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平成26年度第1回長崎原爆遺跡調査検討委員会

更新日:2014年12月8日 ページID:026238

長崎市の附属機関等について(会議録のページ)

担当所属名

原爆被爆対策部被爆継承課

会議名

平成26年度第1回長崎原爆遺跡調査検討委員会

日時

平成26年9月1日(月曜日)14時~
平成26年9月2日(火曜日)9時30分~

場所

長崎原爆資料館2階会議室

議題

9月1日
1.[報告事項]
文献調査実施状況について
長崎原爆遺跡現地視察
9月2日
2.[審議事項]
今後の調査の方向性について

審議結果

9月1日
1.[報告事項] 文献調査実施状況について
現在実施中の文献調査について、受託業者からスライドを用いた説明を受けた。

現地視察
城山小学校において旧城山国民学校校舎及び第一次確認調査の掘削調査現場を、浦上天主堂において旧鐘楼を、長崎大学医学部において旧長崎医科大学門柱を、及び山王神社において二の鳥居を視察した。

9月2日
2.[審議事項]
今後の調査の方向性について

【事務局】
<城山国民学校の第一次確認調査について、スライドを使用して説明>

【委員】
今のところ限定的な焦土の確認がなされていますが、将来的には掘削範囲を計画的に広げる予定はありますか。

【事務局】
今回、小学校の夏休みという限られた期間の中で部分的な調査をさせていただいて、焦土層と思われるものが確認されております。サンプリング調査でこれが焦土層であるという確証が得られたら、一体どの辺まで焦土層が広がっているのかということについては、今後スケジュールの関係もございますが、遺跡としてどのような位置付けにあるのか、どのような変遷がたどられたのかということもひとつの重要な要素ではないかと考えておりますので、できるだけ調査の範囲を広げていきたいと考えております。

【会長】
いわゆるカーボンが分布している状況というのは、平面的に見てどういう形態をしているのですか。例えば、不定形なもの、あるいはきちんとした形を持ったものですか。

【事務局】
校舎に近い側が濃度が非常に高く、校舎から離れるにつれて薄くなっていくということがわかっております。
そして、校舎に近い部分と別の箇所に濃度が高い部分、切り離された部分がありました。ただ、形に関しては、掘削調査の範囲の中で見ることができませんでした。

【会長】
他にございませんか。お気付きの点がありましたら、その都度お願いします。昨日、本日審議することとしたものが大分ありましたので、今からそちらを含めた形で進めていきたいと思います。
まず、昨日の事務局の説明について、ご質問等はございませんか。

【委員】
今進めている調査の状況を確認しておきたいのですが、昨日、文献調査ということで新聞記事の関連するものはピックアップしてきたところであるとのご報告を伺いましたが、現段階で文献調査として事務局が計画していること、あるいは進んでいることがあったら教えてください。

【事務局】
現在進めておりますのは、新聞に関する文献調査と併せて、城山小学校の卒業記念や何十周年記念という形で出された記念誌がございます。このような記念誌の中に載っている学校でのいろいろな出来事や歴史的なものは、城山国民学校のこれまでの変遷を知る上で基礎になるものだと考えており、そのような文献調査も並行して進めているところです。
昨日、私どもの受託業者からご報告させていただいた新聞の調査については、長崎の場合、昔の新聞が長崎県立図書館の郷土課という限られた場所にしか資料がない状況でございます。そこにずっと張り付いて調査していますが、資料の検索から吸い上げ、それから一定のとりまとめをして進めております。
この資料につきましては、まだこれからもっと中身を深めていく必要がありますので、集まった基礎資料については、他の資料と合わせた形で、いろいろな流れの中で、前後関係をさらに深めていかなければならないところも出てくると思いますので、その辺は要素としてずっと集めていって、しっかり経過を押さえることで、城山国民学校の被爆校舎として残された変遷も含めて情報を集約していきたいと考えております。

【委員】
城山小学校の被爆後の学校要覧は、何年ぐらいから残っていますか。
必ず学校要覧というのが毎年出るはずですが、恐らく戦前の分については原爆で焼き尽くされているんですよね。だから、被爆後の一番最初の学校要覧というのは、学校に関して詳しい記述がなされていると思います。それを探し出すことが必要ではないでしょうか。

