ここから本文です。

平成26年度第2回長崎原爆遺跡調査検討委員会

更新日:2015年5月26日 ページID:027083

長崎市の附属機関等について(会議録のページ)

担当所属名

原爆被爆対策部被爆継承課

会議名

平成26年度第2回長崎原爆遺跡調査検討委員会

日時

平成26年12月16日(火曜日)午前9時~

場所

長崎原爆資料館2階会議室

議題

[報告事項] 調査の進捗状況について
[審議事項] 短期及び中長期における調査方針について

審議結果

会長

只今から第2回長崎原爆遺跡調査検討委員会を開催します。本日は副会長が欠席でございますが、出席委員は半数以上ですので会議が成立します。それでは、報告事項の「調査の進捗状況について」事務局から説明をお願いします。

事務局

〔旧城山国民学校に関する調査状況(第一次確認調査(土砂等掘削調査)、文献等の調査)

についてスライドを使って説明〕

会長

次に、城山国民学校校舎の調査の進捗について、委員からご説明をお願いします。

委員

〔城山国民学校校舎の調査進捗状況について、スライドを使ってコンクリート基礎遺構の

損傷および変質を中心に説明〕

○城山国民学校校舎の原爆による被害

調査の目的としては、原爆による被害の中の衝撃波・爆風の影響について、鉄筋コンクリート構造物に与えた損傷の痕跡を確認し、原爆による鉄筋コンクリート構造物の破壊メカニズムを明確にすることになります。(次項「コンクリート基礎遺構の構造的損傷」も同様)

藤田哲也博士によって被爆直後に撮影された写真によると、南校舎は大きな破壊を受けているが形を何とか留めていること、北校舎は3階から屋上にかけての壁の部分が、爆心地から反対方向に傾いていたのがわかります。

米軍により2か月ほど後に撮影された写真では、南校舎の何とか形を留めている部分が崩壊しています。これは、9月にあった台風の影響によるものと思われます。崩壊した後の写真がこれまで多く使われていることから、原爆そのものでここまで破壊したかのような捉え方をされる場合もありますが、何とか形を留めた状態から倒壊してしまったのは台風の影響ということで、そこは分けて考えたほうがいいと思われます。

校舎全体の主要な部分でどのような破壊を示していたのかという視点で写真を整理してみると、爆心地側に対して平行な建物の面と、爆心地に対して直角方向になるような面で破壊のしかたが大きく違うことがわかってきました。米軍の戦略爆撃調査団報告書の立面図からも、爆心地にちょうど直角、正面を向くような方向の東側や西側は、写真でもわかるようにちょうど床のあたりで水平方向にひび割れが生じています。特に上の階のほうでは、屋上部分にパラペットといって手すり状の壁のような部分に特に大きなひび割れを生じており、下の階のほうにいくほどそのひび割れの程度は若干低くなっていると思われます。

建物自体も爆心地と反対側に傾いており、恐らく衝撃波・爆風を受けた直後は大きな傾きを示したものが、その後の吹き戻し等でちょっと戻ったということだと思いますが、結構大きな傾きなどが生じているのが調査でわかっています。

爆心地とちょうど平行になる南面、北面には、写真にもあるように斜め方向のひび割れが多数見られます。これは、典型的なせん断ひび割れということで、通常の地震などの被害によってもよく生じるものになりますが、地震と同様に今回の城山国民学校については水平方向の力が生じてこのようなせん断のひび割れが生じたのではないかと思われます。また、爆心地方向と直角になる面についても、一部せん断ひび割れがあるので、校舎の東面から見て斜め方向から衝撃波・爆風が来たのではないかと推測されます。

○コンクリート基礎遺構の構造的損傷

出土した北面の基礎があった部分の上屋の東の面が、水平方向の衝撃波・爆風の影響を受け、西の方に変形することによってひび割れが発生したものと思われます。この面の詳細な写真からは、2階の部分の柱が折れて大きな衝撃波を受けていることがわかります。昭和12年に建てられた校舎の中でその基礎遺構があった部分は、特別教室として使われていたようです。基礎の配置図から、2種類の基礎が地中梁で結ばれていることがわかります。

実際の掘りあがった状態での基礎遺構には独立基礎が4箇所あって、その上に柱が立ちあがっており、それぞれの柱を結ぶ形で基礎梁がつながっています。基礎梁というのは、建物全体の変形を小さくしたり、基礎にかかる力を受け持って変形しにくくするためのものです。

全体像の写真をみると、大きなひび割れが掘りあがった基礎遺構を貫通しており、左側部分と右側部分の一体性がないくらい大きく変形しているのがわかります。それから、斜め方向にもひび割れが入っており、これも典型的なせん断ひび割れと思われる、水平方向に大きな荷重がかかった場合に生じるようなひび割れが観察されています。

それ以外にも、基礎と柱の付け根部分にも水平方向にひび割れがあり、建物上屋部分が東側から西側方向に大きな力を受けて発生したものと思われます。

○コンクリート基礎遺構の材料的変質

特に熱線や火災の影響について取りまとめた部分になります。

調査の目的としては、熱線・火災がコンクリートの材料特性に及ぼした影響の痕跡が残存しているか、残存している場合はどの程度の影響なのかを確認するということになります。

