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平成27年度第6回 長崎原爆遺跡調査検討委員会

更新日:2017年7月18日 ページID:030069

長崎市の附属機関について(会議録のページ)

担当所属名

原爆被爆対策部被爆継承課

会議名

平成27年度第6回 長崎原爆遺跡調査検討委員会

日時

平成27年11月19日(木曜日)13時30分~15時40分

場所

長崎原爆資料館 2階 会議室

議題

1. 前回会議での意見・指摘等への対応について
2. 遺跡の範囲について(事務局案説明)
3. 遺跡の範囲について(協議)
4. 調査報告書について
ア 第1章について
イ 第2章第1節 爆心地
ウ 第2章第2節 旧城山国民学校校舎
エ 第2章第4節 旧長崎医科大学門柱
オ 第2章第5節 山王神社二の鳥居

審議結果

【会長】
ただ今から「第6回長崎原爆遺跡調査委員会」を開催いたします。
「前回会議での意見・指摘等への対応について」の事務局の説明を求めます。

【事務局】
長崎原爆遺跡旧城山国民学校確認調査の土壌分析の結果について
運動場において昨年度に引き続き第2次確認調査として掘削調査を実施。炭化物が露出した土層等からサンプルを採取した。土壌成分の分析では骨の特長を示す痕跡を見つけることはできなかった一方、採取した炭化物のなかに表面が平坦で断面に層状の構造を持つ炭化骨片と考えられる1.3mm程度のものが観察された。
なお、今回採取したサンプルからは、リンやカルシウムの成分を見つけることはできなかった。

被爆遺構と原爆遺跡の言葉の示す意味について
原子爆弾被爆による痕跡をとどめている建物や工作物のことを被爆遺構とし、原爆遺跡は、何も残らないほどの強大な破壊の象徴としての爆心地と具体的な破壊力を示す遺構を相互補完させることにより包括的な原子爆弾被害を伝える遺跡と定義したい。
この定義について、本日欠席の委員からコメントをいただいているので報告する。

〔欠席委員のコメント〕
被爆遺構の定義については、ひと言でまとめると、原子爆弾被爆による痕跡をとどめている建物や工作物でよいと思います。遺構という言葉は、通常、人工物を対象としており、その限定性も担保されていると思います。その上でもう少し踏み込んだ意味付けをするとすれば、次の様子を付け足すことができると思います。原爆投下後、長きにわたり被爆者が自らの体験を思い起こす上で、象徴的な物であり続けたものであり、かつ、多くの人々が被爆の体験・歴史を考える契機となっているもの。もちろん被爆者にとっては、被爆を思い起こさせるような遺構を見たくないという感覚があり得たわけですが、そうした感情も含めて体験を思い起こさざるを得ないようなものとして、遺構が存在してきたということを念頭においています。また、単に被爆をくぐりぬけた人工物というだけでは、例えば下水管のようなものまで含めて、範囲が広がってしまう可能性があります。遺構を取り巻く人々との関係性において、一定の重要性や象徴性があったものを被爆遺構としてとらえるのだという基本的なスタンスを示す必要があるように思います。そうした位置づけをした場合の原爆遺跡との関係性が問題になります。事務局(案)の原爆遺跡、「何も残らないほどの強大な破壊の象徴としての爆心地と具体的な破壊力を示す遺構を相互補完させることにより包括的な原子爆弾被害を伝える遺跡」という定義を踏まえると、被爆遺構は原爆遺跡の下位概念となります。つまり、長崎が原爆によって破壊され、多くの犠牲者・被爆者を出したことを考える上で、複数の被爆遺構と爆心地を一体的に捉える必要がある。原爆遺跡とは、原爆による破壊と被爆の相対を理解するためのものである、というところかと思います。そのような整理で、爆心地と被爆遺構の一体性を強調することがよいと思います。

〔文化庁調査官指摘事項とその対応状況〕
倒壊した天主堂の石を敷地北側の石垣の石材に使用したと調査報告書の文案にあるが、現在見えている石垣の中に倒壊した天主堂の石とわかるものはあるのか。それは、いつの石か。
→教会で使用されていたであろうと思われる特徴的なぶどうの紋が入ったものが9か所指摘できるので、この説明を報告書に加えたい。

