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平成28年度第1回 長崎市平和宣言文起草委員会

更新日:2017年1月16日 ページID:029305

長崎市の附属機関について(会議録のページ)

担当所属名

原爆被爆対策部 平和推進課

会議名

平成28年度第1回 長崎市平和宣言文起草委員会

日時

平成28年5月14日(土曜日) 10時00分~

場所

長崎原爆資料館地下1階 平和学習室

議題

平成28年長崎平和宣言について

審議結果

【委員長】
起草委員会で中心的な役割を果たしてきた土山先生が今回から健康上の理由で参加できないこととなり、非常に残念な気持ちと宣言文を頑張らなければという2つの気持ちが交錯している。改めて土山先生には感謝申し上げたい。

昨年のNPT再検討会議後、現在進行形で様々な動きがあっている。先月、G7広島外相会合が開催され、各国外務大臣が被爆地に集ったことは大きな意味があったと思う。それに続いて今月27日に、オバマ大統領の広島訪問が決定し、これも非常に歴史的な一歩であると思うし、できるだけ意義の大きい、未来に続いていくような訪問であってほしいと思っている。さらに、同時進行で核軍縮に関する国連の公開作業部会が開催される中で様々な動きがあり、これからにどうつながるのかということも大きな要素の一つになっていると思う。

長崎でも大きな動きがあっており、若い人の平和や継承活動がある。特に昨年度は被爆70周年ということで、様々な方がそれぞれのアイデア、表現方法に基づいて発信をしてくれ、市長として頼もしく、様々な方が様々な形で伝えてくれる長崎の力を感じた一年だった。

今年はその流れを受けながら71年目の平和宣言になるので、皆様のご意見をいただきながらよい平和宣言にしていきたいと改めて決意を申し上げたい。

今回を含めて3回で、委員の皆様の様々な言葉が積み重なり、よい宣言文が育っていくことを心から祈念し、皆様のご協力に改めて感謝して私からのご挨拶とする。

【委員】
初めての委員会参加となる。昨年度からIPPNW(核戦争防止国際医師会議)というノーベル平和賞受賞の団体に参加している。IPPNWは昨年度まで2年間起草委員を務めた茅野龍馬先生が約10年間活動されている団体である。昨年度から茅野先生と国内外の平和活動に参加している。今年3月にIPPNWのアジア8か国が集まり、アジアユース会議を開いた際に、学生共同代表として携わった経緯で、今回茅野先生の後任として今回初めて委員として参加させていただく。平和宣言文をより広い世代に伝わるようにするために少しでも貢献できたらと思っている。

私が平和活動に関わるきっかけになったのは、一昨年大学の学術企画で秋田に行ったこと。その際、秋田大学の学生さんから唐突に「私は語り部活動や平和活動に興味を持っています。長崎大学医学部は唯一被爆した医科大学ですよね。特別なことを習うのですか、教えてください。」と聞かれた。私は、どちらかというと小学校以来、平和について考えることを避けてきたタイプだった。だから、この言葉にハッとし、長崎に住む者、そして唯一被爆した医科大学の学生として使命のようなものを感じた。

それがきっかけで少しずつ平和に関する活動に参加するようになった。IPPNWの国内外の活動に参加したり、今年1月に長崎大学医学部で、映画「母と暮せば」にご協力いただき、長崎被爆70年学生企画・展示会を長崎大学の有志30人が集まり実施したりした。これらの活動を通して感じたことは、「身の丈で感じられる、ちょっとした、でも分かりやすいきっかけ」が私たち若者を動かす、ということだった。

正直なところ、平和や核のテーマは、一般的な若い世代にとって、小難しくて敷居が高いばかりでなく、知識がないからこそ発言できない、知識がある方の意見を黙って聞いて受け入れなければいけないというようなイメージがある。だから、多くの若者が関心を持てないし、持つのを避ける理由なのではと思っている。

もし平和宣言文が、幅広い世代、未来にむけてのメッセージを視野に入れているのであれば、この点を意識して頂き、若者がハッとするようなきっかけになる宣言文にしていただけるとよいと思う。

過去の宣言文の中から具体的に2つあげると、1つは、一昨年から市長が「みなさん」とよびかける箇所、もう1つは「私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです」という箇所です。このように私たちに訴えかけるアプローチが、私たちに自覚するきっかけになると思うので、この2箇所は残した方がよいと思う。

【委員】
昨年に引き続き、2回目の委員会参加となる。

私は、「長崎被災協・被爆二世の会」長崎の会長、追悼平和祈念館の朗読ボランティア「被爆体験を語り継ぐ 永遠の会」会員、長崎市の被爆70周年事業の家族証言の証言者として語り部活動を行っている。昨年度初めて委員として関わった平和宣言文を式典ではいつもと違う思いで、一言ひとこと噛みしめながら聞かせていただいた。

昨年の宣言文は、若い世代や、世界の人々、各国首脳への呼びかけ部分にインパクトがあって良かったと思う。今年も、わかりやすく、聞いている人の心に残る、被爆地長崎でしか発信出来ない宣言文をみなさんと考えたいと思う。

昨年は被爆70節目の年で、「継承」が前面に出て、様々な場面で「継承」に対する報道や活動も取り上げられたが、その後「継承」に対する気運の高まりが思うほど進まず、勢いがなく、被爆者の思いをずっと引き継いでいけるのか不安に感じている。

「被災協の二世の会」は、もうすぐ結成5年目を迎えるが、結成時は多数の会員登録があったが、その後なかなか会員が増えず、少人数のメンバーでこじんまりと活動している状況。被爆二世が、ちょうど子育て、親の介護、仕事と忙しく、平和活動に取り組む余裕がないというのが現状と思うが、それだけではなく、同じ被爆二世の方に家族証言への登録に声をかけても、自分の言葉で語るには敷居の高さを感じると言われ、そのような人が多いのかなと感じている。

ただ、昨年度家族証言で10校ほど訪問したうち、特に平和活動な活発な淵中学校に行った際、被爆や平和の知識はあるので、これから自分たちがどのように継承活動をしていったらいいのか話してほしいと依頼された。そこで、私の実際の継承活動を伝え、継承活動は難しいことと考えず、得意だったり好きな分野だったり、私であれば「話」、淵中学校の校長先生であれば「絵」、淵中学校卒業生の福山雅治さんであれば「歌」など、自分の得意な分野で何か表現すればよいと話をしている。子どもたちが前向きに継承について考えてくれているので、中高年である被爆二世の私たちとしては今後の子どもたちに期待し、それを盛り上げて、被爆者と子どもたちのつなぎ役として頑張れば、子どもたちに引き継がれていくのだなと感じており、そのようなことを宣言文に込められたらよいと思っている。

【委員】
私も昨年からこの委員を仰せ遣い、今回が2回目。

私は名簿にあるとおり、長崎国際文化協会の会長という立場で委員名簿に記載されているが、私自身は、被爆体験者の一人という立場でこの場に出ているのだと、私自身それなりに考えている。

