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平成30年度第1回 長崎原爆遺跡調査検討委員会

更新日:2018年11月2日 ページID:031984

長崎市の附属機関について(会議録のページ)

担当所属名

原爆被爆対策部被爆継承課

会議名

平成30年度第1回 長崎原爆遺跡調査検討委員会

日時

平成30年7月2日(月曜日)10時30分~12時00分

場所

長崎原爆資料館 2階 会議室

議題

1. 前回会議での意見・指摘等への対応について
2. 山王神社の調査について

審議結果

【会長】
 まず、「前回会議での意見・指摘等への対応について」の事務局の説明をお願いいたします。

  〔事務局より資料1「前回会議での意見・指摘等への対応について」を説明〕

【委員】  
 前回の現地調査のときに被爆地層が明確に確認できたという報告を受けた際に、そのように明確に検出できるのはそう多くはないという指摘をし、できれば地層の剥ぎ取りをするよう提案しましたが、その後どうなっていますか。

【事務局】
 今年度は予算がなく、具体的には動けていない状況です。

【委員】
 それでは、調査した所は埋め戻していて、取り出したらまた地層がそのまま出てきますね。

【事務局】
 地層は残っております。

【委員】
 どこかの時点で地層の剥ぎ取りをやっておけば、明確に遺跡がものをいうんです。地層、明確にこの部分が焦土と化した部分、その上に瓦礫の地層があるんだと。この瓦礫は、捨て場だったけれども、それは人的な行動がその中に明確に表現されているわけです。そういう意味で地層の分かる部分は採って、二次的にあとで展示用にも転用できますので、一つの証拠の記録として、特に山王神社の地層の剥ぎ取りはやってほしいと思います。

【会長】
 これは事務局として一応予算化を今後図っていただくというようなかたちでよろしゅうございますか。

【委員】
 そんなにはお金はかからないですよ。樹脂を吹き付けて剥ぎ取ればそれに土でも何でもついてくるわけです。

【委員】
 いまの地層の剥ぎ取りという件もそうですが、この調査の結果を最終的にはどう表現していくのかをそろそろ視野に入れたほうがいいと思っておりまして、展示する場所や見せ方、印刷物の水準などを少し詰めていく必要がある。

【会長】
 今後もどのように見せていくか活用の問題も含めて、どう対処するか、報告書を作成するに当たって、今後報告書がいろんなかたちで利用されるという場を想定しながら、その中に登載していかなければならないという問題もあると思います。確かにいまのご指摘の中において、事務局にも申し上げておきましたけれども、一本足鳥居の壊れたほうの部材のどの部分が残っているのか、果たしてあれで100%復元できるのかどうか、この辺りもちょっと対応して、考えておいていただきたい。実際に壊れる前の状態をそのまま生で見せることはできないが、この部分は「その後どうにかしてもう無くなってしまった。」というようなことで出てくると思うんです、そういうのは今後の壊れたほうの資料をどのように扱うかという問題も生まれてくるので、見せるときに「残ったのはここにある」と、その部分も100%は残っていないということも把握していきたいと感じております。

次に「山王神社の調査」について移りたいと思います。事務局から説明をお願いいたします。

【事務局】
 資料の2ページ、山王神社境内は、平成28年度の試掘調査を経て、長崎原爆遺跡(山王神社)として周知の埋蔵文化財包蔵地となっています。調査は昨年の12月から今年の3月まで行っていました。

平成29年度の調査範囲は山王神社の境内であり、資料の3ページのように拝殿へ上がる階段を境に「階段北側下段」「階段北側上段」「階段南側」と大きく三つに分かれています。階段に向かって左側である階段北側の下の段では原爆被爆後の瓦礫の整理等による土地の改変の痕跡を確認する目的で調査を行い19基の石造物を確認しました。石造物の配置図は4ページにあります。特筆すべき石造物としては3基確認された鳥居の扁額が挙げられます。

3基の扁額はそれぞれ「日吉神社」「山王宮」「日吉神社」と刻字されています。また、調査範囲からは離れますが、神殿の前にも「山王宮」と書かれた扁額が確認されており、合計4基の扁額が山王神社境内に残存していることが判明しました。この4基の扁額は境内に設置されていた三の鳥居及び四の鳥居の扁額である可能性が高いと考えられます。なお、2基の鳥居に対して4基の扁額が存在することについては、鳥居の前後にかけられていたためと考えられます。