現状としては、コンクリートの基礎遺構からNo.1~No.10の10本の円柱状のコアを抜き、その直後の目視観察と中性化深さ測定試験を行っており、その結果からの推定ということになります。これだけではまだ詳しいことはわかりませんので、今後は圧縮強度とか静弾性係数、超音波伝搬速度のほか、化学的な粉末X線回折、熱分析などを通して熱線・火災の痕跡をより明確にしていくことも必要と思われます。

今回、目視と中性化測定試験で変状が見られたのは、このうちNo.8、9のコアになります。

No.8が爆心地と反対側の基礎梁の上の壁の部分からコアを採取したもの。No.9が、校舎の周りにありました側溝の部分から抜いたものになります。

まず、No.8の校舎の西側の壁から採取されたコンクリートコアの長さは300mmあります。建物内部側の表層部分2~3cm程度に赤みがかったような変色が見られました。

通常、コンクリートは灰色をしていますが、このような変色をする理由としては化学的な変化を受けたということで、その化学的変化としては原爆の熱線・火災もそうですし、あるいは通常のコンクリート構造物の劣化を考えたときに大気中の二酸化炭素を吸ったり、コンクリートを侵食するような物質が入ってきたりとさまざまな場合が考えられますが、色が変わっていることで変質が生じているのは明らかと思われます。

コンクリートは、通常アルカリ性が保たれて鉄がさびないため鉄筋が埋め込まれて使われますが、空気中のCO2を吸って中性化したり、火災の影響を受けて中性化したり、酸性の物質が入ってきたりすると鉄筋がさびます。そういうものを評価するのにフェノールフタレインという溶液をコア抜きした直後に吹きかけ、その色の変化で中性化がどの程度進んでいるか調査します。コンクリートがpH8程度以下であれば色がつきません。pHが10以上であると、このような鮮やかな赤色になって健全であるという評価がなされます。

ただし、フェノールフタレインが乾燥した後では、もともと色がついていなかった部分もつきましたので、恐らくコア抜きの影響であったり、中性化の程度がそこまで顕著でなかった可能性もあり、コアの縦方向に切断してここの内部の部分をより詳しく見たり、化学的なより詳細な検討が必要かと思われます。

もうひとつが側溝の部分のNo.9になりますが、こちらはコアの全長が110mm程度あり、流水部側にはモルタルが確認されています。モルタルの厚さは場所によって若干違いますが、10mmから多い所では25mm程度見られます。このモルタルがいつ塗られたのか、戦前なのか、戦後、校舎を修復する段階、またはさらにそれ以降の段階なのか不明ですが、コンクリートの部分に関して見ると、コンクリートほぼ全体が赤みがかっているような変色が確認されています。外側のほうがより色が顕著になっており、側溝が使われていた当時、この外側が外気に触れていたのか、地中にあったのかよくわからない部分はありますが、外側のほうの変質が大きいということが見て取れます。

あとは基礎梁や壁とは違って空隙部分が結構多いところもありますので、基礎梁や壁に比べると、若干変質の程度が大きいのは、そのようなコンクリートそのものの性状も理由としてあるのではないかと思われます。

こちらも同様にフェノールフタレインをかけて中性化の程度を見ると、コンクリート全体の部分が中性化しているようなことが見てとれますし、乾燥後も鮮やかな紫色ではなく、薄い紫色になっていますので、中性化としては結構進んでいるとは思いますが、今後より詳細な調査が必要になってくると思われます。 

今回は、基礎遺構の調査の現段階ということで説明しましたが、この基礎遺構でわかってきたことや、検討の段階で課題になったところなどを踏まえ、現在、平和祈念館としてある被爆校舎についての調査を、その被爆の痕跡などについて特に着眼ながら、現状の健全性といいますか今後も活用していくための評価をきっちり押さえていくことが必要なのではないかと思われます。

会長

ただいまのご説明について、委員の皆様の確認あるいはご質問等はございませんか。

委員

今までにこのような詳しい調査をしたことはありますか。

事務局

これまでに長崎市として、このような詳しい調査をしたことはありません。今年8月にNHKが実証実験で小さなモデルをつくって衝撃波についての検証報告をスペシャル番組で収録された際には同様の調査が行われましたが、それは城山小学校を想定しながらも別の部分のサンプルを使ったり、あるいは仮想的にモデル化した実験を別の大学の実験室を活用したということで、実際にこのように遺構の基礎を現代の科学を用いて詳細に調査したのは、今回が初めてになります。

会長

事務局及び委員の詳細説明を受けて、遺構類がただ単に目で見える地上にあるものではなく、地下に目を向けるとまだ残っているのがこれでわかってきたのではないかという気がします。極端に言うと、城山小学校でこれだけの事がわかるのであれば、それも今後いろいろな人たちの協力を得てきちんとした形の学習材料として検討しなければならないという気がしております。旧城山国民学校の問題は、本来であれば本日の審議事項となっている調査方針を検討する中で了解を得てするのがよかったのですが、時間的にいろいろ前後しまして詳細調査まで入っている部分がありましたので、今事務局で説明されたことについて何かございましたら、委員の皆様のご発言をお願いします。