【事務局】
学校要覧というのは、各学校で特異性も踏まえて出されておりますので、学校要覧の古いものからずっと当たっていこうとしているところですが、私どもが今、現在把握しておりますところでは、城山小学校の50周年誌、60周年誌があるのですが、例えば30周年誌などのような古い分がなかなかなく、現在わかっている部分から年表をずっと遡っていったりしているところです。今、調査した中では図書館にはありませんでしたので、調査や収集の範囲を少し広げて、この委員会などがマスコミで報道される中で、持っている方からご提供いただいたりということも期待しているところではあります。
ご指摘の学校要覧については、城山小学校が原本として保存しているものがどこまであるかについて、学校に行けばご指摘の分が一番の資料としてあろうかと思います。
城山小学校は非常に甚大な被害を受けて、昭和20年は稲佐国民学校のほうに仮住まいして卒業式をしたいう記録もあるようでございます。
また、長崎の原爆については、ご承知のように「長崎原爆戦災誌」という原爆被爆対策部と原爆資料館の前身になるところがまとめたものが一番の基礎資料になる中で、当然、城山国民学校、長崎医科大学、浦上天主堂、そして山王神社については原爆の悲惨な実相の中でも中心となる部分でございますので、原爆戦災誌の中でもかなりのボリュームの記述がございます。こういったものが、一番の基礎資料になると考えています。
あるいは長崎大学医学部では、医科大学の原爆被爆の実相といったものを医学部として取りまとめたものもございます。それから、浦上天主堂、山王神社でもそれぞれそれ行政が取りまとめた以外に、被爆体験記等でそれぞれの場所についての記述というものもございます。こういったものを被爆継承課のほうで活用し、調査、基礎となる部分の中に取り入れていくべきものと考えているところでございます。

【委員】
わかりました。学校要覧は、新聞と同じようにマイクロフィルムか何かに載せてもらったらいいと思います。

【委員】
さきほど校庭における火葬の調査の状況が出されましたが、その当時混乱している中における葬送儀礼というのも調査がうまく進んでいけば見出せるのではないかと思います。
混乱期の中において、恐らく、日本人というのは精神的にきちっとした形で葬送儀礼を行っているのではないかと思われます。そういうところがあの遺跡から見えてくれば非常にいいと思います。荼毘も混乱の中でも整然とした形でしていると思います。そういうことは今の子どもたちに伝えておくべきだと思いますので、できればそのようなことが解明できる精度で調査をしていただければと思います。

【事務局】
葬送儀礼というような形で、亡くなった方をどう祭っていくのか、お別れを言っていくのかというような形で、長崎原爆資料館の常設展示で被爆者の方々が描いた代表的な絵の中に「悲しき別れ」という荼毘に付したときの絵がございます。これは、原爆で亡くなった少女に振袖を着せて、当時ですから廃材だと思うのですが、その木で井桁を組んで火葬に付している絵です。
また、被爆者の証言の中には、荼毘の状況について当時の混乱した状況の中でもかなり手厚く葬ったという趣旨の記録も残っております。
城山小学校の遺構の中で、それがどれくらい現実に表現できるのかについては、これからの調査の流れや方向性についてアドバイス等もいただきながら確定できればさらによろしいと思いますので、それは準備を進めていきたいと考えております。

【委員】
遺跡に物を言わせてほしいと思います。それは実物そのもので、被爆者の伝承もそれで裏打ちできるわけですから、残されている遺跡が物を言えるような調査のデータを出してもらいたい。

【会長】
ほかにも、今後の調査の方向性という形でいろいろと具体的なご意見が出てくるかと思います。そこで、委員の皆様に遺構を見ての考えや感想をお願いしたいと思います。

【委員】
私の専門が構造工学とかコンクリートになりまして、城山国民学校の被爆校舎を見させていただいて、戦前に建てられて被爆の影響を受け、その後も使い続けられてきた変遷の中で、どこがどう改修等されたのかもう少しはっきりした方がいいと思いました。
いろいろな情報を見ていると、見学者が誤解して情報発信しているような部分もありますので、今後、見学者の方が被爆遺構としての理解をきちんとした上で見ていただくために、どこが被爆の影響を受けた部分なのか明確にしたり、平和記念館として現在使われておりますので、今後の安全性の面で構造的や材料的にどうなのかもう少しきっちり調査できたらいいと思います。
また、城山小学校では、今週から掘削調査している2区のところで、後々の詳細な調査の計画を立てる上でも、概要をつかむ調査の中で将来的な調査につながる基本的なところは、今週中にでもきっちり押さえておくようにしていただければと思います。

【委員】
気になった点は、遺跡が所在する地域からの支持が得られているのかということです。
例えば、城山小学校では子どもたちが駆け回るグランドを掘り起こしていく作業になるかと思うのですが、その際に何か危険性があるのではないかと懸念を持たれるようなことが、今後の調査において発生しないかということです。我々が調査を進めていく上で、ご理解をいただいていく市民の方々、生活者の視点というのをどのように検討していくのでしょうか。
浦上天主堂についても、信徒の方々が祈りに行く場で調査するということをどのようにご理解いただくのでしょうか。
昨日現地を回りながら非常に重要な点だなと思いました。この点をまず質問します。