私が被爆したのは12歳、新興善小学校6年生。出島町、出島岸壁のすぐ近くに自宅があったため、爆心地から3.1キロのごく近い距離。しかも、前に遮るものがほとんどなかったので、まさに直撃されたような、大変な被害を受けた。したがって、身体的な直接的な障害はその時点では受けなかったが、ガラスの破片によって、手や足に無数の傷を負った。私の父が経営している会社が駒場町(今の松山町の競技場)あたりにあったので、被爆後数日たってからだと思うが、父が、そのときはちょうど休日であったが、補充要員をしていた何人かがおそらく亡くなっているだろうから、その遺骨を拾うという形でお前もついてこいということで、鍬と、拾った骨を入れるべく袋を腰に下げて父についていった。放射能の知識がまったくないから、灰を掘り起こして、それらしきところの骨を拾って帰った、というのが当時の経験である。したがって、その後半月ぐらいしてからだったと思うが、全身に発疹ができ、頭髪がほとんど抜け落ちてしまい、現在は薄くなっているのは老化によるものだが、今日到着が早かったので展示室を見たが、資料写真の頭髪の抜け落ちた被爆者の姿に、当時の私をしみじみと思い起こした次第である。

そうした被爆者としての体験が、その後の私の人生を左右したのではないかと思う。おかげで、かろうじて一命を取り留め、今日80歳を超えるまで、元気に生きてこられたのは、奇跡に近いことだと思う。展示室を見て、しみじみと感じたところである。

被爆者としての経験をもとに、この核兵器のない世界・社会を作り上げていくにはどのような訴え方をしたほうがよいのか、と常日頃考えているところだが、たまたまこの委員に選任されたことによって、昨年も私なりの意見を申し上げた。

昨年も申し上げたが、被爆者として、けたたましく「反原爆」、「平和、平和」という訴え方、これは表現の仕方、物の言い方、よく考えないと、相手の心情に強く訴えられるのかというのは、その表現方法、訴え方によって、力がかなり違ってくると思う。

そういうわけで、毎年この宣言文の起草委員の皆様は、大変熟慮されたうえの文案を作っておられるので私はそれなりに結構と思うが、一般的に、こういった宣言文の起草委員会の意見とは別の形でいろいろとそういった運動をされている民間の立場の方々のこの問題に対する取り組み姿勢を見ていると、必ずしもこの世間の共感を得るのだろうかという疑問に思うような表現方法、取り組み方法がいろいろあるやに私は感じている。したがって、そういう中で、特に昨年の被爆70周年、それから、本年からの71年目の新たなデケイドに入ったという、この有意義なステップのなかで、今後の取り組みについて、基本的なそういったことについてよく理解・認識をしたうえで、この本年度の宣言文も練っていただきたいと、そのように思っている。あとは随時、その時点で、意見を述べさせていただきたい。

【委員】
昨年は、被爆70周年と同時にセントポール姉妹都市60周年だった。姉妹都市委員会では、純心学園に依頼をいただき、学生と教職員15名のメンバーで、8月6日から出発し、8月6日は広島の原爆記念日をリンデール公園という、ミネアポリス市のほうで朝早く参加させていただいた。それから8月9日は、セントポールに広大なコモ・パークというところがあるが、そこのラビリンスという祈りの場所として作られた場所で、我々が3年おきに参加させていただいてから4回目の、ほぼ同じ時間、アメリカのほうが2時間ほど早いと思うが、たくさんの方々が集まって、原爆の祈念をした。

2007年からアメリカのセントポール姉妹都市委員会が原爆の祈念を行っているけれど、大変少なくて、野外でするときはどうなるものかと心配したが、昨年は、200人を超える方々が集まってくださり、原爆祈念の式典をすることができた。とても熱心に取り組んでおられる。あれ以上の長崎の原爆祈念をしているところはないのではないかと思う。それからあと、長崎市の皆様も追悼祈念館の皆様もたくさんの方がいろんな企画を持っていらっしゃったけれども、本当に美術展であるとか、芸術の作品展であるとか、音楽のコンサートであるとか、非常に多様な催し物を通して、原爆の追悼をし、核兵器の廃絶を祈っておられる。私も昨年の行事には感動している。

純心の高校生が市長メッセージを代読し、市民の皆様に発表させていただいた。そのようなことも継承の一つになるのではないかと思っている。

というわけで、市民の一人として、70年後どういう風なメッセージを発していくのか、役をいただいてから考えてきた。で、2つ、3つあるけれども、まず、核軍縮や核兵器廃絶に対して努力をなさっていただいている専門の皆様方にそのところは任せたいと思うが、なかなか思わしい方向に進んでない面もあることも事実。それから核兵器というのも、理解が進んでいるようで、私を含めた市民のひとりとしても、一般市民としても、理解していない、意識が高まっていない面もあるのではないかと心配している。

そこで、もっと人間に焦点を当てた考え方を発信していくのはどうかという風に思う。人間の命と、それから尊厳、それからあと、人間が命を育んでいく、幸せになるはずの地球環境も、核兵器によって、あるいは、核の産業、あるいは核実験などによって、非常に劣悪化して、それが加速しているのではないかと心配している。

そういう、人間と、それを取り巻く環境の悪化ということ、それに対して警鐘を市民として出しながら平和について発信していくという視点を、70年を超えて、発信していくことも大切なのではないかという風に思う。

それから、非人道性という言葉の中には、実を言いますと被爆者直接の皆様方、それからあと核の産業とか核実験とか、核のいろんな事故などによって、非常に苦しんでいる方々がおられるということも事実。人間の命が育まれるはずである地球環境が汚染されていく、危機的な状態になっていくそのものが非人道的なのではないか、と考えた。

ということを含めながら、私たちはこれから、人間に焦点を当てて、そして人間を取り巻く環境の悪化などもしっかり考えながら、そういうことの意識を高めながら、核兵器廃絶、平和について考えていくということが、長崎の役割ではないかな、と考える。

最近読んだ本の問題で、原典を読んでおりませんけれども、核の開発というのは、原爆として落とされる前から、コントロールは不可能ではないかと心配をしながら、科学者は見守っていったということを知った。そういう意味でも、もう70年経って、ほぼコントロールできないかもしれないという大きな心配があるわけだから、本当にここで踏み込んだ核廃絶に対する、もう一歩進めていくことを、私たちは市民としてバックアップしていきたいと思っている。

【委員】
土山先生が退任されるということで、ちょっと自分を振り返ってみたら、ずいぶん長くご一緒させていただいて、勉強させていただいて、非常に寂しい思いがした。

今回、去年も、若い人から平和宣言について声をかけられたことがあるが、今年に入って、何人かの、本当に久しぶりに会った市民の方から、平和宣言に関してのご意見をいただいた。長いこと、本当に一市民のレベルでしかできなかったが、そういうことで言い続けることで関心をもってくださる方が少しずつだけど増えていったんだなと実感した。昨日は、「オバマさん今度来られるんですね」という、その方に「被爆体験がどなたかあるんですか?」と言ったら、「いやないんだけれども」という、そういう中で、長崎に住んでいて関心を持ってくださる方が、こうして向こうから声をかけてくださるということに、私はあらためて頑張らなければならないということで、ある意味嬉しい体験だった。私も今回話をいただいて、悩んだが、一市民として話をさせていただくのも必要かなと受けさせていただいた。