被爆当時の下の川の流れを鐘楼を避ける形に変えたことについて、旧流路を確認すること
→市の関係課に照会中である。

【会長】
前回会議の指摘事項とその対応状況について事務局より報告していただきましたが、委員の方々から何かございませんか。

【委員】
今の報告にあったとおり、「遺構」というと人工物を対象としているというイメージがとても強いと思います。一方で「遺跡」というと、まさに委員のコメントにあるとおり人々との関係性があって、やはり「遺跡」という人間が生きてきた痕跡を含めてのものであるというところもちょっと入れていただければなと思いました。

【事務局】
はい。そのようにいたします。

【会長】
浦上天主堂の敷地北側の石垣に教会に使っていた石が入っているということで、石垣がつくられたのはもちろん原爆被災後でしょうけれども、調査官が言われるのは、例えばこの浦上天主堂を巡る石垣群の構築年代を出せということなのです。その辺はどうなのですか。例えばこの辺りはいつ頃築かれたということを出していかなければいけないのか。

【事務局】
この石垣に関しましては、下の川の改修でできたということがわかっております。天主堂の石垣の一番市道に面している面については、建立時期がわかっておりません。ただ、被爆前からそこにあったことはわかっているということで、そのように各部位についてわかる範囲で書き込むようにしております。

【会長】
鐘楼が落ちて、一時期は目につかないようにという考え方もあって川の流路を変えてしまいますよね。そういうところと時間的に整合性がとれるか確認するようにということで、よろしいですか。

【事務局】
そこは確認ができております。

【会長】
そうですか。はい、わかりました。

【委員】
下の川の流れは大きく変わっているのですか。

【会長】
平面図で見る今の川の流路は、あれだけの鐘楼が落ちた後に出っ張ったことで変わっていますね。旧流路も平面図の上にそのまま落とせますか。

【事務局】
浦上天主堂近くの部分に関しましては、下の川の流路を付け替えて鐘楼が埋まった状態にしております。

【委員】
一番最初の現地踏査の際に、鐘楼付近の石垣は何回かに分けて改修をしているのではないかという指摘をしましたが、そのようなことを調査した成果は出ていませんか。

【事務局】
あそこは被爆当時は、もともと土でできた崖でありました。そこから昭和25年に下の川の改修によって流路が変更されておりまして、その後1970年代に入って鐘楼を露出させるときに石垣の形状は現形のようになっております。そこまではわかっております。

【会長】
旧城山国民学校の掘削調査で出土した遺物が骨片であるかどうかということについて事務局から説明がありましたが、これは非常に専門的でわかりづらいということだと思います。この調査結果を基にしながらも、理解しやすいようなかたちで文章化を図っていただくよう要望します。

【委員】
骨が残らないように火葬されているという結果なのでしょうか。それとも、そのような痕跡がないという結果なのですか。

【事務局】
恐らく、火葬をきちんとした際に、ほとんど目に見えないような状態まで清掃して拾い上げたということもわかるのではないかと考えております。

【委員】
はい、わかりました。

【会長】
先ほどから「遺跡」とか「遺構」とか「遺物」という言葉が出ていますが、これは考古学的な立場からどうなのでしょうか。

【委員】
原山委員の意見でいいのではないでしょうか。

【会長】
ですよね。もちろん、そのrelicsとmonumentが集まって、そこにsiteができ上がっているということですね。まあ、人間臭いところが入っているということで。

【委員】
通常、考古学的には、遺跡は広い範囲でとらえて、遺構は狭い範囲でとらえると今のところ僕らは理解していますよね。

【委員】
それは「遺跡群」とかという言い方はされないのでしょうか。

【委員】
何らかの面積でそれをひとつに捉えていくということになるのが「群」ということは、おかしくないと思います。

【委員】
今回はそういう言い方のほうが適しているのではないでしょうか。

【会長】
どうなんでしょう。例えば、原爆の投下によって破壊されたものを「痕跡」ということから考えれば、原因が一つであるから「群」として捉えるより「遺跡」という名前で統括したほうがいいのではないかという気がいたしております。