【事務局】
長崎原爆遺跡の調査への理解につきましては、特に城山小学校は長崎の中で原爆についての教育が最も頻繁に行われている学校の一つだと考えております。
長崎市が主催しております平和祈念式典は毎年8月9日でございますが、城山小学校は被爆後の学校教育の中で児童に学校の被爆の歴史を教え、慰霊の心を持ってもらうということで、学校独自の平和祈念式典を毎月9日の朝から行っております。
そのような中で地域の子どもたちは育っておりますし、地域に根づいて生活しておられる大人たちも、そのような経験の中で大人になっておりますので、特に城山小学校の被爆校としての意識は、非常に高いものがあると考えております。
そうした中で、今回の原爆遺跡の調査についても、被爆校舎の公開にご協力いただいているボランティアスタッフのほとんどが地元の方で、中には城山国民学校のOBや城山小学校のOBという方もおり、今回の調査に関してもかなりご理解とご協力をいただいているところです。
私どもは学校の授業にご迷惑をかけないように学校、地域と調整をしながら、夏休み中に、8月9日を避けた形でまず一定の確認調査を終えるように進めさせていただきました。
他に原爆遺跡で大きい所では、浦上天主堂の旧鐘楼がございます。元々、浦上天主堂はカトリックの信徒の方たちの祈りの場、集う場ということでつくられた教会でございますので、調査の実施や重機の使用などについては祈りの邪魔にならないよう、教会関係者の方々と今後も協議しながら進めさせていただきたいと思っております。
現在まで、調整やご相談をさせていただいている中ではご了承やご許可もいただいておりますが、今後は、どのような機械が入ってどれくらいの音が出るのかといったことも具体的になってきます。その中でまた調整させていただいて、ご迷惑にならないように地域と一緒に遺跡を保存・継承していかなければ本来の文化財としての意義が薄れてしまいますので、皆さんの文化的財産というのが、極端に言えば市役所だけが推し進めているものだというふうにならないように取り組んでいきたいと考えております。

【委員】
長崎の被爆遺構には、広島の原爆ドームとはやはり根本的に違う部分があるということを強く感じました。それぞれの遺構がこれまで生活の中に存在してきたし、今でも生活の中にあります。その生活というのは、学校の生活もあるし、祈りの場という部分もあるし、街角であったりもします。その生活の場に、そうした遺産がこれまで70年近くずっと存在してきていて、もちろん開発の中でなくなった部分もあるでしょうし、あるいは一所懸命守ろうとした部分もあるし、あまり見たくないと思う部分も多分あるでしょうが、そういう部分もひっくるめて生活の傍らにそういうものがあったと思います。
もちろん原爆ドームも、言ってみれば確かに生活空間の中にあるのですが、やはり場所として隔絶されたところがあるわけで、それとは違うアプローチになっていくのかなと昨日は強く感じたところです。
これは「今後の調査の方向性について」という議題とも絡んでくるのですが、地域の中にある、生活の中にあるというのを、まずその調査や工事など、非常に現実的な問題としてこれからどのようにやっていくのか、これは必ず問題になると思います。
同時に、生活の中にあったという歴史をどう考えていくのか。それは生活空間とは切り離された、どこかに冷凍保存されてきたようなものを我々は前にしているのではありません。今までその遺跡を前に住んでいる長崎の人たち、あるいは長崎を訪れる人たちは、それを前にして何か考えたり、考えなかったり、見たかったり、見たくなかったりもしますが、そうした様々な向き合い方の積み重ねが、今、長崎で核問題を考えていく、長崎とはそういう場所であるという通念を支えているのだろうと思います。
そういう部分もひっくるめた歴史として、我々はどう受け取っていくのかという問題があります。それから将来的な事を言えば、一体これからそうした遺跡をどう考えていくのかという問題もあります。つまり、生活の中にあるということの重要性と、保存・保全をしなければいけないという問題と、その両方を視野に入れたときに何ができるのか、これはかなり難問でもあって、例えば今は何ができるかという問題と、10年後、30年後、100年後に何ができるのかという問題があります。何ができるのかというのは、長崎に住んでいる人たち、あるいは長崎を訪れる人たちが100年後に遺跡を前にした時にどういう行動をとれるのかということとも絡んできます。
例えば、運動として何か支えようとしている人たち、そういう動きがそれこそ10年後、30年後、100年後にあるのか、その時の運動の強さはどうなっているのかというような問題も絡んでくると思います。
生活の中にあることをどう大事にしながら、ある面ではそれに過度に依存しないやり方をもう一方で考えなければならない、その両面を見なければいけないということも考えました。
簡単にまとめますと、生活の中にある遺跡というものに我々は直面しているということと、その遺跡を前にして物や工事の騒音みたいなものも含めて、どう対処していくのかということと、歴史をどう受け取るのかということです。また、今後生活の中にどのように位置付けることができるのかということを考えていかないといけないと思います。そのあたりを昨日は強く感じました。