また、ほかに特筆すべき石造物としては1929年度の長崎市史に記載がある常夜灯の石碑が挙げられます。「天保五甲午正月」の刻字が確認されます。常夜灯本体ではなく由来を記した石碑ではありますが、山王神社の歴史を示す資料と言えます。加えて、写真5の石造物もいびつな球形をしており、一見するとただの礫ですが、落下しないように礫で支えられているため、何らかの供物である可能性が考えられます。

階段北側上段にも、調査の結果、灯籠の一部と思われる石造物や玉垣が確認されました。写真6の灯籠には「明治二巳年五月造立」「本原郷」と刻字されていることから明治2年、1869年に本原郷から奉納されたことが分かります。また、一部ホゾ穴が確認されることから、原爆で倒壊した後に破砕して再利用しようと試みたことが看取されます。以上から階段北側上段の灯籠は戦前、原爆投下、戦後の経緯を示す貴重な石造物と言えます。

階段南側でも、腐葉土を除去し、写真資料を分析した結果、現在段状地形になっている部分の下に被爆当時の石垣が残存している可能性が高いことが判明したためトレンチを設定して調査を行いました。

資料の7ページの写真10は1945年10月に林重男氏によって撮影されたものです。黄色い線で囲まれた部分の拡大と現在の様子が8ページに載っています。写真右側に写る石垣は現在も残存している階段南側の石垣であり、石垣の左側には拝殿へ上がる階段が確認できます。また、石垣の手前に写る構造物は現在も存在する舞台と思われます。加えて、舞台と石垣の脇に確認される2本の樹木は現在も残存している樹木と同一のものと考えられます。被爆直後の写真において最も注目すべきは、石垣がほぼ垂直に舞台の高さ付近まで確認でき、現在のように石垣前面に張り出した部分が見当たらない点です。右側が南側で、階段から南側へ傾斜しているように見えます。原爆投下当時、階段南側は北から南へ現在よりも傾斜していた可能性が考えられ、原爆投下時と現在では地形が異なる可能性が高いです。おそらく現在の石垣前面の大部分、特に南側は盛土であると思われ、舞台の高さまで石垣が埋まっていると考えられます。

階段南側の西側から樹根が巻き付いた状態で石列が確認されました。石列の並びは石垣前面の張り出し部分の石積とはつながらないため時期が異なる遺構であると考えられます。また、石列に巻き付いている樹木は原爆投下以前から生息しているため、戦前から存在している遺構である可能性が高いです。

階段南側の社殿寄りの東側において礫や瓦、白色物質、赤土が集中している遺構を確認しました。遺構の範囲は1.5平方メートルほどであり、ほかの地点では腐葉土直下で類似する遺構は確認できませんでした。

なお、白色物質と赤土に対して自然科学分析を行ったところ、白色物質はカルシウムが主成分で、漆喰である可能性が高いという結果を得ました。また、赤土はアマカワである可能性を考え、出島石垣のアマカワと比較してみましたが、これとは元素組成が異なっており、一般的な土壌の分析結果と類似しているということが判明しました。

写真分析の結果、階段南側は盛土であり石垣が地表面まで埋まっている可能性が高いことが看取されたため、石垣の有無を確認する目的でL字型のトレンチを設定して調査を行いました。

地表から30センチメートルほど掘削したところ、地表以下2段目まで石垣を確認するとともに、埋められたと思われる灯籠の笠を2基確認しました。

また、土中からは灯籠のほかに多量の礫や瓦、そして白色物質や赤土が貼られた瓦が確認されました。遺物の状況から写真資料の分析結果どおり、階段南側は盛土であることが判明しました。被爆後の瓦礫を整理するために石垣の前面に倒壊した石造物などを集めて盛土した可能性が考えられます。写真資料の分析結果と併せて原爆投下時の地形及びその後の土地利用の変遷を理解する上で大きな成果だと言えると思います。

なお、トレンチ出土の白色物質と赤土に対しても自然科学分析を行ったところ、白色物質は漆喰である可能性が高いという結果を得ました。また、赤土は比較対象の参考資料である出島石垣のアマカワの元素組成と類似するものの、マグネシウムの含量が少なく、消石灰に植物繊維や山土などを混ぜた漆喰土の分析結果に類似するとの結果を得ました。瓦礫集積遺構の分析結果と併せて推測すると、境内の石畳の北側に戦前存在していたと言われる土塀の一部である可能性が考えられ、瓦礫を整理する際に、階段南側に盛られたことが想定できます。