【委員】
それから、「被爆」遺跡ではなく「原爆」遺跡というのはどうなのでしょうか。

【委員】
前回の会議は出席できなかったので、事前にペーパーを渡して遺跡群という形で表現してはどうかという意見を述べておきました。そして、各遺構については1・2・3・4という区分けをする。

【委員】
そちらのほうがいいのではありませんか。

【会長】
どうなのでしょう。例えば、「遺跡群」とすると、そういうものを持っているところのエリアが複数集まって群を構成するわけで、エリアそのものについてそれぞれの性格が非常に要求されてくるという気がするのです。そうなってきたとき、原因が「原爆」という一つであるため、敢えてそれを分割する必要はないのではないかと。根源的には一つだから「遺跡」であろうという気がいたします。
恐らく今後の調査の中でも、新たに遺構が出てくる可能性はあると思います。そのときに、「群の性格を」要求されると出しづらいのではないのかという気もします。遺跡の中で追加していく、領域が拡大されるという扱いにされていたほうがいいのではないかという気がいたしますが、どうでしょうか。

【委員】
文化庁からは口頭で何か指導を受けていませんか。

【事務局】
原爆遺跡の考え方については、委員さんたちの間で議論していただくべきもと考えておりますので、文化庁からこういう名称にという指導はあっておりません。
今、会長がおっしったように、原爆遺跡の性格的なものや時代的な背景というのは、ある地域の中に時代をまたがる遺跡が点在する群の中で時代や性格が少しずつ違うとかいうものではなく、長崎原爆は1945年8月9日に起きたことを基点とする中でどのようなものが残っているかということ。それから、既に今年被爆70年を迎えて旧城山国民学校、浦上天主堂旧鐘楼とそれぞれこれまでに名前がある意味浸透してきておりますので、その名前と長崎原爆という名称の組み合わせは、事務局としては今後のことを考えると非常に文言の取り扱いがしやすいものになってくると考えております。

【委員】
そういった側面を書けば、非常にオリジナルのある意味でよろしいと思います。

【会長】
そうですね。このような名称の取り扱いについて、例えば市の文化財課において特に内規などはございませんか。

【事務局】
通常、文化財の指定などの場合には、例えば、国であれば国の文化審議会、長崎市では長崎市文化財審議会で名称を決定されるということで、それに相応しいものということになると思います。
特に長崎市の場合には、いくつかの遺跡、サイトで構成される国の史跡とかというのは事例がございまして、例えば「長崎台場跡」については、今、魚見岳と四郎ヶ島とありますが、あれも台場跡の群ということではなくて、「長崎台場跡」というひとつの史跡の中にそれぞれの台場、あるいは「高島炭鉱」として、「高島炭鉱跡」という大きなくくりの中に高島北渓井坑跡であるとか、端島炭坑跡であるというような名称の付け方をしているのが実情と思っております。

【会長】
ありがとうございます。恐らく群の名称をしたときに、今後予測される領域の中でどのようなことを「群」として捉えなければならないのかという説明を要求される可能性があります。今後、こういうことが起こるのではないかと。ということであれば、遺跡という形ですっきりさせて、追加がある場合は遺跡に対する追加という説明で入れ込んでいくのが今後の運用面からもいいのではないかという気がいたしますが、いかがですか。

【委員】
後の処理の問題として、この4つの遺跡だけでは終わらないと思います。爆心地を中心にして、バリアを張ったような遺跡の保存方法ということが主題になっていますので、恐らくどんどん追加されてくると思うのです。そうなってきたときに、いいようなかたちの名称は考えておかなければならないと思います。

【会長】
増えてはくるでしょうね。原因は同じであるので、それは追加で、先ほどの「長崎台場」の中に加えていくのと同じで、それはより充実するということですから。原爆遺跡もそのようなかたちで増えてくることを予測しておかなければならない。だから群にしてしまうと、何をもって群ですかと聞かれたときにそれぞれの個性というものを表現していくということになるとややこしい面が出てくる。
いかがですか。長崎原爆については一つの名称で通していくというのは。