昨年は70周年で大きな転機だったが、71年というのは、もう一度70年前を振り返る、原点に返るというのが大事だと思った。長く運動をする中で、少し本来の目的とはずれることがあるということがよくあると思う。私たちは、核兵器廃絶を訴える運動の原点が何だったのかもう一度振り返ると、そのことを再構築しなければいけないし、原点はやっぱり被爆者の方々だったと思う。被爆者の方々が本当に大変な中で声を上げてくださり、そのことが核兵器廃絶運動の原点だったと思う。そうなると、71年目の今年は、そのことを被爆者の葉で体験として、この中に盛り込んでいただきたい。被爆したときだけではない、その後の70年の人生がどれほど悲惨だったか。被爆者もいろんな体験をされた方がいらっしゃるけれども、お一人おひとりやっぱり違う、どこでどういう被爆を受けたかということで。本当に大変な中で、被爆者が被爆者から差別を受けることすらあったんだという当時のお話を聞くと、そのこと抜きには語れないと思う。改めてそのことを前面に出して、被爆者の言葉で表現していただく。その言葉を受けて、非人道性ということがどういうことなのかを訴えると、さっきから出ている。われわれ一市民にとっても若い人にとっても非人道性の持つ意味が、科学的なことだと我々は入れない。でも、そういう体験の中から、だからこういうものは、人間として絶対あってはいけないんだという言葉につなげていくと、少し訴える力が強くなるのかと、国を超えて世代を超えて、自分のものとして感じていけるのかなと、あらためて今回感じた。

オバマ大統領がいらっしゃるということで、少しこの間の流れと変わってくるかもしれないし、長崎に来ないことの是非もあるし、謝罪を云々ということもあるけれども、やっぱり私は、投下された国の大統領が現状を見て、そしてそのことを感じていただくということをまず画期的な出来事として、肯定的に受け止めたい。で、それでその謝罪をする前に感じていただく、言葉だけの謝罪よりも、心の中にどれだけのことを刻んでいただくのが大事だと思うし、そのことが次のステップになるのかなと思うから、長崎にいらっしゃらないとしても、私は実相を知っていただくうえでとても素晴らしいことだなと思う。

それと、今そういうことが話題になっているけれども、憲法改正というのはもう現実のものとなってるし、やっぱり私たちは憲法9条というのはもう本当に日本人を70年守ってきた宝だと思う、そのことに対してはやっぱり私たちはそれに対する疑義を明確に表明をしておくべきではないかなと思う。そのことに対する不安とか、国民の気持ちというのは明確に出しておく必要があるのかなと思う。 日本政府には、唯一の被爆国と言葉では言われてますが、やっぱり世界の動きの中での日本政府の態度が非常に不明確で、後ろ向きなところがあるので、私は経済的にいろんなことを言う前にまず、平和の面から国際貢献をするということが日本の役割だと思う。これはどこの国よりも説得力があるので、核兵器条約等もいろいろ出てきて議論されてるけれども、そういうことの先頭に立って、平和な国際社会を作るために、真の意味の被爆国としての貢献を求めていきたいなという風に思っております。

さっきも出ていたが、運動が進展する中で、社会情勢も変わるし、科学もいろいろ発展してくると、いろんな専門的な、まあ、この核兵器禁止条約なんかも一般市民で聞くと分からない、すぐには。こういう言葉がいろいろ羅列されてしまうと。さっき出てるように、平和って難しいよね、核の問題なんて私たちにはとても踏み込めないよねということがあるので、やっぱりそういう、誰に訴えるのかと相手を明確にして、専門的な用語ももちろん入ると思いますが、それだけじゃなく、昨年市長がおっしゃいました、私たち一人ひとりの力が社会を動かすし、政治を動かすし、平和な社会へ貢献する力は、市民一人ひとりなんだということを改めて私は訴えていただきたいなと、そしてやっぱり私たちが小さな力の市民だけれども、私たちが関心を持って参加することによって、それを学んで、行動して、継承していくことが、世の中を変えることなんだと、その共感の輪が広がるというんですか。やっぱり共感の輪が広がらないと、点でつながっても意外と弱いと思う、それが共感になってくると線になっていくと思うので、そういう共感できるようなことを少し言葉としても訴え方としても、工夫が必要なのかなと思う。

継承のことが少し弱まっているのではないかと話題になりましたが、私は今生協に所属しているが、今年の夏の平和の大会では、継承ということももちろん出すが、今までは「こうしましょう」だったけれども、今年はちょっと提案をして「あなたができることは何ですか?」って、みんなを主人公にしたような語りかけをしていこうと、問いかけにした。で、こうですよ、ああですよと言われるだけではなく、この中でじゃああなたが踏み出せる第一歩は何ですか?ということを問いかけることで、その方にも何か考えていただけないかなということを新たなスタートとして71年目に考えてやってきた。

だから、非常にいろんなことが複雑化する中で、何もかもをそこに盛り込むというのは、とても聞く方も読む方も大変なので、少し原点を顧みてスリム化して、今本当にやらなきゃいけない私たち一人ひとりがそこに賛同して共感していけるような、そういうものができないかなと、ちょっと自分で知恵がなくて提案ばかりで申し訳ないけれども、ちょっと今回参加させていただくにあたって考えた。

【委員】
昨年の平和宣言を平和推進協会事務局長と比べてみたりなんかしたのだけども、時々、去年のは長かったという意見があったが、この起草委員会方式で広く市民の意見を汲んで市長が世界に発信するということを考えると、長崎は宣言が長文になるのは当たり前なんじゃないかなと思う。長文の割にはスムーズに聞き手の胸に入ってきていたし、多種多様な意見をよくまとめてあり、事務局の尽力には敬意を表したい。

今年の平和宣言は升本委員も言われたように、先祖帰りと言ったらおかしいが、始めから元に戻って、より意義のあるものにしていきたいと思っている。原爆被爆地・長崎のリーダーであり、核兵器廃絶の世界的シンボルとしての長崎市長が、今言いたいこと、言っておかないといけないことを総体的に触れることが必要じゃないかと思っている。

二番目に、昨年の平和宣言で、被爆者や戦争体験の「継承活動」の意味するところを、相当なスペースを割いて、わかりやすく、さらに一人ひとりの胸に刺さるような、いい意味で残るような感じの表現が見られたので、あそこは、今年の平和宣言でも残していただきたいと思っている。

三番目に、被爆者の平均年齢も80歳を越え、平和推進協会の方でも、いろいろ継承をどうしたらできるかということで、3つの事業部会でやっている。しかし、それでは足りないなという感じでいて、申し訳ないとは思うが、市の方でも親御さんとかおじいさん、おばあさんから話を聞いてくださいというようなことでやっていて、結局、平和推進協会、追悼平和祈念館、そして市の方、その三本で絶対増やしていかないといけないと思う。工夫できるところはどんどん工夫していきたいと思っている。