【委員】
8月9日を境にその前と後の歴史が一見してわかる遺跡群という感じがしております。それが、今日の生活の中に溶け込んでしまっている。時間がその後70年近く過ぎていますが、まだまだ確実に物を言う、そういう遺跡が残っておりますから、もう一回見直して細密で十分なデータを求めることのできる調査を進めてほしいと思います。
私は発掘調査のときによく言うのですが、調査をして物を動かした場合、またそれを元の位置にきちんと戻せるような調査にすることです。どんな調査でも手を加えたら、全てそれは破壊と同じです。しかし、逆にその調査がまた元に戻せる調査であれば、破壊にはつながらないので、復元可能な調査を心がけてほしいと思います。昨日見て回った4カ所はそういう意味で全てに手がつくし、また元に戻せるのではないかと思います。医科大学の門柱一つにしても、あの地中にもっと細かなデータがあるはずです。限られた時間ですが、その調査をやってみたら過去と今日というのが明確にそこで仕分けができるのではないかという感じがします。
それから、浦上天主堂に行ったときに、落下した鐘楼の周りの石垣に注目するとコケむして同じようになっていますが、3通りの継ぎ方がありました。恐らくあの中に8月9日以前の石垣と8月9日以降の石垣があると思います。それも一つの歴史です。できればその環境まで調査してほしいと思います。
そういう意味で、城山小学校の火葬跡はデータとしては非常に限られたものかもしれませんが、最少のデータから濃密な結果を生みだすような調査をしてほしいと思います。
2次的、3次的ないろいろな活用に対応できるような調査をぜひやってほしいという感じがしました。
やはり現地を見て、よく残っているという感じがしました。これをまた次の70年後に残すべきで、そのような起点が今年から来年にくるのではないかと現地を見て感じました。
長崎には何か心するものがあります。長崎に足を運んであのような現地に行ってみたら、なるほどと言えるような調査の結果をお願いします。また、できたら我々自身も努力して目指していきたいと思っています。

【会長】
最後に、私の専門の立場からお話しします。
まず、遺跡という限り、どの範囲までを遺跡として見るのかということを今後決める必要があります。それは、今後の調査の方向性にも関わってくると思いますが、私自身は城山小学校が存在する高台、少なくともあの台地及び斜面を含めたところを旧城山国民学校の遺跡という形で捉えたらどうかということです。
その中には防空壕があります。また、荼毘に付した遺骨はその後どういう形で処理されたのか、全て遺族が取りに来られたわけでもないでしょうから、無縁仏としてどこでどのような形でなっているのか、それらも併せて調査する必要があると思います。
次に、浦上天主堂ですが、現在の浦上教会が存在するところを遺跡として考えていきたいということです。そうすると、旧鐘楼の他に、爆風で飛ばされたものが1か所に置いた形で展示されている。このように寄せ場みたいなものをつくって野外展示という形で見せることは、比較的古い段階ではされていますが、今日においてはそこに何かを語り、それから説得させるという意味からすると、エリアとして考えた場合には今後展示の工夫をしていく必要があると思います。
それから一本柱の鳥居につきましては、山王神社との関わりを強くパイプとして持っていく必要があると思います。これについては、後の長崎大学のところでも見られますが、関わったものを現状のような形で地上に置いていていいのかどうかという問題があります。今まではそのようなことが許されたのかもしれませんが、このような会議を設置した以上は然るべき手立てをもって関わった資料や壊れた道具類をどのようにしておくかということを考えるべきだと思います。
見たときにそのままの残骸を見せるということも、それは効果がないわけではないのですが、やはりしかるべき形の保存をし、ゆくゆくはそれが活用されて展示されるような形にまで持っていきたいと思っています。
旧長崎医科大学門柱の横に置いてある内門柱も、被爆によって壊れているものですから、当然、対象資料として考えていいと思います。
だから、このようなことを 面的に取り上げて、今から 強く出していかないと、ただ単にそのものだけを見せてそれで理解しなさいというのは、関心を持たれる方には非常に難しい問題ではないかと思います。そういうところの肉付けを今後やっていきたいと思っております。

【委員】
二の鳥居の残骸をそこに置かなくてはいけないというような、あのままでいいというような状況があるのですか。

【事務局】
二の鳥居の壊れたほうの柱は、あの位置ではなく、階段の下から見て左側を塞ぐような形で地面に倒れていたのを、山王神社の総代会とも相談したうえであの位置に屋外展示というような形で移させていただいております。移させていただいているというのは、あの道路が長崎市の市道になっておりまして、その中に占有物という形で鳥居がもともと建っておりました。それを原爆の遺構を伝えるという目的で山王神社と相談したうえで当時のパーツがわかるような形で今の位置に移して、山王神社が説明板をつくられ、その後、歩行者がぶつかる懸念から更に周りに柵状のチェーンを張ってカバーしている状況です。
今の位置から別の場所に変えたほうがいいのか総代会と協議したこともありますが、総代会としては壊れた状況が1カ所で見聞できるので今の位置がベストだとのお考えでした。

【委員】
風化していく一方でもったいないと思います。何か覆いをするとか、どこか屋根の下に持っていくとか。例の高松塚でさえ壁画を外していますからね。時と場合によっては荒療治することも必要だと思います。
後々、壊れた部分だけプラスチックでレプリカをつくって、組み立ててみたらおもしろいのではないでしょうか。花崗岩だから風化が進んでいるのではないでしょうか。