<委員了承>

【会長】
ただ今の議論の経過については事務局で記録していただいて、以後そのような考え方でお願いいたします。
次に調査報告書について事務局の説明をお願いします。

【事務局】
報告書「第1章 長崎原爆遺跡とは」について

〔第2節「長崎市への原子爆弾投下」及び第3節「長崎原爆遺跡とは」の修正について説明。〕
長崎原爆遺跡は、「原子爆弾被爆による物的痕跡ないしは原子爆弾被爆により形作られた歴史的経緯を持つ遺跡である」と端的に定義した。この点に関しては重要なことであるので、ご意見をいただきたい。

【会長】
ただ今、事務局の説明のうち、まず協議いただく部分についてですが、主に目次についてお気づきの点がございますか。
ないようでしたら、資料1について全体的に何かございましたら、お願いいたします。資料が多すぎるので、メモ程度に一枚にまとめたものをもらっていれば、もっとわかりやすかったかもしれません。

【委員】
これでいいのではないでしょうか。

【会長】
それでは引き続き、資料2について事務局の説明をお願いします。

【事務局】
第2章「長崎原爆遺跡に関する調査」第1節「爆心地」について
〔「1.原爆落下中心地としてコアの部分であること」、「2.関係する遺構等が残存する場所」、「3.長崎市が管理を行うことができる範囲」であることを理由に現在の爆心地公園を遺跡の範囲としていること、第2項「爆心地に関する現況調査」では、爆心地公園の現況を説明し、爆心地公園内に展示されている被爆直後の地層について土層図を作成するとともに、以前に行われた長岡信治氏の論考「長崎市原爆落下中心地碑南東に現れた1945原爆堆積物」との比較調査を行っていること、
第3項「小括」では、爆心地公園の中で原子爆弾被害を感じさせるのが、公園東側の下の川に面した被爆当時の地層及び下の川の流れであるとし、被爆当時の地層については原爆が住宅が立ち並ぶ場所に投下されたことを想起させる遺物を包含しており、その堆積物の厚みからも膨大な破壊量を見せつけるものである。また、被爆当時から変わらない流路の下の川は水を求めて亡くなっていった被爆者に思いを馳せることができるよう、水を取り込んだ空間として設計されているとし、爆心地という遺跡の重要な構成要素と位置づけていることを説明。

【会長】
資料2の長崎日日新聞の引用文の中の「爆心地アトム公園で」というのは、これはここだけに出てくるものですか。当時としては「アトム公園」という名前が一般化されているのでしょうか。

【事務局】
そうですね。「アトム公園」という名称も新聞紙上ではたびたび見られています。ほかにも松山公園とか爆心地とか。「アトム」という言葉自体がその当時の時代のトレンドでよく使われている言葉でもあると思います。

【会長】
これの名称がどの程度の期間使われていたのか、わかりますか。

【事務局】
少なくとも2~3年は使われていたということは確認しています。

【会長】
長岡論文の柱状図ですが、これは原本引用でいいのですが、調査報告書に横文字のままわざわざ載せなくても日本語化して載せていいのではないかなという気がします。日本語訳にしてしまうと、何かニュアンス的に問題があるのでしょうか。

【事務局】
長岡論文の本文の中では日本語でも解説されていますので、今は図をそのまま引用するかたちで載せていますが、一部切り取って日本語で表示することもできると思います。

【会長】
委員の方々、いかがでしょうか。

【委員】
これではちょっとわからないですね。

【会長】
ある面では原典に忠実でしょうけれども、調査報告書としてみたときには別段これが和訳されたからといって影響はないのではないかなという気はいたします。もちろん、そのとき和訳された方を明記していれば、そのほうが今後報告書として出てきたときの活用を考えたら、そちらのほうがいいのではないかという気がいたします。

【委員】
これは論文からそのまま引用されたものですか。

【事務局】
はい、そのとおりです。

【委員】
そうしますと、これは一つの参考資料で、そこから読み取ったかたちの解説というのが必要でしょうね。

【会長】
でしょうね。長岡論文の問題はこの委員会を経由して事務局で報告書をつくったのですから、その責任はこちらへ来ると思います。だから、原典をこう読みましたという日本語訳をつくったときに、その責任さえ持てればこちらでやっておかないと。原典そのままを丸々引用すること自体はちょっとどうかなという気がしますので、少なくとも日本語で訳して、そこに訳者が誰か明記したほうがいいのではないかなという気がいたします。