5月下旬にオバマ大統領の広島訪問が実現した。市長もぜひ行きたいと新聞に書いてあったが、行きたいではなく、絶対行ってほしいと思う。落したのを謝罪するということを求めるということではなく、そういうことには一切触れないで、長崎の資料館を見てもわかるように、広島の資料館を見て、オバマ大統領が胸に刺さるような感じがすると思うので、また一歩進むのではないかと思っている。核兵器廃絶は絶対すぐパッとやめるということはないと思う。若い人にずっと残すことになるんじゃないかと思うが、なるべく早くそれが終わるような、プラハで演説した時のようなことを核のない世界に住みたいというような、人間としての本心を述べられたのをもう一歩進めていただきたいと思っている。韓国の方からは、旗を持って参加するというような新聞記事を見たが、あんまりせっつくというかダイレクトにするのではなくて、やんわりと友好的に話し合って、機会があったら、そうしていただきたい。

なにしろ、外交上の問題で時間がないようだが、会われたら、ぜひそのようにしていただきたいと思っている。自分が言わなくても、市長の方がわかっていると思う。メッセージを発信していただきたいと思っている。

【委員】
私は、紙にも書いているけれども、長崎平和宣言の例年の構成を支持している立場。そして基本的に今年もその方針で書いてほしいと思っている。

私が受けて止めている例年の構成とは、被爆者の体験によって長崎原爆を語ること、そして現在の世界と日本を見渡し、平和を求めていく訴えを語ることのこの二つ。これでずっと来ていると思うので、今年もそれでやっていただければと思っている。これを被爆地から核兵器廃絶と不戦平和を求めるメッセージとして発信していただきたい。前者は、被爆者が見た原爆、投下時・投下後の長崎を語ることだと思う。毎年欠かさず戦争の実態を直視して次世代に伝えていくという営みを続けていただきたいと思う。

もう一つの現在の情勢については、私はそう理念を語れないのでいきなり具体的なことをずっと羅列していくが、最近の情勢で言うと、北朝鮮が核戦力を維持・増強しようとしている姿勢への懸念と抗議というのは非常に大切なのではないのかと思う。あと、先ほどから議論が出ているけれども、核兵器を禁止する法的枠組みへ議論が進展していることへの支持と、中でも開催されたばかりの国連作業部会に注目しているということ。これは、次回が8月にあるということなので、平和宣言を読むあたりに、非常に近い時期であると思うので、この取り組みへの被爆地からのメッセージを前面に出されたらと思う。

オバマ大統領が広島を訪問した場合には、そのことへの評価も必要だと思う。これに関しては日本の側から、あるいは被爆地の側から謝罪を求めるのか、求めないのかという議論もあろうかと思う。実際あるのだと思うが。ちょっと違う問題として、今私たちが見ているのは、アメリカの話。アメリカの中で、オバマ大統領が広島に行くとなったら、アメリカの国内で「まさか謝罪にいくのか」、「謝罪したらダメだ」ということがアメリカの中で起きて、それに対してアメリカの政府が、「謝罪ではない。核兵器を使った国として廃絶するための特別の責任感があるのだ」という説明を米政府の側が必要としている。ほとんど日本は関係なくて、アメリカの中で行われている。これは非常に重要だろうと私は思っている。そのうえで日本の側である議論としては、原爆被爆者、戦争犠牲者全体に追悼を捧げてほしいという、日本国内での話ということであるとか、被爆者や被爆地の現実に触れて、核兵器廃絶に向けた再度の決意を表明してほしいというような議論が日本側にある。というのが大きなくくりではなかろうかと私は思っている。アメリカで起きていることも、日本で起きていることもどちらも非常に大事だと思うので、私はどちらも書いていただきたい。結果として、アメリカの中で謝罪を巡る論争がある、米政府はそういう立場をとっているというところも、その年その年の長崎平和宣言というのは長い歴史の中のその時点、その時点を映していくものであるから、ぜひ今年はこういうことがあっているというのを全部セットで、書くと長くなるのでこれを短くして、盛り込んでいただけたらいいのではないかと私は思っている。当然被爆地として、アメリカで起きていることも長崎市長は承知しているし、注目もしているということだと思うので、そこのところを具体的に述べていただきたいと思う。

それ以外には、これも例年の話だが、核の傘によらない安全保障、具体的には北東アジア非核兵器地帯の検討を今年も求めてほしい。あと、解釈改憲に続いて、その法的具体化として安全保障法関連法ができた。昨年の平和宣言で述べられているが、70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が今揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっているというこの状況は昨年と今とまったく変わっていないと思うので、今年もぜひこの趣旨を踏襲してはっきりと書き込んでほしい。同様に、福島第一原発事故から5年が経ったが、この状況も全く変わっていない。事故は収束をしていない。被災者の苦しみは続いている。一方で、原発の安全性とか電源構成に関する国民的議論は一向に進んでいないままというのが現状。その中で原発を再稼働しようとしていることに対して、強い懸念を表明してほしいと思う。去年の宣言文はそうなっていないが、せめて「福島」という言葉は必ず残していただきたい。去年の宣言文には「福島」という言葉はあるので、それは残していただきたいと思う。あと被爆者援護では、原爆症認定をはじめとする援護政策の充実、被爆二世の健康問題への公的援護の拡充を入れてほしいと思う。

皆さんのお話を聞いていて私も思ったが、継承していくための呼びかけは非常に大切だと思い、若者もだがそれだけではなくて、子どもも、高齢の方もみんな継承の輪に入ってこれるような、私はどうしたらいいのか具体的にはわからないが、表現の工夫というか、そういうアイデアを絞っていただきたいと思う。

【委員】
まず、書いたんだが、昨年から各委員の方もおっしゃっていたけれども、継承ということはぜひ。特に71年目、昨年は70年という節目であったので、どうしても被爆体験者の方々の人数が減っていくのは避けられない事実であると思うので、継承ということをぜひ強調していただきたいと思う。ここから先は別にいいアイデアがあるとかではないけれども、それをどうやっていくのか、こちらに書かせていただいた。私どもの調査で、長崎市の中でも長崎に原爆が投下された年月日を正しく答えられた方が6割を切ったという調査結果がある。長崎市ですらそうなので、全国だったら推して知るべし。ここから先は私の日頃のお付き合いの中でいろいろ聞く話だが、その中ではやはり長崎の方々に聞きますと、子どもの時に原爆資料館とか平和教育を受けて、やはり聞いていて快い話ではないし、見て恐怖心を煽るようなことを植え付けられたことがトラウマになっているようなことを耳にすることが多い。継承というときに、何かこれを知れとか、これを学べとかではないような形でうまく持っていく方法はないかなと。平和教育のあり方を見直すべきではないかなと書かせていただいたが、宣言の中にどう具体的なことがどうしたらいいのか私自身もわからないのだが、そういうことを考えていかざるを得ないという議論の発意を出してもらっていいのかなとまず感じた。