【委員】
石なのでゆっくりとではあると思いますが、今立っている柱に出ている熱線の影響に比べると、倒れている柱では貴重なところが風化の影響で消えてわからなくなってしまう可能性はあります。どういう形で展示していくのが被爆遺構としての価値を見た方に伝えながら残していけるのかというのは、すごく難しい部分だとは思いますが、かなり貴重なものだとは思いますので、風化しないような手立てはしたほうがいいと思います。

【会長】
今後どうするかという、次の審議事項に関わりのあるお話が出てきましたので、もし事務局のほうから何か質問等ないようでしたら、次の審議事項に入ってもよろしいですか。
それでは、今後の調査の方向性について、何かございませんでしょうか。

【委員】
文化財指定を受けるということが、ひとつの重要な方向性ではあるのですが、そもそも文化財指定を受けることにどのような意味があるのかというところにあえて立ち戻ってみたいと思います。
先ほど、山王神社二の鳥居の倒れている柱の話がありましたが、まず文化財ということを考えていくときに、物理的な物の保全が非常に重要になってくる。そのことは絶対に考えていかなければならないし、もちろん調査もしなければいけない。ただ、時としてそれと若干衝突があるかもしれないポイントとして、遺構を支えている地域社会というものをどうするのかということがあると思います。
これは、例えば地域社会、あるいはそれを支えようとする運動そのものも続いていく必要があるだろうということです。
ただ、そこはなかなか難しくて、地域にとってこれは絶対ここにあったほうがいいからというだけで全部貫いていいかというと、多分そうはならない部分も絶対に出てきます。ただ、そこの両方はどうしても見ないといけないだろうという部分が一つあって、3つ目にこれは後々の話ですが、一体この長崎から何を発信していくのかという問題もあります。そもそも文化財というのを持ったところでその運動や地域社会というのは、いわばその場の問題であるとすれば、それを外にどう伝えるのか、そういう地域社会のある長崎のあり方も併せて伝えるという部分と、あるいは被爆者の当事者性と併せて伝えているということと、あるいはまた、核問題というある面では抽象的なことを考える人たちに対して論点だけはちゃんと発信するというように、発信というのはいくつかの水準が出てくると思います。
最近、世界遺産といったことも含めて、遺産という言葉がある種のはやりにもなっています。ただ、恐らくこの戦争の遺跡をどう扱うのかというのは、常に試され続けているわけです。
近年で言えば、遺産ということになったときに、ともするとややこしい問題とかネガティブな問題は全部なかったことにしておいて、ここはすばらしい所でしたというふうにしてしまうのが一つの流れになっているわけですが、実は戦争というのは負の遺産であるかどうかは別として、きれいだやよかったということの遺産では必ずしもありません。それをどういうふうに発信できるのかというのは、恐らくグローバルにも問われるだろうし、特に日本では、そこを今これからつくっていくというのは非常に重要になると思います。
遺構の物理的な調査というのは絶対進めなければならない話ですが、私としてはもう1点、遺構とか遺跡そのものが今までどう扱われてきたのかということを、この委員会の仕事としてもし含めることができるのであれば、調査したほうがいいと思います。
例えば、山王神社や総代会というのは、交渉相手という部分がある一方で、彼らや彼らを取り巻く地域の歴史をきちんと拾っていったほうがいいと思います。 
それは今後、相互理解をつくっていく上でも役に立つと同時に、例えば柱が残っているのはどういう意味があるのかということについて、いろいろな形でサポートできるような話が出てくると思います。
文化財を残すことは、そういうことも含めて残すということだと思います。教会にしても、小学校にしても、大学にしても、社会背景があるのでそれぞれそういう部分は持っているわけです。そこの調査というのをどうにか全体の動きの中に入れられないかと思います。長崎のそういった部分をこれからきちんと記録していかなければならない時代に来ていると思うので、先鞭をつけるという意味でも少し踏み込んでおいたほうがいいという感じがします。
いずれにしても、この中にはいくつかの課題、しかも時として衝突がある課題が入っているということを自覚しておく必要があると思います。

【会長】
もうすぐ被爆70周年ですから、現状の中に時間的な経過によって言葉が変色しているということは事実です。その中で、これが事実だというような形が、いろいろな面で隠れてしまってきている部分があるのではないかと思います。
被爆校舎に入ってわかることは、その後に補強されたのがどこなのかがわからないということです。そうなるとやはり赤裸々な形で一度、衣をはがして、そうして真の姿というのを見ておかないと、今後大変だろうという気がします。
この委員会についてご相談をいただいた時、非常に大きな問題だということを感じて、とにかくいろいろな視点で見るということでしたので、では私も仲間に加わらせてくださいという形で受けたのです。
学術研究というのは今当たり前で、いろいろな形でどんどん提案が出されながらも、時間的にも経費的にも言われることが潤沢に全部計画できるとは限りません。ですから、これは基本的に委員の皆さんご存知のように、どこまでを今すぐやるか、熟考してやるか、やがて最後にはどういう姿を描くかというようなよく使われる短期・中期・長期という形での歩み方をすべきだと思います。
だから、その第一番目にできることからやっていきましょうということで、それが先ほど事務局も言われた文献調査や学校の夏休み期間中の調査が今できることだということです。
だから、例えば、浦上天主堂の天使の像あたりの展示の仕方とか果たしていいのかと言えば、博物館学的に見るともう遅いという感じで、そのようなものは、やがてはこうするという計画を立てながらやっていく。
山王神社の問題にしてみても、理想的な計画に対してどこまでだったらできるということをきちんと出していかないと物事は進まないのではないかという気がします。個々のものを取り上げるならば、消えるものは消えないうちに証拠を残すべきですので、どういう碑文が書かれたのか拓本なりとっておく必要があります。また、山王神社境内の入口横に慰霊碑という形で転用し継承されている鳥居の柱については、いかなる学術的な名目をもってしても犯すことはできないので、すぐには動かせない。そこは神社、あるいはその地域の方たちとの相談の中で、然るべき手を打っていかなければならないという気がします。