今回の調査によって山王神社境内の一部ではありますが、階段北側の石造物の状況を把握するとともに、階段南側の大部分が盛土であり石垣が地表面まで残存している可能性が高いことが理解できました。また、更に詳しく調査の成果を挙げるとするならば、「三の鳥居・四の鳥居の扁額が残存していることが判明した」「写真資料の分析結果を補完する調査成果を得た」の2点が挙げられます。

今後必要なこととしては、「境内に分布する石造物の配置図・立面図・拓本等現況記録を作成すること」
「史跡にふさわしい範囲を精査すること」が挙げられると思います。
これらの調査を進め、平成28年度以降の調査成果を報告書にまとめていきたいと考えています。

資料の12ページから、現在策定作業中の長崎原爆遺跡保存活用計画の案の一部を掲載しています。
13ページは山王神社の全体図で、赤色で示される地区は現在の史跡指定地です。

青色の地区は、それ以外の被爆当時の山王神社の境内と参道の範囲です。一の鳥居があったあたりより東を着色しています。一の鳥居は1962年に倒壊して撤去されています。現時点では、現在も神社の信仰の場となっている範囲が史跡になりうるのではないかと考えています。この範囲については特に先生方からご意見をお聞かせいただきたいと思います。

山王神社以外の原爆遺跡も含めたスケジュールとしては、山王神社の石造物調査、被爆時からある樹木などの植生調査を踏まえて範囲の精査を行い、山王神社の価値付けのめどが付きましたらほかの遺跡、旧長崎医科大学などについても現在の指定地外で埋蔵文化財の調査など補完調査を行っていきたいと考えています。

【委員】
 石列に巻き付いている樹木1が戦前から存在しているという根拠は写真による判断ということですね。

【委員】
 樹木の1、2の木の種類分かりますか。

【事務局】
 木の専門家にまだ確認が取れていませんが、クスノキと考えます。

【委員】
 今年の3月までの調査でほぼ領域が限定されるということでよろしいですか。

【委員】
 まだ、遺跡と史跡の範囲というのは広がっていきますか。

【事務局】
 神殿の後ろ辺りの調査が少し足りないと考えます。

【委員】
 神殿の周辺の残っているところというのは、爆風に当たっていない部分なんですか。

【事務局】
 そうとも言い切れません。

【委員】
 場合によっては、爆風が当たっているということですね。

【委員】
 樹木の扱いをどうするべきか気になっていて、被爆後に残った樹木があるわけです。委員の中に、樹木とか森林に詳しい方が入っていないんですが、そちらの角度からの議論が必要な気がしました。理由は、どう価値付けをすべきなのか、前提となるような知識が、ここからまだ浮かび上がってこないからです。

 もう一つは、大きなクスノキだけが有名になっている状況ですが、もし仮に、これを遺跡の価値ということで見ると、樹木が残ったというのはどういうことなのか、樹木が残っている意味をどう受け止めるのか、もう一つのコンテキストを作れそうな気がするんです。樹木が残っているということから人がいろいろなことをくみ取れるような仕掛けがあってもいいだろうし、樹木そのものに着目することによって、遺跡そのものが、どのような被害を受けたかなど、もう少し分かることもあるかもしれないと思うので、樹木の調査を検討してよいのではと思います。

【会長】
 ただいまご指摘ありました、樹木の専門家の意見を伺った方がよいのではという案を出されましたが、今後、例えば保存の問題とか景観の問題とかで、重要な位置を占めると思うので、早めにやっておきたいなという感じがします。例えば神社となると、榊とか、あるいは無事を祈るために、特に戦時中に入るくらいは桜が植えられるとことがあったり、植生によって、それぞれのエリアの特徴を出すというかたちもありますので。

【委員】
 ここに植物の専門の委員がおりませんから、この委員会として、事務局を通して植物の専門の先生方に調査を依頼するといかがでしょう。そして、後でこの調査検討委員会に事務局から報告をしてもらう。その段階でそれをどうするのか、史跡の中に入れるのか天然記念物と別に考えるのか、どのような意味合いを持つのかということの調査を調査検討委員会が事務局にお願いをして、事務局が専門の先生にお願いをする。それを後で委員会に挙げてもらうという方法をとったらどうでしょうか。