それから昨年、NPTがニューヨークであり、長崎でパグウォッシュ会議があり、非常に核兵器廃絶に関する議論が盛んにいろんな形で行われ、取材した中で、どうしてもやはり核兵器が必要なのか不必要なのかというところで水かけ論という形になっていて、議論の進展がほとんどなかったなと思っている。どうも私自身見ていて、核兵器が兵器として必要なのか不必要なのかというところにいっているのではないかと思った。そもそも兵器そのものがだめなのだと。核兵器がだめなのではない、兵器がだめなんだというのが大元にあるのではないかと私は感じた。核兵器廃絶とは核兵器だけをなくせばいいということではなくて、戦争のない平和な世界に行くためには、兵器そのものを根絶しなければならない。ものすごく長い道のりだが、その第一歩として、一番強烈な兵器である核兵器をまずなくす、それができなかったら当然平和なんてできない、ということが核兵器廃絶の出発点ではなかろうか。きつい言い方だが、核兵器廃絶を目指さないということは、口でなんと言おうと、お前は平和を目指していないだろうということぐらい言ってもいいのではと思っている。そこまで強く言うからあれだが、宣言文にそういう兵器論ではなくて、平和論という形、戦争のない世界をつくるというところで訴えていってもいいのかなと思った。

それから、昨年も市長が宣言の中でおっしゃっていたが、ぜひオバマ大統領もいらっしゃるということで、世界の方々に見ていただくことが大事だと思ったのは、ケリー長官が来て衝撃を受けたということが、私が衝撃だった。あのケリー長官にしてすら知らなかったのかという。国際的なお付き合いとか知識がたくさんある方ですら知らなかったということは、普通のアメリカの市民とかヨーロッパの市民は、おそらく全く知らないだろうと思う。ぜひ来て見てもらうしかないなと。ぜひ積極的に呼びかけていただきたいと思う。

最後はやや苦言になるが、これは私の勉強不足もあるが、被爆者の救済について、被爆体験者訴訟で長崎市が控訴をした形になっている。昨年の宣言でも被爆地域の拡大を訴えていることと、このことが。おそらくものすごく法律を細かく読んだり、知識があれば明確なものがあるのだろうが、報道する側でも、拡大をいっている中で訴えた人たちを控訴するとこととの整合性がどうしてもつかない。わかりにくい。そこのところを、おそらく今年も被爆地域の拡大、そこに救済の手を差し伸べるということをおっしゃる中で、この控訴はいったいなんだったのか。最終的には、救うことになるからそうしているのかとか、踏み込んでいただいて、市民にとってわかりやすいメッセージにしていただけたらなと思っている。

【委員】
昨年度に引き続き二回目の参加となる。私自身は、昨年と一昨年、ナガサキ・ユース代表団という団体の一員としてニューヨークの国連本部で開かれたNPT再検討会議に参加させていただいた。今回は私からは2点ほど提案をさせていただけたらと思う。

まずは1点目。「過去を学び、より良い未来をつくる正しい選択を」ということ。私はこの3月に、一人でポーランドのアウシュビッツの強制収容所に行ってきた。話で聞くのと、実際に現地に行って自分の五感で見聞きするのとでは感じる幅が全然違うということを、身をもって体験したのだが、それ以上に新鮮だったのが、アウシュビッツを訪れる若者が本当に多いということで、それが本当に不思議だったので、現地の日本人ガイドさんに「どうしてこういう風に若者が多いのか。」と尋ねた。すると、今EUが抱えている現代の問題を解決するための糸口として、アウシュビッツが最注目されているということで、EUあげて、学校単位でアウシュビッツを訪問する教育プログラムができつつあるのだという話だった。どういう問題をEUが抱えているかというと、実際今EUも高齢化が進んできていて、アジアとか、アメリカとかの経済に対抗するために、移民の労働力を使うことが必要不可欠になってきている。その一方で、自分と違うことを受け入れることに対しては摩擦も大きくて、反移民デモがEU各地で起きていたり、そういった状況が続いていたりするということで、このままでは、社会の亀裂は大きくなっていくし、反移民感情に基づいて人権侵害とか人種差別につながりかねない状況にあるとのこと。このような排他主義とか、人種差別につながっていくのではないかという懸念が、ちょうどホロコーストが起こった時のナチスドイツと状況が全く似ているということだった。ホロコーストが始まったときは、第一次世界大戦に負けたことで、賠償をかなりしないといけなくて、経済がそのせいで破たんしてしまい、失業者がたくさん出たりした。それで市民が疲弊して、そういうやり場のないフラストレーションの矛先をヒトラーがうまく使って、ユダヤ人という絶対悪に集中させることによって、その矛先を自分たちから、別の方向に向けようとした。誰か一人に集中させること、そのような人種差別につながるような現状と、アウシュビッツとか酷似していると。今EUの統合を保つためにどんどん移民を受け入れて折り合いをつけながら経済発展を強めていくために、これからどうやっていくべきか。それを考えるために、あえて今アウシュビッツ、過去の話を振り返って学ばなければならないという姿勢があるということだった。

今日本国内でも、第二次世界大戦に突入する前に似ているとか、今の日本は再び戦争の道を歩んでいるのではないかという声を耳にする。これは、戦前、戦中を生きぬいてこられた方ならではの嗅覚が働いているのではないかなと思うが、そういった嗅覚をもたない戦後に生まれた私であっても、今のメディアのあり方とか、政府の強硬姿勢にどうしても不安が拭いきれない。なので、過去を学び直して、それを教訓に今にどう立ち向かっていくのかを考えることが今生きている私たちにできることではないかと感じた体験だった。

核廃絶に関しても、私たちは核兵器廃絶に向けた国際議論を活発にして、具体的に核兵器廃絶に向けたアプローチを実現させていく必要がある。そのためにもまずは原爆でこんな悲惨なことが起きてしまったのだというベースの認識がなければ、それを踏まえてどうしていこうかというような議論につながらないと思う。そういった面では、この間のG7の広島訪問とか、予定ではあるがオバマ大統領の被爆地訪問で、ようやく本当のスタートラインに立ったと言えるのではないかと思う。この訪問を単なるセレモニーとして終わらせるのではなく、それ以降、この訪問を受けてこれからどうしていくか、長崎が冷静な目で見ているよということを宣言文の中で伝える必要があるのではないかと思う。ただ、現在国連で行われている国連作業部会では、G7の訪問の後であっても核兵器国が核兵器禁止条約に向けた交渉に全然入っていないという現状を踏まえると、もう少し強い表現、見つめているという表現だけでは弱いのではないかとさえ、最近では思うようになった。