委員

前回の会議のときに、遺跡の詳細な調査をして遺跡にものを言わせようという意見を申し上げましたが、これは典型的な成果ではないかと思います。だから、遺跡を発掘するのは考古学的な手法ですが、それではどうしても適わないところを学術研究の目で見てもらうし、それを見てもらうためには基礎的な考古学的調査をきちんとやらないとできない。これは今回うまくいっている。9月の会議からわずかの間にこれだけの成果が出てきたのは、非常に大きいのではないかという感じがします。遺跡からこれだけのデータが出るということはやはり先が楽しみですね。

会長

委員が今言われたように、本当に詳細な調査ができていて非常に驚いています。その中でひび割れ調査についても、委員の説明によって非常にわかりやすく理解できる。考古学的手法の中で成功しています。他の遺跡も、そういう形で目で見ていけばいいのではないかと思います。ただ一つ注文を付けるなら、些細なことですがやはり炭化物の問題で、予想と結果が全く違っているということで、再度深層に迫っていかなければならない問題だと思います。今日は市文化財課の埋蔵文化財の責任者の方たちも見えていますのでお話ししますが、これは出土した白い遺物が骨だろうという前提だったので細かく指示しなかったのですが、通常、土壌分析をするときは、その問題となる土壌と違う土壌とを比較して初めて、そこにどうして黒になったのか分析できると思います。だから、ぜひこれは後の追加調査で比較しなければなりません。熱を受けているというご説明が先ほどありましたが、このような比較によって熱をどれくらい受けているかということも出てくる可能性があると思います。これは土壌の中の鉱物を分析していけば、熱を受けたときに当然、その熱によって消滅してしまった元素や鉱物が明らかになるのではないかと思いますので、追加調査でぜひやっていただきたいと思います。ほかにございませんか。ないようでしたら、次の審議事項に入らせていただきます。事務局の説明をお願いします。

事務局

○この資料は、前回会議で委員の皆様からいただいた様々なご意見を事務局で取りまとめ、こういう方針で今後進めていったほうがいいのではないかということで作成している。

○全体的な構成としては、はじめに長崎市が長崎原爆遺跡をどのように考えて国の指定文化財に持っていこうとしているのかという点。次に、文化財指定に向けての取り組み方。そして、原爆遺跡をどのように価値付けていくのかという点をいくつかまとめている。

〔以下、資料読み上げ〕

・資料6頁の今後の取り組みと課題を短期と中長期に分け、表にまとめている。

・私どもがこの整理をする中で、被爆70周年を節目として長崎原爆被爆遺構が国の史跡指定を得られるよう早急に準備を進めようという声も市民の方から多くいただいている。その年度内である平成28年1月までに4遺跡の国指定史跡の意見具申を行い、今後の中長期の取り組みに国から知識や技術、財源など総合的な協力を得ていきたい。

・短期課題では、国の史跡指定を目指した文化財としての価値付けを行ううえで、明らかにすべきことを、中長期課題としては、学校の敷地調査や荼毘の跡の焦土層の最終的な範囲確認などを進めていけたらと考えている。

・文化財としての保存・活用については、数年だけでやれることでなく、この遺跡を後世にわたって永続的に保存していくという観点から、短期で行うことと中長期にわたって行うことを分けて、中長期的な課題についてもそのような時期が来たときは、方針に基づいて準備し、調査していこうと考えている。

会長

ただ今の事務局からの説明について、委員の皆様からご意見等をお願いします。

委員

「整備期間と目標」の中で一つ気になったのは、“被爆遺構は「ものを言わぬ証言者」として重要度はさらに高くなってくると思われる”、その通りだと思いますが、先ほども、前回の会議でも、もの言わぬ遺構にものを言わせようというのが前回強く申し上げたところではなかったかと思います。その辺がまだこの中にいまひとつ入っていないのではないかと感じたのですが、いかがでしょうか。

事務局

そうですね。前回会議での委員の皆様のご意見やアドバイスをいただいたものを私どものほうでまとめさせていただきましたが、「もの言わぬ証言者」としての価値が高まっていくという点から、いかに言葉を引き出して遺構に語らせるかというスタンスで表現をもう少し強く主張させていただければと思いますので、その辺をもう少し変えていきたいと思います。

委員

わかりました。短期と中長期、こういう構想が今から恐らくこのとおりに進めていかれると思いますが、史跡指定された場合に現状変更というのはどのようにできるのか。史跡に指定された場合に、長崎市民の生活に不便さをきたすようではだめで、最終的には行政ではなく一般市民の方の取り組みによって、史跡というのが保存・活用されていくわけです。史跡に指定したから現状変更はだめですというような取り組み方をするのか。それとも臨機応変に生活に即して取り組んでいくのか。また、4件挙がっていますが、短期、中期とすぐにはできないにしても、将来的に非常に大きく範囲を広げた形で住民が取り扱う遺構を追加する可能性についてはどのように考えていますか。