【会長】
 植物の専門的な方たちを入れて、何とか意見を。合わせてこれは植物以外の問題も出てくると思うんです。先ほど事務局も話がありましたような、いわゆる被爆の痕跡が認められる石垣等の調査になりますと、当然石の専門家が入ってもらわないと大変ですし、そのあたりについて、事務局は検討いかがでしょうか。

【事務局】
 長崎原子爆弾被災資料審議会には樹木の専門家もいらっしゃいますので、そういう方たちに事務局で依頼し調査をして、当委員会のほうにご報告したいと思います。

【会長】 
 今後の石垣調査などをやるのにどこを調査するのか、全域をやるのかということになりましたら、多分いまのご説明聞いて、方向性やその跡を詳細にとっていけば、どの部分が残るのであれば痕跡が残るのか、残りづらい部分が出てくるのかわかると思います。

今後、石垣調査等を行うあるいは植生の調査では専門の方々に実情というか、調査に向ける部分は成果の実情を説明しながら、ご意見をいただいてもらいたいと思います。

【委員】
 この7ページの写真見ますと、山王神社の領域って全部被爆を受けているわけですよね。

【会長】
 受けていないのは一瞬に強い光が当たったときに、その逆の面になったところが当たった量が弱いもの。

もう一つは、当時は地面の上にあったのか無かったのかです。当時の地表面の中で、地面の中に入っている分については被害が少ない。今後の石垣の調査等、当時石垣としてはどの部分までが地表面として出ていたのか、あとは地中に入った根石だったのかとか、いろんなところのラインは捉えられるんじゃないかなという気はするんですよ。そうすることによってどういうなかたちで今度は廃棄されたかも出てくるわけです。

【委員】
 爆風、熱線の強弱はあるんでしょうけれども、弱いところがそのまま残って、強かったところは崩れているというその現象はこの遺跡の調査で分かってきます。次のステップをたどるような道順をそろそろ作ったほうがいいんじゃないでしょうか。

委員長がおっしゃったように、土の中に埋まっていたか埋まっていなかったか、そういう調査が今後続くと思うんですけれども、結局山王神社の領域というのはすべて被害を受けていると、その強弱はあるけれどもと、これは逆にこの写真とか植生とか、これ発掘調査の成果でほぼ次のステップへ進めるデータはもう揃いつつあるんじゃないかなという感じはします。

【会長】
 そういうふうなかたちで進みますと、山王神社についてどこまでを指定として考えていくかという考え方ですよね、その辺りをそろそろ出していかないといけないなという気はするんですが、それについてはいかがでしょうか。現在は片足鳥居及びそれの前後のいわゆる参道の一部が入っているということなんですが、参道の一部を付け足しで付けているだけでいいのかどうか、あるいはその辺りについてはどうですか。

【委員】
 まさしくそこを決めるために、樹木の調査の結果を待ちたいという感じがして、着地点のほうから先に言うと、例えば樹木だけを見ながらその解説をしていきながら被爆について語ることがある考えることができるような、ある種のツアーを想定してみたときに、それがいまこの中で話が上がっている3本だけなのか、もう少しあるとすれば、やっぱりそこを完全にカバーするということになるかどうかはともかく、そういうことが成立するようなかたちで、最後やっぱり領域を決めたほうがいいんじゃないかと、一概に痕跡のある木をすべて、この中に入れるという意味ではないですが、その結果を見たいので。

【委員】
 その当時の熱線が当たったという状況を現存する石垣の表面か何かを測定することによって、その変化を見ることができるんでしょうか。

【委員】
 私も専門じゃないので詳しく分からないところがあるんですけれど、石の岩質によって、二の鳥居みたく溶融していてすぐ見えるような岩質のものと、あの熱線程度では変質しないようなものがあったりするのではというのと、あとは今回の調査で、石垣の階段の南側、下段二段とかが埋められて出てきた部分については、もしかしたら逆に埋められていることによって、風化せずに残っている可能性もありますが、なかなか難しいという気はします。

【委員】
 いつも我々窯跡の調査をするときに、焼けた土とそういうのがないところとすっきりさせれば芽が出てきます。こんな400度以上の温度が加わればそこで磁場が発生して、現在の緯度と経度を測定することによって、大体年代も出てくるような方法がありますが、それは土を焼いてうんぬんですから、石がどうなのかなと思いまして。