二つ目は、世代交代が迫っているということを市民一人ひとり、特に私たち若者に強い自覚を促すようなアピールの文書が必要かなと思った。昨年度も私はこの委員会の中で市民一人ひとりに、若者に促すアピールを入れていただきたいと言ったが、去年よりも特別必要性を感じている。去年は被爆70年の節目の年で、私もNPTに参加する中で、被爆者の方が国際社会に訴える最後の年になるだろうからと、力の限りを尽くして活動されていたが、こういった残念な結果になってしまった。恐らく、70年を区切りに活動をされていた被爆者も多かったので、71年目の今は、第一線を退かれた被爆者の方も本当に多いのではないかと思う。だからこそ、今年は71年目の年として、全く何の節目でもない年だが、また一から踏み出さなければならない年でもあるし、選挙権が18歳に引き下げられる、より若者の声が必要になってくる年でもあるから、戦争を経験していない若者世代が、より取り組んでいく必要があるのだよということを促すアピールが必要だと思った。私自身も、土山学長がここにいないことや、谷口委員や下平委員が入院されていてご欠席という事実を見ると、私自身も世代交代が現に起きているのだなということを実感して、身が引き締まる思いがする。

【委員】
名刺では活水女子大学文学部に所属しており、現在年齢73歳である。大学では考古学、博物館学を教えているけれども、ただ、私と原爆というものに対してはどうかというと、私は3歳の時だったが、市外にいたためよく知らない。ただし、10歳の時に長崎には住んでいたため、非常にまだきちんと整備される前の長崎のあの瓦礫の状況をよく知っている。特に一時期、本原から西山の方に通っていて、その頃はまだ松山橋を正式にかける前で丸太を組み合わせて渡っていた。本当に落ちるのではないかいうような。それから、松山の電停まで歩いて、諏訪神社まで乗っていく。この時の瓦礫の様子を私はよく知っている。で、写真等で見るとその時の瓦礫の様子はあるが、今日はどうしても見ることができない。それが最初の触れ合いであった。それから、もう一つはなにかというと、私は昭和40年に開館した国際文化センターの最後の事業の1つとしてできあがった、長崎県立美術博物館として学芸員として勤務していた。私の場合は青春の入口から、そして最後は長崎県立美術博物館を廃館するときの最後の館長だった。青春の入口から出口まで出てきて、そういう中で平和というものを考えるという形での教育は受けてきたつもりだった。こういうことが重なって、今回偶然こういうお声がかかったということだけども、私の専門している考古学は、一般で捉えられている考古学と違い、私の場合は出てきたもの、そこに存在している「ある」という事実のものの状態を把握しながら場を組み立てていく、すなわち、人間行動をそこから再現していくと言われるもの。私たちは日本語で原一論と呼んでいる。その場にあるものを捉えて初めて、他の場所の状態とどう違うのかということによって、そこで何が行われたかということをやっているという形で、過去の状態においた人間の過去の行動を再現するということ。基本的に人間行動の場合においては、美しいものあるいは汚いものなどいろいろがあるが、これは2番目であって、人間が行っているものは、すべて私は人間美としてすべてを捉えていて、それを判断するのは情勢や時の社会背景という形でやっていて、過去の様子を見ていくと。こういう風なやり方で遺跡の調査をやってきたので、そういうことでお声がかかったのではないかという気もするけども、今回初めて地中に埋蔵されているもの、あるいは残されているもの、特に原爆といわれるものにかかるものの調査をやってきた。それが原爆遺跡調査検討委員会。その会長をさせていただいて、初めて私は専門である考古学という立場から眺めることができた。まず一番に考えたことは、遺跡そのものがあって、原爆遺跡、原爆遺跡と言っているけれども、では何が中心かということになると、一番に抜けていたのは原爆落下中心地一帯、ここを遺跡としてみなくていったいどこに遺跡が存在するのかということで、過去と違い遺跡=地面という考え方ではなくなっている。なので、ぜひこれを中心としながら、今残っているものを見ていきましょうと。いろんな状況が70年の間に変わっていた。1つが城山小学校の校庭の調査をやったけれども、人体の骨が散乱している様子は再現できないくらい精査されていた。だから、見るからにほとんどきれいに清掃している。ここでの土壌をとって分析をやったけれども、ほとんど確定するまでに至らない。わずかばかりの骨片類が出てくることによって、あるいは炭化物によって、ここで亡くなった方たちを荼毘にふしたということ自体が裏付けられると。しかし、そのあとにおいては跡形もないような状況でなくなっている。そういう意味では、城山小学校原爆校舎といわれるものがいかに重要な意味を持っているかということが改めてわかる。

それから、爆心地の中を見ると、私は故長岡先生と同じ場所に住んでおり時々お会いして話していたが、非常にあの瓦礫類を、現在残されている断面図を見ることによって、私は当時小さい頃に通っていた様子を再現することができる。ただ、あの調査を行われた時に記録をという形でやられているので、その後どうすればということは非常に残念でならないということを、長岡先生が亡くなられる前に申し上げた。片足鳥居とか医学部門柱とか、こういう風なものは威力と共に、鐘楼もそうだけれども、今後存在するかどうかというものは危惧される面があった。今回の熊本震災の中で、かなりの文化財が壊れているということ。もともと難しいことは、破壊されたもの、あるいは劣化しているものをその時点でとめるというのは技術的に非常に難しいものである。ところが、今回の熊本城のあの石垣を見て、うわーと思いながら、ただ私はそんなに心配してなくて、やろうとすればできると。こう感じたのは、昨年私は青森の弘前城を見に行った。ここは天守閣が重要文化財。その下の石垣が崩壊した。どうしたかというと、クレーンで天守閣を全部全部持ち上げて、レールに乗せて70メートル移動させて、石垣を積んでもう一度クレーンで元の位置に置くということをやった。実際に話を聞いて、やれるのかと聞いたらやれると言う。調べてみたらほとんどパルテノン神殿も何もほとんど日本の技術でやっている。なので、やろうと思えばやれる。そうなれば、とにかく何としても劣化を防止して、現状を的確に把握しながらやっていくということで、遺跡を保存する必要があると。だから、今までの1つのものによってどこまで語られるかという限界。

そして、先ほどからいろんな先生がおっしゃった継承するといった問題。では今後どうやって継承するか。直に話すことがなくなったときにどうするか。大変失礼ではあるけれども、現在やれることはやっていこうということ。ということは、過去のものを伝承する中においては、口伝いでやるトランディションというが、伝承するということは、その時点で伝承するときに変容していないかという問題。それから、記録されたものでスクリプションはどうかというと、そう書かざるをえなかったからそう書いているのではないか、例えば、日記にはこう書いていこうというものが残っているのではないか。それから、もう1つがモニュメント。本当にこの残されているもので語れるのか。語ってすべてに充分なのか、ということの3つを検討する必要が出てくるのではないかと思う。既に70年を経過し、今から以降、博物館学で言うところの、原爆の第1次資料というものは減少してきている。だたし、第2次資料、第3次資料はどーんと増えてきている。そうなってきたら、今後のことを考えるなら、長崎市においても、やはりもっと大きな目で見るとライブラリーというものを完備する必要があると思う。ただ単に、長崎市の歴史の一部分を占めるのではなくして、この問題について世界に発信できるのは長崎だけであるという形での大きい姿勢で今後も取り組んでもらいたい。ただし、今までがどうであるかというと、私のアンケートに書いているように、平和を祈念する姿勢そのものについては微動だにしていないし、前年より今年、今年より来年というよう形で非常に進歩している。内容については非常に素晴らしいものができあがりつつあると思う。で、今後もう1つは、この力をもって何を見せるかということについては、ここまで長崎やってきたぞということを見せていいのでないか。文章の最後に書いているが、私は若い頃にオランダのロッテルダムに仕事で務めたことがある。ここは第2次世界大戦のドイツの爆撃で焼け野原、焼土となった。その写真がある。この写真は非常に城山諸学校から映したあの原子野の写真とほとんど同じである。ところが、このロッテルダムはでっかい街路樹がどーんと並んでいる。焼け野原の様子の中でなぜ街路樹だけが、と疑問だったが、現地の人に聞いたら、今から復興するのに何が必要なのかというと、力だと。そのために一番ほしいのは何かというと、自分たちが働いて休憩時間に休む時の木陰だと答えた。それを必要としたために、それを励みにやってきたと。そのために、今日のロッテルダムという街があれだけ繁栄をして存在している。長崎もそうやって眺めてみると、あの同じロケーションで見たときに、すごく緑に潤われている。これはすごい力ではないか。この力強さをもって、私たちは平和を祈念してやってきたんだよという証の中で、アピールできるような材料になったらなということを感じる。以後はいろんな形で勉強させていただきたい。

