々のお名前が出てくるんですね。鉛筆書きになるので分かりづらいかなと思いますけれども、こちら石田雅子さん軽傷と書いてあります。「雅子斃れず」というふうな原爆初期の手記を書かれていた石田雅子さんのお名前がここに書かれておりますし、もう少し先のほうにいきますと、このページのここですね、宮崎京子健在、諫早に帰宅というふうに記載されています。宮崎京子と言いますと林京子さん芥川賞で、「祭りの場」で芥川賞を取られた宮崎京子さん、林京子さんとしてのペンネームと言いますか著名で有名な方もここに記載されていますので、非常にこの43回生の大橋で被ばくされた方々の当時の非常に親近感を持ってこの資料を見ることができますし、こういうふうな資料の中から当時の学生さんたちをより身近に知るということができると思います。非常にまだこういうふうな内容ですので、全体的な内容を調べてもっといろいろな方にお知らせするにはもう少し時間が必要かと思いますけれども、私どもちょっと最近やったのは平和案内人さん、平和推進協議会のほうに平和案内人さんが班別研修というのをやられているんですけれども、その班別研修の中でワークショップ的に皆さんでこの資料を見て、警戒警報だとかそれから空襲警報どれくらい起きていますかって、普段の原爆前の日常っていうものはどういうふうなものだったかなというのも一つ考えるきっかけとしては非常にいい資料になっております。
資料このような形で今私どものほうにご寄贈いただいている状況ですけれども、もう少し資料を詳しく調べたうえで更にいろいろな形で、来館者それから見学者の方にお伝えしていきたいと考えております。
以上でございます。

【会長】
ありがとうございました。
ゼノ修道士のDVDとそれから角田京子先生の工場日記、特に角田先生の工場日記というのは被爆後もさることながら被ばく以前の記録が克明に毎日記録として残されている。とても貴重な被爆資料ではないかというふうに思います。
特に、角田先生は同じ監督教官であった蒲池先生と立花先生が亡くなられたと、自分はたまたま船場町の電停にいて助かったということなんで、非常に責任感の強い方だったようですね、次の学徒の42回生、当時4年生の方々の「あの日あの時」の本の最初に角田先生の手記が残っていますけれども、やっぱり本当当時の14歳15歳の子どもたちの少女たちの生きざま、それと先ほどから説明がありましたように、7月29日、31日、8月1日と爆撃されて、500人を超える死傷者が出ているわけですけれども、そういうのとダブるみたいですね、欠勤。私勝手に感想を申し上げましたけれども、皆様のほうからも感想等があれば承りたいと思いますが、特にございませんでしょうか。特になければ議題としては一応以上を持ちまして終わりでございますので議事を終了したいと思いますが、よろしゅうございますか。
それでは進行を事務局にお返しします。

【事務局】
それでは、以上をもちまして平成30年度長崎原爆資料館運営審議会を閉会いたします。本日は、議事進行へのご協力ありがとうございました。

お問い合わせ先

総務部 行政体制整備室 

電話番号:095-829-1124

ファックス番号:095-829-1410

住所:〒850-8685 長崎市魚の町4-1(9階)

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