【委員】
 石英質のものが高温を受けると、急激に温度が下がりガラス質になったりすると思うので、その辺が見れるような状況であれば、それを見るような測定をすれば高温を受けたという痕跡が出てくる可能性はあるかなと思います。

【委員】
 この地域は全部そうやって被爆の影響を受けるわけですから、一つ想定するかたちで山王神社の一本鳥居と、その境内というかたちで領域をある程度限定して、次の業務を進めていくような方法も、もうそろそろ考えてもいいんじゃないかなと思います。

【事務局】
 爆心地の直下の下の川のあたりの石垣は原爆によって表面が溶けたり、ひび割れが発生して表面が剥げるという現象は写真で確認されています。それがそのまま放置されて、30年40年経って、石垣の改修のときに保存している部材を見る限り、爆心に面していた面とそうでない面があまり明確に見れない状態になっているので、かなり風化が進んでいると考えられます。爆心地直下でそれですので、山王神社だとどうなのかなというのはもう少し検討が必要です。

 もう一つは、山王神社の奥のをどの程度まで領域として持つべきなのかというのが事務局のほうでも悩んでいるところでして、もともと戦前は山王神社は裏山のほうまで領域を持っていました。戦後いまのようなかたちになっています。その中で、どこにどのものが被爆のときの影響が明確に残されていて、だから追加指定したいというそこの原動力の部分で、これは確かに被爆のときにあったものだというところと、それが遺跡のストーリーとどうつながっていくのかというところを、もう少し調査をしながら、明らかにしていきたいというのが、いまの現状だと思っています。

【委員】
 前回の調査検討保存整備委員会のときでも、城山小学校の地元からお見えになった方のご意見を聞いてみたら、史跡の拡大という意味では非常に積極的なお考えを持っているみたいでしたから、もうそろそろそういう段階で四つの指定された場所の拡大というのはそろそろ考えてみてもいいんじゃないかなという感じがします。

調査検討委員会も先へ先へと進まないと、後の保存整備委員会が表に出てこない。

【会長】
 原爆の落下中心地の遺跡とは性格が若干違って、私の意見としては、信仰の対象としての山王神社が存在したということであれば、少なくとも一の鳥居から、神社の本殿と、境内を含む敷地までは当然と考えます。

同じように、城山小学校の場合は、運動場を含めた学校そのものをきちんとしていきましょうと、これは長崎大学の問題もそうだし、浦上天主堂が、そういう方向性で間違いがないのではと思っていますが、いかがですか。

【委員】
 私は樹木のほうに気を取られていたんですが、この議論の焦点はむしろA地区とB地区赤と青の設定ありますよね、問題はそのA地区だけではなくB地区の範囲がどうなるかということがあるんですが、B地区に広げていくこと自体を妥当かどうかということが一つのポイントですね。

【委員】
 私は少なくとも境内のほうが当然広がっていくんだろうというふうに思っています。

 〔事務局から図について鳥居やクスノキのある位置など説明〕

【委員】
 少なくとも神社の境内と言われる領域はやっぱり抑えておかないといけないでしょうね。

【事務局】
 この部分は、一番東端は、土留めのようのような木材が段々になっていて、どこからどこまでが実際遺跡の範囲になり得るのか少し難しい部分があります。

【会長】
 いまの社有地は、最低限基本的には含んで、例えば社有地に隣接するような民有地の中で、原爆に類するような今後、遺構等が出てくるということであれば拡大をするということで。

【委員】
 樹木で言うと、樹木に詳しい人とその辺を2~3時間歩いたら大体この辺まではという線が見えそうな気がする。そこの見解を聞きたいというのが正直なところです。初めから厳密なことを言わなくても、そこで当たりが付いてくるところがあると思うので、社有地の問題はまた別の調整のことになってくると思うので、一度樹木医さんでも、詳しい人と一緒に、歩いてみたいというのが率直なところです。

【事務局】
 境内、社殿を1番、2番、指定地域を3番、手前の参道4番とした場合、境内地及び神殿がある1番2番については、樹木について情報を採りたいのと、その価値付けについても、境内地と鳥居、非常に関連が密接であるため、特に1番2番について、現地確認を今後事務局で調整していきたいと思います。