【委員】
今日委員のみなさんの話をいろいろ聞かせていただいたが、改めて長崎平和宣言が背負っている難しさみたいなものを感じた。難しさといっても、非常に可能性を秘めた難しさなのだが。若い人たちに本当に何かハッとするようなメッセージが必要だと、本当にその通りだと思った。私自身、平和運動を長くやってきた経験があるので、人にどういうきっかけで何が伝わるかということは、予測を越えることがある。平和宣言のように多く読まれるものというのは、おそらく、私が経験した中で最も広範な可能性を秘めた、それだけにどういう言葉で誰が動くのかということは想像を超えた部分があるだろうという風に思った。それから、継承の問題も非常になかなか答えが難しいテーマだけれども、言い続けなければならないということを改めて感じた。で、私としては、専門でもあるし、国際的にこのメッセージが出て行ったときにどういう発信が長崎から今年でないといけないかということを念頭にいくつかメモをした。

第一に、核兵器を禁止するような国際法がほしいという声が、もう留めることができないような勢いを持っていると思う。勢いはあるんだけれども、現実道筋が見えない、進まない焦りというか、苛立ちというのが、世界中にあると思う。多少とも核兵器のことを考えている人はみんなそういう印象を持っていると思うので、この勢いをともかく、絶やさないということが長崎平和宣言のメッセージとして何よりも伝えてほしいと思う。昨年70周年といわれるけれども、国連総会第1回目から今年70周年にもなる。国連総会の第1回目で、すべての大量破壊兵器をすべての兵器国からなくすための検討委員会を立ち上げるという決議をあげた。すべての大量破壊兵器をなくそうという第2次世界大戦後の空気の中で、国連総会の第1回目の総会決議として出たという意味は大きい。振り返ってみると、大量破壊兵器の中で、生物兵器と化学兵器は、包括的な禁止条約がもうできている。これは、憲章を伴うかなり完全な形の包括的禁止条約ができている。それにも関わらず、一番誰の目にも破壊力の大きくて非人道的だと考えられる核兵器についてはそれが達成されていないということで、この現実への苛立ちというのが、やはり先程の押し留めることのできない、何か禁止条約を早く作れ、その場を早く設定せよ、ということに表れていると思う。それが昨年秋の国連総会決議で、今年の公開作業部会、国連の枠組みの中で初めて実現するこの問題の作業部会になった。2月、5月のセッションが終わって、8月に広島・長崎の記念日より後、中頃だと予測されているけれども、8月の会議が開かれて、そこで勧告を出すと。その勧告で、秋の定例の今年の国連総会に、この問題の次のアクションを、なんらか決議をするという手順。なので、平和宣言ではぜひとも、その作業部会の8月の会議における勧告の中に、この核兵器を禁止する法的な枠組みについての話し合い、交渉の場を、設定するよう作業部会から勧告してほしいと、それを国連総会に送ってほしいというようなことが、具体的なメッセージとしては必要なのかなと思う。それが第一点。

第二点は、この流れの背景に、核兵器が私たちにとっては本当に何度も何度も言ってきたことかもしれないが、国際的な議論する場では、やはり2010で始まった議論なのだが、核兵器の人道的影響、非人道的なさまざまな影響について、もう一度事実として洗い出そうではないかという努力が始まった。それが先ほどの動きとつながってくるが、なぜ2010年に始まったかというと、やはりオバマ大統領のプラハ宣言が2009年あって、それが明らかにアメリカの大統領選挙を踏まえた後のメッセージとして出てきたわけで、そのメッセージが実っていった結果、非人道性ということに世界的焦点が当たった。なので、いろいろ不満が私にもあるが、彼の功績の大きいところはきっちり押さえておくべきだろうと思う。そういうことがあって、昨年70周年ということであったので、その新鮮なメッセージが思いがけないと言うと語弊があるが、いろいろな人から出てきた。その中で、国際赤十字は本当に熱心な活動をしてきた所だが、彼らが昨年の国連総会、国連にとっても70周年設立総会だったわけだが、そこで初めて、安全保障上の道具として核兵器を使うということ自身を問題にするという発言があって、安全保障上の道具として非人道的な兵器を使うということはありえない、そういう兵器というのは存在しえないということがあった。それが一つ新鮮な発言だったと思う。それからローマ法王が70周年の総会で発言したのだが、彼の発言は非常に根本的な発言で、国連設立のスピリット、精神に、核兵器は反すると。核兵器が存在している限り、脅迫と恐怖のうえに秩序を作ろうというものにならざるをえないのであって、それが、国連憲章でみんなで話し合い平和な世界をつくろうという基本理念に反しているということで、核兵器のない世界というのは国連憲章からして、一日も早く実現しなければならないという、そういう趣旨のメッセージを発した。これも非常に70年のなかで核兵器について切り込んだ発言ではないかという風に思っている。もう一つの変化は、そういう核兵器を持っている国と、核の傘に依存してその保護のもとに安全保障を考えるという国に区別はないという議論が、ここ2、3年、相当直接的に発言されるようになった。これは非常に大きな変化だと思っている。私たちが言い始めたと思っていたのだが、核兵器依存国という言葉を使っていた「Nuclear dependent states」という風な言い方で、核を持たない非核国なんだけれども核の傘に依存している国をそういう風に呼んでいたのだが、ここ2、3年、国際的なNGOとそれから積極的な国の発言の中に、核兵器を持っている国と核の傘に依存している国を両方とも「Nuclear reliant」という言い方をしていて、やはり核兵器依存国と。なので、やはり核の傘に依存している国と保有している国に区別はないということが、核兵器の非人道性であり、そういう兵器と考えてはならないというメッセージであり、それに共通する認識として出てきているということで、私は日本政府がやはり依存しながら橋渡しをするというスタンスというのは段々国際的にも通用しなくなっているのではないかと。そういう認識を早く日本政府は持つべきだという風に思っている。これは本当に客観的といっていい情勢の変化だと思う。核兵器に依存するということで、2種類の国が1つに考えざるを得ないという国際世論の高まりがあると思う。そういう風に考えると、日本政府は核の傘から脱却して、これまで核の傘が必要だと言ってきた論理があるわけだから、その論理をカバーして、なおかつ核の傘に依存しなくても大丈夫だという政策選択というのが必要であって、長崎が長く訴えてきた、RECNAもずっと取り組んできたことなのだが、北東アジア非核兵器地帯の設立というのは大きな流れの中でもう一度きっちりと捉え返して、平和宣言の中でメッセージとして出してほしいと思う。