【委員】
通常、報告書を書く場合には、この原典引用はもう少し小さくして、それをわかりやすく解説をする。そうしたほうが別に失礼に当たらないし、逆に丁寧で親切ではないか。会長がおっしゃるように、やはりそうしたほうがいいのではないかな。これをもっと縮めるなら縮めて、新たにもうひとつこの図面を起こして、解説をつけるような図版にしたほうがいいのではないでしょうか。

【事務局】
今、ご意見いただきましたように、原典は原典として尊重して、長岡先生の論文を参考として引用させていただいています。この報告書は会長がおっしゃったように後世にずっと残していって、今回の長崎原爆遺跡の調査として後々の参考に皆さんに使っていただくべきものになっていって、ずっと積み上げていく基礎になっていくものになりますので、この委員会の中で日本語に変えて後々使いやすいような形での報告にまとめていきたいと考えております。

【委員】
出典が明確にされていれば、アレンジしてもおかしくないと思います。

【会長】
今の事務局の対応の仕方でよろしゅうございますね。では、今後事務局の今のご意見どおりで進めていただきたい。
それでは、引き続き事務局から資料3の概略説明をお願いします。

【事務局】
第2章「長崎原爆遺跡に関する調査」第2節「旧城山国民学校校舎」について

〔第2項「旧城山国民学校(城山小学校)の調査」の「2旧城山国民学校遺構確認調査」では、平成26年に火葬の痕跡が残っているか調べるため運動場を発掘した「(1)第1次確認調査-1区」、旧校舎北端のコンクリート基礎を確認した「(2)第1次確認調査-2区」、第1次調査1区において課題となった火葬跡の再検証と火葬跡の範囲を確認するため実施した「(3)第2次確認調査」について記述し、
第2次確認調査での炭化物同定などの自然科学分析を踏まえ、城山国民学校運動場の地下に包含されている炭化物層が火葬の跡であることが裏付けられたとし、火葬に関しては「(4)文献調査等からみる城山地区の葬送について」まとめたものを載せていること、
第4項「小括」では校舎自体について、創建当時のコンクリートと被爆直後の補修のコンクリートの区別は難しいものの、後代の補修については区別することができ、各階ごとにオリジナルコンクリートの残存状況についてもまとめることができ、校舎自体のコンクリートの成分や現況も科学分析等から知ることができたことを説明。〕

【会長】
ただ今の事務局の説明について、委員の方から何かございますか。
それでは、引き続き資料4の事務局の説明をお願いします。

【事務局】
第4節「旧長崎医科大学門柱」について
被爆7年後の門柱について、写真を掲載することができ、この頃はまだ門柱を囲っている柵ができていないこと、ほかの石碑も建っていないことが確認できること、
門柱の現況調査では、電磁波レーダー法による鉄筋探査の結果で、躯体内部に鉄筋を確認することができなかったことを説明。
今後の課題として、門柱の基礎構造、原爆被害当時の周囲の地形がまだわかっていない。それらを推定することができれば門柱自体が受けた外力と破壊のメカニズムを明らかにするためのシミュレーションが可能になると思う。また、傾斜した門柱に関して傾斜度を継続的に調査することで、本当にこの門柱が今もとまっているのか、ほかに倒壊する危険がないのかというところも今後継続的に調査していく必要があると考えている。

【委員】
私はこの長崎医科大学の門柱に関して聞き取り調査を2名行わせていただいたのですが、今回これを残すことの意味について関係者がお話ししてくださったので、それも入れるべきなのかなと思いますが、いかがでしょうか。

【事務局】
本文にヒアリング調査で得られたエッセンスを入れることによって、歴史的な経緯もしくはその後の変遷、その場所に込められた思いというものを本文の中に入れ込んでいきたいと考えております。その内容につきましては、非常にセンシティブなものを含んでおりますので、もう一度精査をした上で記録保存という観点から原爆資料館のほうで保存しているという旨を報告書のほうで書いて、必要に応じて後世の研究者の方々が見ていただけるような形の対応を考えております。