 3番、4番については、通常の市道として使われている部分が大きいので、特に今後調査を深めるという部分ではないと思います。

【会長】
 事務局の提案は的を射ていて、的確な方向性だと思います。

【委員】
 明確になっている神社の占有地部分から先に手をつけていけばいいのでは。

【会長】
 第一の鳥居が存在した道路は幅をあとで広げているんですよ。鳥居を建てたころにはこんな幅があったんでしょうか。3番の幅と若干違いますね。その辺りどうですか。

【事務局】
 被爆前の写真などで確認したいと思います。

【委員】
 2番から下の道路は、公有地ですか。

【事務局】
 公有地です。

 境内からクスノキのところまでは神社の占有地ですが、浦上街道に出るところから市道です。

 【委員】
 それなら難しくないでしょうね。

 不足している部分の調査をどんどん進めていく、その一つが植生の調査ということになると思います。植物の専門家や樹木医に依頼すればそんなに難しいことではないと思います。小さい木は全部燃えて枯れて、クスノキのような大きくて強いものが残っているぐらいですから。やはりそろそろ次のステップを考えていきたいと思います。

【会長】
 この問題につきましては、事務局からの案が、この委員会としても最も適当でありますので、積極的に事務局で、実現に向けて推考していただきたいと思います。

【委員】
 いま一番調査が進んでいるのは、この山王神社とその境内ですから手を付けていくのはここが最初になるんですね。保存整備委員会では、城山地区の人たちが非常に積極的なご意見を持っていたようだし、いっぺんには無理でしょうから、少しずつ追加というかたちで行けばいいわけです。調査を全て終わってからではなく、いまの盛り上がりが途絶えないように連続して次のステップへと文化庁の関心をもってもらう、それがまた大きく次のステップにつながっていくと思います。

【会長】
 さかい橋の橋柱は何かわかりましたか。

【事務局】
 橋柱について非破壊検査を実施して、どういうふうな岩質のものなのかと、どのあたりに弱点があるのかということを調べております。石の中でも比較的弱い部分と、比較的強い部分というものがありまして、それが比較的弱い部分というのが資料の移動の時点で破損をしたということまでは分かっております。これが原爆との因果関係があるのかというところになると、直接的にはおそらく関係がないことが分かっておりまして、それは石の石材の表面の色の観察をした結果、石工が見て、おそらく岩が生成された時点で、すでに石に目があってそこの部分が一番ひどく破壊されたんだろうということだったので、それが原爆でどの程度影響を受けて、それが今まで70年保管していて、どこが一番重たい原因というところが分からなかったんですけれども、少なくとも原爆によって破壊されたというわけではなくて、石材の弱い部分にダメージが蓄積されていて、そこから壊れてしまったというところまでは分かっています。

【会長】
 そうすると、仮に石垣等の被爆の痕跡と爪痕とか見る場合に、一番なのは例えば熱線の温度をこういう石、例えば玄武岩とか砂岩とかに加えたらどういう現象が出てくるか実験的に知っておかないと分からないのではという気がします。

砂岩の上に当時は見られた痕跡は、はっきりと被爆の爪痕自体は非常に強固なものであっても、本体の砂岩の風化の速度が早ければ、そのまま全て無くなる、すると痕跡がないということですので、そうなってくるとある岩石あたりから早急にやってみて熱を加えたらどういう影響ができるか、先ほど言われて、石英の関係だったら軽石になるのと一緒で、その辺のことを入れておかないと難しいですね。

 もう一つは、痕跡をどうやって保存するかという問題になれば、最低限度現状を保つということであれば、樹脂系のものを浸透させて保存すべきだと思うんです。

アクリル系統のものを吹き付けて空気を遮断するとどうですか。

【事務局】
 樹脂で固めるのも一つではあるんですが、可逆性の問題がありますので、染み込ませてしまうと出すのが難しくなると、石材、特に摩崖仏なんかでは樹脂を含浸させて風化を止めるというやり方も行われていますので、一つのやり方ではあると思うんですが、どこまで可逆性を担保して残すのかというところと、あとは見た目の質感が、確かにいま目立ちにくいぴかぴかしないものがあるんですけれども、やはり少し濡れ色に見えるとか、少し樹脂が爆心地の地層のように劣化して白っぽく見えてしまうと、そういうふうな現象もありますので、どこでどの技法を使うのかというのはもう少し議論も必要ではと思います。

【会長】
 資料の中の、爆心地方向が明記された山王神社のヒアリング図、これには爆心地方向に矢印が入れられていたので、非常に考えやすいようなものになっていたので、その次のページも同じようにしてもらいたい。