それから三つ目は、オバマ大統領が広島に来るということを踏まえたメッセージが必要ではないかと思う。先ほどの意見が基本的にはそうだなと思ったが、アメリカ国内に謝罪に関して両論があると。日本に対しては期待があるというか、謝罪ということよりも未来を見据えたメッセージに期待をするという。両方が必要かなという感じがした。実際彼が来て何を言うかということは非常に大きいと思っている。なので、直接に見て、感じて、何を言うかということに基づいたメッセージというものを出してほしいと思うけれども、現時点でも言えることとして、これは私たちずっと言ってきたが、オバマ大統領がこの任期の間にプラハ宣言で、核兵器廃絶と核不拡散と核の保安、保安というのはテロリスト、非国家主体が核を使うという可能性を絶つという保安、の3つの柱で言ってきて、結局のところ、保安というところについて、割ときっちりとした結果を残した。それは4回、核保安サミットを開いて、それを開くひっかけはたまたまアメリカが安保理の議長国だったというのが非常にラッキーな巡り合わせだったのだが、オバマ大統領が安保理で保安サミットを開くということで開催の提案をして、安保理決議をあげて会議を4回やった。これはそれなりの成果をあげたと。十分ではないということは最後のサミットで述べられているが、それを考えると、安保理レベルで、私はオバマ大統領が任期中に核軍縮サミットを開こうではないかと言い出すきっかけはあるんではないかということで、とにかく核軍縮サミットで、とりわけ核保有国が1つのテーブルにつくという機会をつくるということができれば、非常に大きな、何を話すかということはもう事前に決めおりする開催は難しいので、核軍縮前進のためにサミットを行うというリーダーシップをとってほしいということが訴えられればなと思う。で、核保有国にはそれに答えろと。

それから日本の状況だが、これは本当に核軍縮を言う国として、やはり国際的に日本は軍事的に傾斜しているという感覚が強いと思う。なので、平和国家の戦後の平和主義は維持しているという風に今の政権も言っているが、非常に軍事的側面について強化しているということは、いろんな側面で表れている。で、国際的にもそう思われているとすると、核兵器廃絶のリーダーシップは取りにくくなっていると。とりわけアメリカとロシアが改めて対立を深めているので、その状況の中で日本が片方に寄った、軍事的に強化している国であるというメッセージがこれ以上強まるというのは、核兵器廃絶のリーダーシップとしても非常にまずいという側面で、私は核兵器の国際的な兵器としての位置というか、最も強力で、国際的な軍事力の頂点に立っている兵器であるという認識をもう一度改めて、その兵器をなくしていくということのためには、軍事的な緊張が緩和しないといけないと。そういう緊張緩和の役割を日本の戦後平和主義は担ってきたので、その戦後の平和体制というものを失ってはならないというのを、長崎の立場から強く訴えることができるのではないかという風に思う。今の時期それが非常に大事だと思うのは、ちょうど冷戦期の一番対立の強い時の兵器システムというのが、耐用年数になってきている。大体40年というのが大きな兵器の耐用年数だけども、2020年頃にその耐用年数を迎えるということで、切れた時の次の兵器というのを投資せざるをえないという状況になっている。オバマ政権下でどの時期よりも高い金額を投資して、耐用年数の頃に核兵器を更新する準備を始めている。これが、発注されてしまうとおそらく更に40年、ですから2060年、とにかく今世紀後半まで続くような兵器が次々とでてしまう。ロシアに関していうと、冷戦後アメリカだけが強い国になっていたのをなんとかして回復しようという経済回復と兵器システムの回復をやってきたのが今出てきている。なので、今ロシアがとにかく最新兵器をどんどん新しく配備していくという状況になっていて、この状況でリーダーシップを発揮するという時に、アメリカが果たす役割は非常に大きいわけで、そこで発言力を持つためにも日本は、戦後の平和主義の原点で平和のリーダーとして発言をするんだというスタンスを失わないメッセージが必要だと思う。そういう面でも、日本にリーダーシップを、軍事強化しないということの中で出していただきたい。

【委員長】
第1回目の委員会として皆様からいただいた意見を共有させていただいた。今日はいろいろな意見を出していただき、第2回目の案を出す際の大切な材料となるので、何か言い足りないことがあれば出してほしい。

【委員】
昨年度の祈念式典に知り合いが参列した際、開始15分前であったがパンフレットがなくなっていたので今年は不足がないよう準備してもらいたい。

【委員長】
どういう状況であったか調べて対応したい。

【委員】
北東アジア地帯構想を掲げている以上、北朝鮮の核保有国宣言に対しては、具体的に名指しで明確に非難すべきではないかと思う。

【委員】
日本被団協において、世界に向けて「被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」活動を3月から始めている。様々な平和団体に協力を依頼し、億単位で署名を集めて国連に提出しようと被爆者が中心になり、最後の署名活動として頑張っている。皆様にもご協力いただきたいし、この活動を宣言文に盛り込めたらと思っている。

【委員長】
ほかにないか。第2回の起草委員会が6月にある。その前にオバマ大統領の広島訪問や国連公開作業部会の進捗状況のとりまとめも付け加えができるかと思う。それらを踏まえて案を作成し、次回提案させていただきたい。本日様々な視点からの意見をいただいた。オバマ大統領の広島訪問についても複数意見があったが、知ること、感じることの意味を考える意味では非常にいい機会なると思うし、委員の皆さんがおっしゃったスタートラインに立つということでもあると思う。それが若者へのメッセージになり、被爆遺構を学ぼうという機会にもなり、今日のご意見の様々な部分へ繋がっていくと思う。そういったことを踏まえて第2回の素案を作成させていただき、またそれにご意見をいただけたらと思う。

委員の皆様には、毎回、毎年真摯に考えていただいて、平和宣言の材料となる貴重な素材をたくさん提案いただいていることに感謝している。

【事務局】
第2回の起草委員会を6月11日(土曜日)午前10時から、第3回目を7月2日(土曜日)午前10時から、この平和学習室において開催する予定にしている。次回は、本日委員の皆様からいただいた意見を集約し、叩き台として文案を作成し、さらに議論をお願いしたいと考えている。

お問い合わせ先

総務部 行政体制整備室 

電話番号:095-829-1124

ファックス番号:095-829-1410

住所:〒850-8685 長崎市魚の町4-1(9階)

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