事務局

この史跡指定に関しましては、私も地域の住民の方々のご理解、ご協力が非常に必要だと思います。一般的に言いますと、その史跡の内部で生活される方はやはり一定のいろいろなかたちの制約を受けざるを得ない部分も出てくると思います。将来的には、一定の広さまで、例えば城山小学校であればあの丘全体を含めてきちんと指摘したほうがいいとは思いますが、学校運営を考えればそこまで今すぐには非常に難しいと思います。ここで短期に指定を受けようとする範囲は、それぞれ比較的重要な範囲で、例えば浦上天主堂の既に整備されている旧鐘楼の周辺であるとか、山王神社二の鳥居についても地域住民の方にいろいろと支障がないような感じで現在は進めております。将来的にはそれは一定限度広げていくという考え方のもとに、短期で指定を目指す範囲を含めて地域の中でこれまでも活用されてきた面もありますので、今後は住民の方の理解を得ながらそういった指定の範囲を決めていくと、当面はできるだけ影響がないように決めようと思います。

それから、今後の意見具申に関して中長期的にその他の被爆遺構をどうするのか。もともとこの4件を選ぶときに、それ以外の遺構は原爆資料館で一定の管理をしながら保存しているという経緯があります。先ほどからご指摘があったように、これまで被爆遺構の残し方の中には、先ほどのコンクリートの調査を含めて文化財保護的な手法というのは特段取っていなかったものですから、今回この4つの遺跡が指定を受ければこういった手法が確立されてくると思います。今言われたように、将来的には当然それ以外の遺構も文化財としてきちんと捉えていけないかという考え方は持っています。ただ、今後どうなるかはまた十分議論を尽くしてからになると思います。

会長

ただ今の問題提起と事務局のお考えは、これからいろいろな形で進める中で非常に本質的な問題で重要だと思います。私が個人的に思っておりますのは、原爆の影響を受けたということで遺跡として認定されれば今後やっていく遺跡数は増えてくるだろうと思います。これは私が最近よく遺跡のサテライト化ということでやっておりますが、たくさんの遺跡が出てきてそれを何らかの形でひとつのところでつなぎを持つということで、そのコアになるところが原爆資料館である。これは絶対不動のものであって、今後原爆資料館がどんどん確固たる形をつくりながらぐいぐいとそういう遺跡を増やして、衛星化を図っていただければ一番いいのではないかという気がします。事務局からもそういう話もありましたので、ぜひその面でお願いしたいと思います。

委員

私自身は、広島と長崎の復興の歴史を被爆後数年間に集中して研究しております。調査をしていて思うのは、当時の資料というのにたどり着くことが非常に難しいという点です。その中でどうやって調査していくかというのは、私自身も困難な中で進めているわけですが、今回の新聞記事ですとか文献調査のところで、戦前からの地域社会での取り組み、城山国民学校がどのように受け入れられてきたか、それが戦後においても継続してきたという部分が重要な点だと思います。ですから、被爆後からの歴史というよりも、その地域での戦前、戦中、そして戦後に連続してつながってきたものは何だったのか。そして、被爆後に何が変わったのか。この視点を入れていくことが、重要な点であるということが今回の調査からも明らかになったと思います。もう一つは、歴史学では史料批判が非常に重要ですが、例えば、資料が少ない中で杉本亀吉氏の回顧録を重要なところで持ってくる場合に、この本に対する史料批判といいますか、別の視点から本当にこれが妥当なのかという部分も検証しなければなりません。杉本氏一人の手記で重要な点を補っていくためには、もう一方で、この杉本氏の史料に対してきちんと史料批判ができるようなどなたかの回顧録、もしくは史料がないのかというところはしっかりと検証していかなくてはならないと思います。

委員

価値付けに関しましては、「原子爆弾の破壊の威力を後世に伝える文化財」から、さらに「破壊から復興の歴史を後世に伝える文化財」という視点は、かなり重要ではないかと思いました。それに向けて平成28年1月までの意見具申を考えたときに、残り1年ちょっとしかなくかなりタイトなスケジュールだと思いつつ、その中で短期課題の部分が消化できれば国の史跡指定に向けて十分なまとめができるのかどうかは、私自身文化財等に詳しくはないので、ここは必要だというところをまず明確にしていただけると委員として関わりやすくなってくると思いました。あとは、コンクリート構造物の場合に永続的に保存管理というのがなかなか難しく、文化財となるとさらに難しい側面も出てくると思いますので、そのあたりは短期というよりも中・長期で考えていくべきところと思いますが、その辺で国の知恵などを使いながら今後できていけばいいと思いました。

会長

今日は副会長が欠席ですが、事前にご意見を事務局に寄せられているということですから、ご紹介をお願いします。

事務局

副会長からいただいたコメントを代読します。

〔以下、事務局代読〕

○事務局案でとりわけ重要なのは、史跡の指定に際して「原子爆弾による破壊から復興の歴史を後世に伝える文化財」としての価値を付与する必要が述べられている点である。ただし、「復興の歴史」については、二つの点において確認又は検討が必要である。

第一に、一般に「復興の歴史」といったときは、外形的な復興を想起しやすいが、本来的にはそこに住む人々への関心が含まれているはずである。被爆に即して言えば、被爆者やその家族などの痛みや苦しみが時間の経過のなかでどう変わったのか、そうしたことに社会としてどのように向き合おうとしたのか、被爆の歴史を世界に向けてどのように発信しようとしてきたのかといったことが何らかの形で含まれていると考えてよい。第二に、以上のような前提に立っているのであれば、「復興の歴史」という表現で果たして十分か検討する必要がある。日本語としてはさほど問題がなくても被爆遺構の存在は世界に向けて発信される必要があり、その際、復興という言葉に対する的確な翻訳ができないという問題に直面することになる。通常、復興はrebuilding、reconstruction、recoveryなどの訳語になるが、これらは上記のような含みを持たせた単語としては理解されにくい。