それともう一つ、種々の石塔類の問題、どこまでこれが追求できるか、原爆とどこが関係あるかということなんですが、それぞれに被爆の影響は明らかです。ただ構造物で建っていたものが飛んでいって破壊され、壊れたというだけなのか、あるいは本体自体に破壊と同時に変色などが見られるかどうかというのはどうですか。

【事務局】
 明らかに端っこが欠けていたりというものは確かにあるんですけれども、表面を見て、私が見てはっきり分かるというものは認められませんでした。

【会長】
 例えばよく対であるという石造物であったり、いろんなかたちで一対という言葉があります。そうしてしまうといま見ている20何点ぐらい残されているものは、きちんとそういう対をなして存在しているものなんですか。

【事務局】
 灯籠の笠のように形が分かりやすいものでしたら、対をなしているのが今回の範囲では2基確認できまして、そのほか一つだけ追加確認できないものがありました。なので、ほかのところにまだ埋まっているという可能性も考えられると思います。

【会長】
 対がないとかですね。

まさか、よそに半分持って行ってということはこの時代に無いですよね。歴史文化博物館にあった奉行所の鳥居の残りの一対は、一つは発掘によって館建てるときに見つかったんですが、その対をなすもう一つは、昔からよく言われるんですけれども某家の庭にちゃんと建っているんです。これ一対をなすものなんです。だからそういうのを持っていくところがないということですね、どこかにあるか、もう壊れてしまって廃棄されたのかという問題があるんですね。

非常に私自身は、6ページの写真6のところの、ヤノメが打たれてあるのはおもしろいなと思ってみています。これ私自身は若いときちょっとこのへんに類するようなかたちを見たことあるし考え方でもあるんですが、これは少なくとも戦前戦中の段階においては神社にあるものは神聖な場所だったんです。決して動かしてはいけなかったんです。ところが終戦直後において、こういう転用するような行為が平気で行われました。

【委員】
 おそらく原位置ではないと思うんですよね、その多くは、動かされたものですからね、だからそういう段階でなくなったものもあると、だから本当は対というかたちでつなぎ合わせたりそろわないといけないけれど、欠損している部分も出てくると、それこそその当時は混乱していますから、そういう現状はあると思います。

【会長】
 そうなると今回の調査ではこの図2の位置と、それから石段をはさんでの反対側の石垣の下と、このあたりは済みましたよね一つの集積で、あと残されている部分はどこですか。

【事務局】
 いまクスノキがある下のところで、ヒアリング図というので見ていただきました。四の鳥居の部材などの調査がまだできていないところです。

【会長】
 鳥居もクスノキの裏側の辺りに集まって見えますよね、地表面にですね、どういうものが堆積、いわゆる置かれているかですよね、捨てられたかどうか知りませんが置かれている。そういうところにどういうような部材があるかということはやっぱり確かめないといけないのでしょうね。

【委員】
 人為的に動かしたのですから、そこまで気を使わなくてもいいのでは。

【会長】
 どんなのがあるという。

【委員】
 そういうのは必要でしょうね、どんなのがあったか、どんなのが残っているという。

【会長】
 どういうものがここにありますよということですね。

【委員】
 ああいうものこそ逆に風化がどんどん進むのではという感じ、だからそれこそ補充調査というかたちでもういいんじゃないですか、これだけ地中それから地表、それから植生というところで問題点出していけば、ただ体制は大丈夫ですか。調査、報告書、次のステップへ進めていく段階で、調査委員会、それから保存整備委員会、それを処理される事務局のほうはどうですか。

【事務局】
 ご配慮いただいて本当にありがとうございます。

現在、学芸員が2名というようななかで、大きなテーマとしては長崎原爆遺跡を今後どうするかという、具体的に言うと地域の拡大というのを当然念頭に入れるなかで、四つ五つ爆心地公園で五つありますので、そこはちょっとある程度、年度を見ながら、先ほど出ましたが年次計画を持って、一ついまの被爆75周年とそういった節目のときに、何らかのかたちでもう少し拡大したいなという考え方を持っていますので、それに合わせて委員の体制等も配置していきたいと思っていますので、ご配慮いただければと思います。ありがとうございます。

【会長】
 そのような回答を受け、私たち委員会としましても、今後努力をしたいと思っております。

それではほかに無いようですから、以上で本日の予定していた議事につきましては終わらせていただきたいと思います。

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