【委員】
聞き取り調査というのは、いただいた内容を厳重に取り扱う必要がありますので、今回私が関わった時も一応公表ということで聞き取りさせていただきましたけれども、かなりご自分の話をされたりしているので、すべてを公開というのが本当にいいのかどうかも含めて、ご本人に承諾を得るというプロセスが必要かなと思いました。 

【事務局】
記録化して後世の人たちに見ていただくためにも、もう一度こちらのほうでまとめ直して同意を取り直すという作業をやりたいと考えております。

【委員】
今回の報告書では、関係する箇所だけの抜粋でもよろしいのではないかなと、私自身は考えます。 

【会長】
ほかに何かございませんか。
一番最初の門柱の写真を見ると、扉自体が金物ですね。これはなかったのですか。

【事務局】
はい、ありません。その後は木製の扉が付けられました。

【会長】
金属供出で出しているということですね。大学だけは免除されたのかと思いましたが、お寺も鐘まで出していますから、そういうこともあるのかなと思っていました。

【委員】
小括のところに、今後の課題として門柱の基礎構造が不明であるため今後の調査に回すというふうに書いてありますが、今後調査をされる予定ですね。

【事務局】
そうです。そのような探究の余地があるということを書いておきたいと思っております。

【委員】
爆風圧の推定の式が出てきていますが、せっかくの報告書なのでもう少し解説を加えてわかるようにしたほうがいいと思いました。

【事務局】
勉強させていただいて、入れさせていただければと思います。

【会長】
専門的なものが与える影響とかニュアンス的な問題のときには、それを使うにしても【註】で説明するとか、ほかの言葉でわかりやすく置き換えることができるのであれば置き換えるというように、これは全体的な話ですけれども、考えていただけたらという気はいたしております。
ほかにないようでしたら、次に、資料5について事務局の説明をお願いします。

【事務局】
第5節「山王神社二の鳥居」について
山王神社は、お寺だったところが明治に神社になり、その後、浦上四番崩れの後に県社が合祀されるという非常に特殊な成り立ちをしてる。二の鳥居自体は、大正時代に新しい参道をつけるところでようやく登場すること、
鳥居は原爆投下時点で4基あった。一の鳥居は昭和10年のもの。二の鳥居が大正13年のもの。三の鳥居は天保8年のもの。四の鳥居は銘がないので詳しいことはわかっていない。
原子爆弾による被害に関しては、社殿が倒壊したこと、一の鳥居は原形のまま残り、二の鳥居は左の柱のみ倒壊したこと、三の鳥居、四の鳥居は倒壊したこと、大クスは全焼したが2か月後に芽吹いたこと、
山王神社の現状、現況調査の内容については、地形測量、二の鳥居その他石造物の拓本の内容、3次元計測の結果を記述したいこと、
また、ヒアリング調査をもとに被爆前、被爆後の遺跡の変遷を記した図面を作成できたので、成果として挙げていきたいことを説明〕

【委員】
山王神社の現地調査に行ったときに、宮司さんから何か一部鳥居の周辺にあったものを上にあげたりして動かしているというよう説明があっていましたが、そのような記録はどうなさいますか。

【事務局】
聞き取りの結果は図面の中に落とし込むのを原則にやっていきたいと考えております。

【委員】
そのような説明は写真を入れることができませんか。下にあった灯籠など上にあげたり、移動されたりというのが大分ありましたね。

【事務局】
写真もあわせて掲載するようにします。

【会長】
資料5に限りませんが、人名に敬称が書かれているときと書かれてないのが出てくるので、これはいっそ凡例か何かで敬称は略すと断って、全て敬称なしで統一したほうがいいという気がいたします。
また、参考文献をあげていろいろな引用が出てきますが、このときに順序をきちんと統一してもらいたい。例えば、報告者名、報告年、あるいは論文名とか掲載誌名という順序にするのか。あるいは発行年月日を後にするのかは別ですが、一つのスタイルを持って全体的にやってもらいたいなという気がいたします。