○類型化については、浦上天主堂旧鐘楼と山王神社二の鳥居の二つを「信仰」で括ることに違和感がある。また、旧長崎医科大学門柱は、「平和と医学」となっているが、「恒久的な平和と医療・医学」というタイトルに変えることを提案したい。

○整備期間と目標については、復興の歴史をもう少し書き込んでもよい。例えば、「被爆遺構は、被爆と復興の歴史を物語る「もの言わぬ証言者」」とする。

○短期・中長期課題については、それぞれの遺構について、社会的・歴史的なバックグラウンドに関する調査を入れておいた方がよい。浦上天主堂旧鐘楼と山王神社二の鳥居には該当項目がなく、少なくとも中・長期課題として入れておいた方がよいのではないか。例えば、浦上天主堂旧鐘楼については文献調査、山王神社二の鳥居については地域調査ないし民俗学的調査を入れておいたらどうか。

○原爆遺構の史跡指定に際しては、この史跡そのものや被爆の歴史を世界に向けて発信していく必要があると同時に、現在の私たちが被爆や核問題に真剣に向き合う姿勢そのものが将来にわたって継承されるよう発信の仕方を考えていく必要がある。そのためには、長崎への原爆投下と被爆、そしてその後の復興をめぐって私たちが考える際に前提となっている知識や認識をきちんと言葉にして伝えていく必要がある。言葉として伝えるには、歴史的な根拠に基づいて実証的な説明を作りつつ、他方で被爆や核問題に対する考え方を論理的にまとめる作業が必要になる。このような、私たちが普通に考えていることや考え方そのものの継承のためのある種の点検作業をこれを機に考え始める必要がある。

会長

副会長から寄せられたコメントを出していただきましたが、大綱としては皆様、基本的には大体同じようなことだろうと思います。

そこで、今度は短・中期にどうするかという具体的な部分に入っていかなければなりませんが、私自身はこの文章の中で、なぜ70年経った今になって文化財指定なのかというところが大事な部分だと感じています。国においてもなぜ今さらなのか、もっと早くしてよかったのではないかといった意見はあると思いますので、これが70年という年月を経た蓄積の中で熟考したものであるという形で、これは絶対に推してもらいたいと思います。

委員

70年というのはひとつの節目ということで強く言及したほうが一般の市民の人々も受け入れやすいのではないかという感じがします。それから、今、核になって動いているのがこの原爆資料館で、ここには全国からお見えになった人たちがいろいろな意見を述べていると思いますので、それらをもう一度ひも解いてみれば参考になることがいっぱいあるのではないかという感じがします。そういうものを根拠にした作業も、一部は進めておいたほうがいいと感じます。

委員

確かに原爆資料館にもっと大きな機能を持たせて、より拡大して動けるような形にすべきだと思います。その面ではぜひ事務局にもお願いしたいし、当然、これは私たちにも課せられた問題だと思っています。どんどん増やしていって、原爆のことについて全てを集約する。例えば、図書館ではなく原爆資料館に行かなければわからないというくらいのことを是非やってもらいたいと思います。地球的規模で収集を図るくらいの形でやっていただきたいと思っています。

委員

調査方針の中の復興の歴史というところで特に注意しなくてはならないと思うのは、歴史の文脈において当初から復興の象徴としてこの遺跡を残そうという目的があったわけではないという点です。長崎市の場合は、旧市街地と言われた所から復興の政策が取り組まれていきますので、むしろ復興の着手が遅れた爆心地一帯の浦上地区が残り、地域住民がある意味、自力復興する中で残ってきた遺跡たちです。それぞれ時代の中で取り壊されそうになったりしながらも地域社会の中で支えられてきた一つひとつが歴史を持っているところをもう少し丁寧に追っていく必要があると思います。地域社会で支えられ奇跡のように残ってきたからこそ、70年の重みをもっており、重要です。ですから、残されるに至った歴史的経緯を掘り起こし、記録に留めることを今後の計画の中にぜひ入れていただきたいと思います。

委員

山王神社二の鳥居の場所を見たときに、地域の生活の中に溶け込んでいる被爆遺構ですので地域住民の生活に支障がないよう配慮が必要なところはありますが、電線がかなり張りめぐらされている中に鳥居があるのをどう考えていくかについても景観調整の視点で検討していただければと思いました。

会長

長崎市は、街のいたるところに文化財があるという全国的にも特異な所ですので、文化財の保存、継承には積極的に取り組んでこられたと思いますが、今のご指摘のような対策は文化財全体を対象に市の中で進めていくということはあるのでしょうか。

事務局

電線の地中化は、全般的に取り組んでいる状況はあると思います。特に伝統的建造物群保存地区に関しては優先的に取り組んでいるし、既に行なっているところありますが、工事等には相当な費用もかかりますし周辺との調整もありますので、一定の時間もかかってくると思います。その中で、被爆遺構に係る区域に市の電線地中化の計画が具体化してきた場合は、できるだけ優先的に調整を図るようお願いしていきたいと思います。