【委員】
昨日見て回った4カ所とも一級の歴史資料だと思います。その中で被爆校舎は、早急に手をつける必要があるのではないかという感じがします。これは別の委員の領域ですが、それこそ委員の力を借りて、その部門だけで特化するような調査を早く手をつけないと、後回しになってしまうとどうなのかという感じはします。
特に、一つの節目の時期にこういう調査委員会が設置されたわけですから、何か一つだけはきちっとした形でシンボルとして残せるような調査を、後でいろいろな補修をしていますので、そのようなところを全部委員に見てもらって、ここはそのままの部分、ここは1次補修の部分、ここは2次補修の部分、ここは鉄筋を入れるべきというようなところまでペーパー的にまとめないと、今回の調査の目的が最後になって何だったのかとなるのではないかと思います。
この4つの遺跡は普通の生活の中に息づいている歴史遺産ですので、人々はそれほど緊急性というものは感じていないと思います。そのような中で被爆校舎だけは歴史的にも、耐久性においても、特異な状況下にあるのではないか。
だから、他のところは何らかの形で少しずつ手を付けて行けばいいけれど、被爆校舎に係る総合調査のために1グループつくって火葬の状況、建築の状況、その時の地域の人たちの心の探究というところまでやっていけたら、次の2次的なステップまでいくのではないかという感じがします。
だから、できれば委員に頼んで、部会でもつくってもう少し綿密に調査して強度や材質の測定をするべきではないかという感じを持っています。

【事務局】
4つの遺跡全体の文化財指定を目指しているのですが、おっしゃるように確かに遺跡それぞれの特異性が違います。また、大きさも鳥居の大きさから建屋という形で中に人が入れる大きさまでさまざまです。
その中で、今回、城山国民学校の被爆校舎については、コンクリートの専門の委員に関わっていただいておりますし、コンクリートは人工的につくられた材質ですので、劣化の度合いや全体の建屋の強度もしっかり分析しつつ進めていく必要があると考えております。
被爆校舎について何らか特化したグループをつくって調査を進めていってはどうかというご意見は、大変参考になるご意見であるので、どのような形で進めていくのか事務局で検討させていただきたいと思います。

【委員】
広島の原爆ドームの調査のデータを集めてもらって、それを参考にしながら被爆校舎の調査にも適用されたらいいのではないかと思います。広島のドームも崩壊とかいろいろな問題があると思います。

【会長】
壊れるものをその現状で止める、時間を止めるということは非常に難しいことですが、それは非常に訴えるものが強いということで、以前私も関わったことがあります。
例えば、雲仙の火砕流で被災した建物の時間を止めてしまうということです。
また、立山の現在の歴史文化博物館を建設する時に、江戸時代に長崎奉行所があった当時の石段が出てきて、県の上層部ではそれを観覧者が通って行くように構想していました。しかし、石段は半分しか残っていないので、そこに同じように石を敷いても重量が違うことでまた崩れる。それにあわせて支えを入れるとものすごく費用がかかると言ったのですが、結局工事を進め、途中で方向転換しました。そして現在は、観覧者が通ればそこだけ下がってしまうので、通さないようにしています。
だから、時間を止めるというのは非常に難しくて、お金のかかることです。しかし、やらなければならない。だからそういう面で非常に大変な取り組みだろうと思います。
特に、長崎市は軍艦島を抱えていますし、日本全国の大体ベスト3に入ってしまうほど文化財が多い所で、それにまた原爆遺跡を入れていくのですから、ご苦労は非常に察しますが、できるかぎりやれることを今やっていきたいと思います。
逆に、一旦解体してレプリカでつくってしまえば一番安くあがりますから、日本の外では実際にそのような方法をとっている例が多いです。ただ、日本の中では、相変わらず現物主義というのが博物館の中で主体を占めているからそうなります。私自身は、長い間博物館に関わってきたなかであまり現物に固執しないというやり方をしましたが、日本の中では受けません。外国の中では当たり前なのに、日本の中ではどこもレプリカであることを強調するような展示をしていません。過去のもので残っているものは貴重であるし、珍しいのですが、そのようなことにこだわらなくていい面もあるのです。
しかし、原爆遺跡というのはほかになく、他県に行って見るということはできない。だから世界が注目し、非常に重大な取り組みだという気がしています。
だから、ごく詳細なことでも今やっておかなければなりません。例えば、校舎の位置や荼毘に付した場所の証言があっても、その場所を確認しておかないと、やがて過去の記憶というのは、Aさんはこっち、Bさんはあっちという形でずれてくるのです。
一番の例が、日本の考古学のスタートになった大森貝塚です。大森貝塚について、モースが発見した当時に発掘調査した地点を確認しなかったために、現在でも標柱が2カ所立っています。10年ぐらい前に大田区が調査したところによると、どうも両方とも石碑が立っているところは違うらしいのです。こうなると、後で何となく都合のいいような形になってしまうので大変なのです。だから、的確に把握していくことをまずやる必要があるのです。
また、旧長崎医科大学門柱については、片方の門柱は動かず、もう片方は台座は動かずにその上の部分だけ動いている。何が原因でそのような偏った結果が出ているのかということを把握しておかなければならないと思います。
これまで、爆風の強さや被爆建造物の調査は多くされていますが、今までなかったような空白部分を新たに埋めていく必要はあるという気がしております。