【事務局】
はい。そのように修正していきたいと思います。

【会長】
もう一つは、小さいことですが「(2)浦上皇大神宮創祀」の説明のなかで「キリシタン一人一人に接見し」とありますが、本当に一人一人にしたかどうかわからないですね。詳細にやったという意味での言い回し方だと思いますが、このような比喩的な文章はやめるべきです。同じように「業を煮やした氏子が」とありますが、業を煮やしたかどうかわからない。このように記述しますと、それを証明しなければならなくなります。報告書というスタイルなので、このようないわゆる比喩的な文言はできるだけ取っていただきたい。これは、また後ほど全体的に文章ができ上がってから目を通す問題ではあると思いますけれども。
ほかに何かございませんか。

【委員】
難しいことを言うかもしれませんが、長崎原爆遺跡については原爆の被害を残すということにかなり特化して議論をしていて、それは大変重要なことでありこのままでよろしいと思います。つまり、核兵器が実戦上で使われたということの跡であるので、その点は必要であると思うと同時に、これを残すことが次の世代にとってどのような意味があるのか。今大変重要なのは、この原爆遺跡というのは、遺跡にもかかわらずまだ生存者がいる。原爆ドームもありますが、この概念は恐らく初めての試みになると思います。生存者がいるけれども、もう70周年を迎えてこれから被爆者が他界されていく中で、どのようにして原爆の本当の恐ろしさを伝えていくのか、それはつまりどのようにして継承をしていくのかも含めて、これを残すことで我々次の世代が主体的に関わっていくことができるのだという、次の世代に対する目的も必要ではないかなと報告書を見て思ったのですが、いかがでしょうか。

【会長】
そうですね。

【事務局】
ご指摘いただいた内容は、今後第3章をまとめて総括していくなかで、現在のもの、過去のもので将来にどのようなことが必要なのか、将来に向けてどのようにこの史跡が活用されていくべきなのか、そういうところも含めて書いていくべきとご指導いただいていますので、そのように第3章を詰めていきたいと考えております。

【委員】
重要なことは、被爆者の人たちがもう2度と誰にも同じような思いをさせたくないということで証言をはじめ取り組んでこられて、今回の聞き取り調査でもそういった発言がなされたわけですから、被害の側面ばかりを強調してという印象を読んだ人に与えないように、私たちの方向性はこういうことでやっているという記述をよろしくお願いします。

【会長】
その点は、よろしゅうございますか。
それから、第3項の小括の後に【参考文献】とありますが、これはこの節だけの参考文献ですか、それとも全体に関してでしょうか。

【事務局】
これは全体になっております。

【会長】
全体ですか。参考文献というのも結構いろいろあるだろうと思いますが、原爆資料館が中心になって出されたような文献類があまり出ていないですね。立派な本を何冊も出されていますよね。そのあたりは加えていただきたいなと思うんです。こういうことをやってきましたという実績ですから。市内のいわゆる殉難の碑のようなものをまとめた本など活用できると思いますので、原爆資料館で出されたものの関連の冊子は参考文献にぜひ入れておいてほしいと思います。

【事務局】
はい、そのようにします。

【会長】
あとは詳細に資料を見てお気づきの点がありましたら、事務局のほうにご連絡いただくというかたちでよろしいですか。

<委員了承>

【会長】
それでは、調査報告書につきましては、修正、加筆等のご意見がございましたので、そのあたりを考えて進めていただいて結構です。
次に、「遺跡の範囲について」でございますが、この内容は特に土地の所有者、あるいは範囲などの同意の情報を含むため、長崎市情報公開条例第7条第5項の規定に基づき非公開としたいと思いますので、傍聴者の方は誠に申し訳ございませんが、退室をお願いしたいと思います。

〔暫時休憩〕

【会長】
委員会を再開します。
「遺跡の範囲について」の事務局の説明をお願いいたします。

〔「遺跡の範囲について」を審議〕

【会長】
本日提出された議題については、一応すべて終わりまして委員会としてもいろいろな意見を出させていただきましたので、今後事務局は大変でしょうけれども、よろしくお願いいたします。
それでは、これをもちまして第6回長崎原爆遺跡調査検討委員会を閉会させていただきます。

お問い合わせ先

総務部 行政体制整備室 

電話番号:095-829-1124

ファックス番号:095-829-1410

住所:〒850-8685 長崎市魚の町4-1(9階)

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