会長

事務局の調査の説明のなかで、城山国民学校を戦後、引揚者の方の住居として使用したということがありましたね。我々が小さい頃、被爆した浦上地区に50年間草木は茂らないと言われ、そのように我々は受け継いできて実際にはそうではありませんでしたが、このようなものは後から出てきたデマなんでしょうか。

事務局

70年草木が生えないとか、そのスパンについては先ほど言われた50年、70年、75年と諸説ありますが、原爆被爆後すぐの時点ではもうこの地域には草木も生えないから復興は絶望的だというようなことはずっと言われていました。それが地域全体に復興の意識が広がる一つのきっかけになったのが、永井博士がこの地域でミミズや虫が生きているのを発見し、それを手記等に書かれたり、山王神社の被爆した大楠が1945年末ごろに少し若葉を芽吹き始めると。その地域の中で戦後すぐ行き場がなかった浦上地区の方たちは、防空壕とか廃材を集めた家にお住まいになっているので、当然、この地域で生きてきたわけですが、一旦焼けた木がまた芽吹いたり、焦土と化した地中からミミズが見つかった。そういうものがだんだん広がっていって、その翌年にはもう70年、75年、50年不毛説というのは、次第に地域では拭い去られていったのでしょうけれども、全国的に見ると不毛説の報道の後、進駐軍が来てプレスコードがかかる中で原爆に関する報道が一定制限され、長崎の実状が全国に広まっていかない状況の中で、地域と風評のギャップというのはやはりあったと思われます。

委員

今回は期間も限られていますので、この4件の遺構に絞ってやっていく必要がありますが、当初、私は中期、長期ではなく将来的な考えとして、原爆資料館と爆心地を核にこの地域全域にバリアを張ったような屋根のない博物館、いわゆるまるごと博物館というものが将来的に構想として挙がってこないのでしょうか。

事務局

まずこの被爆遺構4か所がこのような方針に沿った形で文化財として指定になり、また他にもいくつか候補が出てくれば、次の中・長期、あるいは将来的な段階として、この地域全体をどう考えるかというのはもうひと段落あるだろうと思います。それは一定時間を経過する中でこの地域に集中的に残っているという状況であれば、そのエリア全体をまた別に括るのか。ただ、これはもう一つ次の段階で、長崎市の都市計画も含めた大きな枠組みの中で今後考えていくことになると思いますので、そのときはまた新たな委員会をつくって考える時期がくると思います。ただ、今現在はその第一歩としてこういった4つの案件が出てきているという認識を持っておりますので、将来的なエリアでどう考えるかというのは議論が必要だと思っております。

委員

わかりました。城山小学校のあんなに僅かな発掘面積でこれだけ情報が富むわけですから、調査というのはすごいですね。城山小学校で経験されたような事前の準備とその結果を踏まえて、他の3件についてもそのような結果が得られるような、それこそ遺跡にものを言わせるような調査を今後続けてほしいと思います。だから、城山小学校は大成功です。恐らく今後のいろんな調査の参考にもなると思います。だから、ひとつは人文学的な目だけではだめで、そこに科学的な目も入ってこなければ総合的にその資料を生かすことができないのは、歴然とした結果だと思います。

会長

委員はコンクリートの調査をされましたが、この中で例えば、山王神社の鳥居、あるいは医学部の石柱を類似したような形で、コアは取ることはできないでしょうけれどもいわゆる観察という形では、どのような調査が今後考えられますか。

委員

例えば、門柱ですと現状の傾いた状態で倒れることなくあの角度で留まっているというところも重要な部分になってくると思います。そこでいうと、コア抜きとかそういう材料的な変質というよりも、台座と上の門柱部分の隙間や基礎の状況、衝撃波・爆風がどういうもので、その結果、あの構造がどういう状態だったからこうなったという衝撃波・爆風の影響を受けての現状をより詳しく掴んだうえでそこの解釈を深めていくことが重要で、それは二の鳥居にしても旧鐘楼にしても同様にできていくと思います。材料の面でいえば、どれもコンクリートや石でつくられたもので共通した考え方でやっていけると思いますので、城山国民学校校舎のより詳細な調査とともに他の3件についても同様の考え方で進めていけるのではないかと思います。

会長

ただ今の委員のご意見を伺って事務局に今後の要望ですが、同じように浦上天主堂旧鐘楼について、錆が今後どのように進むのか一度金物を扱う科学者の人たちに見てもらうことも必要だと思います。風化や今よく言われる酸性雨への手立てを今のうちにしておいたほうがいいのかという問題はあるのではないかと思います。これはぜひ進めていただきたいと思います。

委員

あの鐘楼にかかっていた鐘は、現状どのようになっていますか。

事務局

諸説ありますが、浦上教会には鐘楼のドームが2つあって、その片方に鐘が2個かかっていたという証言と、それぞれにひとつずつあったという証言があります。その一つは現在使われている鐘で、もう一つは割れて鳴らせる状態ではなく浦上教会の資料室にあり、2つの鐘は現在も存在しています。

委員

音楽の専門家に頼んで音色も分析してもらったらおもしろいかと。鐘楼の項目の中では、その鐘はどこでつくられたのかというようなことを恐らく文化庁が聞くのではないでしょうか。ちょっと青銅を分析することによってまたその鐘からもいろいろな情報が引き出せます。