【委員】
門柱については、基礎を元の状態に戻せる程度に掘り下げて断面を見ればどのような基礎工事がされているかわかりますし、片方だけが爆風によって傾いているのも土木工学的に計算をすれば、そこから何か出てくるのではないかと思います。だから、全然動かなかったもう1つの門柱のところもあわせて断面を後世に響かないように上手く切り取って、どのような栗石があり土があって、砂が埋まってという形のデータは出す必要があると思います。
だから、爆風によってこう傾いたというデータだけではなく、門柱の基礎工事のデータを今回出してみるべきではないかという感じがします。石3枚までは大丈夫です。もちろん柵のところは崩れますが、またもとに戻してやってつくり直せばいい。
我々は、委員会だから好き勝手なことを言っていますが、実際に苦労されるのは資料館の人ですからできる範囲があると思いますが、我々は、希望と将来的な事を考えて言っているので、現実とどうマッチさせるかは事務局でしてほしいと思います。

【事務局】
我々事務局としては、学校については長崎市の学校ですが、浦上天主堂、長崎大学、山王神社それぞれに、地域とどう折り合いをつけていくのかというお話も今ございましたが、そういったご理解をいただきながら進めていくことも非常に大切だと考えております。
一番大きな城山小学校につきましても、被爆後に被爆校舎をそのまま学校として活用してかなり長い間使ってきた中で、建て替えに際しこの被爆校舎については残したいという子どもたちの強い願いを受けて、平和資料館として残すということが決まりました。残すことが決まってからかなり補強をしたということもありますでしょうし、平和資料館として中に入って見ていただくようにする時点で、耐震等も考えた補強をしたということで、今のような形になったという経過がございます。
このように、被爆後も地域の中で学校として使われてきたという歴史がありますので、こういったことをどう評価していくのかということもあると思います。
被爆70周年という大きな節目を前に被爆の実相の継承という大きなテーマを抱える中で、この長崎原爆遺跡の文化財指定に向けた調査、原爆資料館のリニューアル、被爆者が年々少なくなっていく中で、被爆の体験を家族証言という形で、2世、3世の方に語り継いでいただく事業という3つの大きな柱で、現在、取り組みを進めているわけでございまして、全体的にしっかり進めていくということは必要でございます。
文化財指定に向けた取り組みについては短期、中期、長期というくくりの中で、それぞれ地域の方との折り合いもどうつけていくのかということの議論をこれからもまた続けていただきたいと思いますが、そういったことを我々一つ一つ受け止めて、これをどう具体化していくのかしっかり考えていきたいと思っております。

【会長】
事務局に質問ですが、今回取り上げた遺跡の中に、原爆落下中心地は含まれないのでしょうか。最も核心のような感じがするので落下地点を含めてもいいのではないかという感じがしますが、いかがですか。

【事務局】
原爆落下中心地には、一つの印として黒い柱状の碑が建っておりますが、原爆は上空約500mで炸裂しておりますので、中心部には、ほとんど瓦礫しか残っておりませんでした。その瓦礫も現在までの中で撤去されて、今のような落下中心地碑がある公園ということで、ある意味、再度開発されたものでございますから、中心地自体は、今回登録記念物となった長崎原爆遺跡の中には含まれておりません。
ただし、原爆で被災した中心地をメインのエリアとして北村西望先生がおつくりになった祈念像のある一段上の公園、それから落下中心地の公園、それから国道を挟みまして、運動を行うラグビーサッカー場があったり、陸上競技場があったり、戦後は競輪場もございましたが、あの一角自体が戦後につくられた都市公園の部分として、登録記念物エリアとして、今度の原爆遺跡とは別に全体が登録記念物にはなっています。