会長

浦上天主堂の文献はないのでしょうか。もう全部なくなってしまっているのでしょうね。

事務局

浦上天主堂の被爆当時の文書というのは、やはり焼けてほとんどありません。もっと原爆以前の記録というのは、浦上天主堂がカトリックとしては長崎では古い歴史を持っていますので、長崎純心大学に記録が残っていたり、浦上教会自体も持っていますし、全国に散らばって保存されているのもあります。

会長

文献資料については先ほど説明がありましたが、人は体験したことも時間が経過すると忘れてしまうとか右にあるのが左にあったとかいうような記憶の変化も多いものですから、その辺の検証は先ほど委員が言われたように是非やってください。とにかく、ソースは核心のところから取ったほうが一番いい。遠くなるに従って次第に曖昧になってくるということで、これは重圏論と学問的には言っています。いわゆる投石で生じる水の波紋のようなものです。その時に一番核心で取ったほうがより事実に近いと言われていますので、どこで取っているソースであるのか把握して行ってください。ただし、間違いもまた事実です。時間の経過に伴って間違いも出てくるので、間違いも記録しなければなりません。間違っているからこれはだめだということではないのです。何でも全て記録することが必要なのであって、現時点で私たちが取捨選択してそれだけを後世に残そうというようなことを考えてはならない。そのことは、事務局も私たち委員も肝に銘じなければならないことだと思います。

委員

調べて史料にたどり着けないときは、ここまで調べたが資料がないということを正直に書いていいと思います。現時点ではまだ史料にたどり着けないということを書けば、それでもう立派な調査になりますので、よろしくお願いいたします。

会長

浦上天主堂についてですが、宗教的な施設を例に取った場合に、土地などを購入するときは全て信者からお金を集めて賄う例と、本部とか総本山からある一定のお金が出て、それに信者から集めたお金を加えて賄うという例が結構ありますが、浦上天主堂の場合はどうなのでしょうか。

事務局

今は情報を全く持っていないのでなんとも言えませんが、浦上天主堂に関しては、信徒の方々がもともと庄屋屋敷だったところを取得したと言われております。その裏付けとなる資料というのは私もまだ調査したことがありませんし、見ていないのでわかりません。

会長

そういうものも含めていろいろやっていただきたい。いま一つは、城山小学校運動場の荼毘に付したと思われる場所のあたりで一見焦土風に見えた土の層です。焦土には間違いないのではないかと思いますが、これももう少し具体的な調査を事務局で検討していただきたい。荼毘の跡でないのなら、なぜあのような現象がみられるのか全くわからなくなってきたという感じですね。強い熱を受けているというのが、どれくらいの熱を受けているのかわからないし、極端に言えば、後にそのような現象が起こるような何らかのことが起こった可能性もあるのか、それはいかがですか。

事務局

昭和21年に引揚者の住宅をつくったときに運動場に畑をつくったという経緯があり、それがどのような状況だったのかきちんと一度検討したうえで、本当にあの場所で正しかったのかもう一度文献調査から考えてみます。運動場の何らかの部分にそのような畑の痕跡があったかもしれませんので、もしかすると実は荼毘の跡とは違うのかもしれないというところをもう一度考え直したうえでもう一度あの層を掘りなおすというところも必要だと思います。報告書にも、焼けたものであるのは恐らく間違いないだろうと業者も言っていますが、それが何なのかについては実は殆ど何もわからないというところです。ただ、被爆写真の場所からあそこが間違いなく骨があったであろうという場所を掘って、その結果のとおりにはなっているので、火葬の痕跡であろうとは思うのですが。

委員

土壌分析結果にアルミニウムの記号が出されていましたが、アルミニウムがあったのですか。それがいわゆる城山小学校の運動場を構成する土壌の基礎的な元素なのでしょうか。

事務局

そうですね。色によって、白、黄色、褐色、赤褐色、黒色という5つの箇所をサンプリングしておりますが、全箇所に対して、アルミニウムが2割程度、ケイ素が7割から5割という割合で入っており、色によって鉄とか銅の含有量が少し違うようですが、主要な部分に関してはアルミとケイ素で約9割くらい構成されているのがわかっています。

委員

アルミニウムは、人が歩くことで足の裏に付着して持ち運びできる元素でもあります。だから、アルミニウムが確認されたということは、そこに何らかの形で生活の場があったということです。ただ単にその構成する元素だけではなく、生活の痕跡としてのアルミニウムもあるということが分析の結果出ていますので、それは少し用心して見なければいけませんね。特に、古い遺跡などで物が出てこないと、人が住んでないと。いわゆる無遺物層といいますが、本当に無遺物層なのかどうか。それは結局、アルミニウムの元素を調べることによってわかります。アルミニウムが出てくると、足の裏に付着して持ち運びもしますから。ものは出てこないけれども、生活の場であったということは間違いない、というような元素の見方がありますので、今後また何か調査するときはそういうところも注意して見られたほうがいいですね。

会長

あの層は、今の地面から何十cmくらい下ですか。

事務局

20cmくらいです。

会長

まあ、妥当なところですかね。しかし、今後もう一度掘削調査をするのであれば、学校をつくってグラウンドを整備したときのグラウンドの最初の面をつかめないといけないでしょうね。少し気になり始めたのは、ほかの影響でそういうことが起こっていないかどうかです。これは確認する必要があります。もしかすると、それより下に、例えば、原爆被爆を受けたときの土層があるのかもしれない。それはどうですか。掘りましたか。

事務局

かなり掘り下げたところで、やはりこれ以上はもう何もないという地山を1区も2区も同様に見つけておりますので、30数cmよりも下は恐らくないだろうと思います。

会長

写真で見るとあれだけ遺骨が散乱しているので、微細な骨片みたいなものがありそうな気がしましたが、なぜ無いのでしょうね。まさか、ふるいにかけたわけでもないでしょうし。

委員

酸化現象でカルシウムが消えるのでしょうか。貝塚は五千年とか残りますけれどね。残っているものから何らかの形でそういう情報が全部引っ張り出せるから、やれる分だけやったらいいですね。逆にそれを比較して、今度は別の地点の昭和20年代の地層で土の分析比較をしてみるとおもしろいと思います。被爆したところはこれだけの元素しか確認できないけれども、被爆していないところはこれだけあるということなどを調べてみるのもおもしろいですね。

会長

とにかくこれは、やるべきことはまだたくさんあるという気はしております。城山小学校の場合は、この短・中期のかなり具体化した形で出てきていると思います。浦上天主堂を含む3件につきましては、まだまだ今から始まると。この3件について、委員の皆様からご指摘等はありませんか。

委員

山王神社二の鳥居の裏側のアパートについても、やはり復興した形でアパートというその群の日常生活の中に鳥居が現存しているのは、70年前にしてみればちょっと困った景観だなということですが、復興した形ではあのような形になってきている。しかし、やはりそれは植樹をするなりして見やすいような状況はつくらないといけないとは思います。それが非常に難しいのは、そこに長崎市民が生活をしていて、そういう人たちが遺跡を残してくれるわけですから理解を求めなければならない。そういう努力は、今から大変ですよね。

会長

先ほどの副会長のご意見で、「浦上天主堂旧鐘楼と山王神社二の鳥居の二つを、現在のような形で「信仰」として括ることには違和感がある。これは、日本の神社と氏子の関係を「信仰」と呼ぶことへの違和感から来ている。」というご指摘がありましたが、具体的に言うとそうかもしれませんが、事務局がつくっている中では信仰する対象としていたという意味で、いいのかなという気もしないではないです。そのように宗教や信仰が中心の話になってくると、今度は仏教遺跡もどこかないのかという感じになってきますから。

委員

副会長は、浦上天主堂旧鐘楼は宗教的な形で言われているのでしょうか。信仰の対象には間違いないですよね。日本人は言うならば一神教でなく多神教だから、別に何も違和感を感じないと思いますが、こういうことも海外に情報を出したときにはまずいのかな。

会長

確かに国際的な視野でやっていかないと、実際には世界では全く通用せず日本だけで通用するということが結構たくさんありますよね。今は日本の人たちが海外に行って帰ってくるのは隣に遊びに行くような感じになりましたから、その辺は見ておかないと大変だという気はします。だから、言葉には確かに日本だけで通用する英語とかありますよね。

委員

そこは気を使わないといけないでしょうね。これは副会長が言われておりますように、「復興」という言葉に対して、日本ではストレートに「復興」で通用するが、英語にする場合にいろいろな直し方があってそれによって意味が違ってくる。特に英語などに直したときにどうなるのかは、事務局としても考えておいたほうがいいのではないでしょうか。

会長

今後、外国語を使用するときは注意しなければならないことが出てきます。先ほど事務局が説明の中で「生き残った者」と言われましたが、この言葉は日本語的にどうなのでしょうか。被爆者の間でも原爆から生き残ったというのでしょうか、それとも生存されたというのでしょうか。

事務局

ケースバイケースでいろいろな表現が出てくると思いますが、その状況に応じて、例えば被爆者の方々と海外でいろいろなメッセージを出すときには"survivor"、"atomic survivor"という表現で、「生存者」と漢字表現します。やはり「生き残った者」となるのですが、表現の度合いとして「生き残った」という表現は少し強い、聞いた方にはちょっと誤解される場合もある。だから、被爆者とかそこでの生存者という感じに直したほうが一定のニュートラルな感じで受け入れられると思います。

委員

12月上旬の新聞記事に、アメリカのマンハッタン計画の施設3か所が国立公園に指定される準備が進んでいるということが書かれていて、その中に長崎の反応も書いてありました。だから、アメリカの施設はそうやって今度は相反する形で国立公園になる。もう一方では、それに対抗するわけではありませんが、国の史跡として認めてもらう。その意義の大きさというのが二つを対称にあるのではないかという感じはします。

会長

今後、報告書と、それから意見具申書等の作成に入っていくわけで、そういう中で入ってくる問題でもあるのではないかという気はします。

ほかにご意見はありませんか。ないようですので、これをもちまして委員会を閉会します。

お問い合わせ先

総務部 行政体制整備室 

電話番号:095-829-1124

ファックス番号:095-829-1410

住所:〒850-8685 長崎市魚の町4-1(9階)

アンケート

アンケート

より良いホームページにするために、ご意見をお聞かせください。コメントを書く

観光案内

平和・原爆

国際情報

「行政運営・審議会・指定管理者・監査」の分類

ページトップへ