【会長】
分類の位置付けからいきますと、その後において平和活動をやるための平和祈念像のあるところの公園を含めて原爆に関わる二次的な資料と考えればいいわけですね。それから運動場を話題にすると平和推進のための国際文化センター設立ですよね。そういうところで認識の中には含まれていると考えていいということですね。

【委員】
文化庁は、環境を含めて史跡指定を今どんどん進めていますから、資料については恐らく城山小学校は被爆校舎とその周辺、浦上天主堂は旧鐘楼とその周辺という形で要求されると思います。だから、先ほど総合的な調査をする必要があると言ったのは、併せてそこまで含めて二次的な調査にならないようにということです。

【会長】
委員は、名護屋城のあれだけ壮大な復元をおやりになられたときの責任者でございますので、今後、長崎市が指定に向けて歩んでいくときに、現実的ないいサジェスチョン(提案)を出していただけると思います。

【委員】
半島一つが全部特別史跡に指定されています。窯跡なども窯跡本体とその周辺まで併せて指定するように言われます。だから、今文化庁は遺跡群という形で指定をしていますね。

【会長】
そうです。街並みもそうです。

【委員】
そうなのです。だから、その腹積もりをしておかないと、文化庁は城山の被爆校舎のデータだけでいいとは恐らく言わないはずです。そこに生活をしている民意という一番大事な基礎資料も含めて指定にもっていくべきだと思います。我々が最終目的にする世界平和の基礎資料です。文化庁は、恐らくそのような方向で要求するはずです。

【事務局】
一つ最初のご意見で非常に有効と思ったのは、史跡指定を目指すにあたって、まず、遺跡に物を言わせるというお話がありました。これは非常に大きな発想だと思いますし、根本において我々もそういった方向を目指していきたいと思います。
今後被爆70周年を過ぎていく中で、直接語る被爆の証言者が少なくなっていき、遺跡にどう物を語らせていくか、根本的にはそういった考えというのは非常に大事なことだと思います。
その上で何が必要かという中で、繰り返しご指摘いただいているのが文化財の保存という側面もありますが、もうひとつは遺跡を支えてきた地域社会です。それは非常に着目すべきだというお話もいただいております。ある意味で、長崎を復興するにあたりまして、この遺跡を支えたのはむしろ行政ではなく地域社会だったという側面があります。復興の裏面史というのは当然あると思いますので、その辺を含めて経過をきちんと整理したらどうかというご意見もありましたので、それぞれの遺跡について考えていこうと思います。
それから、それと関連して生活の中にある遺跡をどう考えるのか。いわゆる寄せ場と言われるようなものは、城山小学校、浦上天主堂、山王神社にもそれぞれありますし、長崎大学医学部大学にはごく最近、門柱の近くに寄せ場をつくっています。その寄せ場をどうするか。これは戻していいのかというのもありますが、文化財保存の視点から言えば屋内に置くべきであるが、慰霊碑として使われたり、寄せ場があること自体が原爆の記憶を喚起する上で非常に重要な部分もあろうかと思いますので、その辺はもう少し委員会のご意見をお伺いしながら考えていきたいと思います。
それからもうひとつ、城山小学校を特に特化してというお話もありましたが、私どもこれを指定するとき、特に名称を考えたときに、長崎原爆遺跡というのは今回の4つだけで終わるわけではないと考えております。登録記念物として長崎原爆遺跡を意見具申した際に4遺跡の名称をそれぞれ弧書きとしたのは、今言われた遺跡群という考え方を根本に持っており、これ以外にも原爆遺跡が実は沢山あります。それをどうするかというのも含めて、城山小学校がその中で緊急性を要するものであればそれをどうするのか、他の遺跡との関連をどうするのか、この辺は少し整理をする必要があろうかと思います。
予算と期限がある中で、先ほど言っていただいたように、何をいつどうするかという計画をもう少し明らかにしなければ議論もしづらいので、ある程度の段階でそのような計画も必要だと思います。
特に私からお伺いしたいのは、遺跡の範囲をどうするかということです。被爆校舎であれば城山小学校の丘全体、旧鐘楼であれば浦上天主堂全体となってくると、旧長崎医科大学の門柱と山王神社の二の鳥居は、どこまでの広がりの中で史跡の指定を目指すのが最も適切なのか。この辺につきましては、もう少しご議論をいただければと思います。

【会長】
明らかに対象となっているのが、被爆校舎の場合は城山小学校です。大きな目で見れば校区という問題もありますが、少なくともそこに直接関係のあるようなものが残存していますので、学校と言われる校内や校庭の範囲の中でと思っています。そのことによって、例えば、丘の斜面には防空壕が存在していますが、位置も把握されていないものが知らないうちに壊される危険性がなくなるということです。
昨日、登録と指定とはどこがどう違うのかと尋ねられましたが、それは保存をするために積極的に動いていくかいかないかの問題であると思います。だから、保存に影響を及ぼすような形のものもある程度話をできるように範囲をとるべきだと思います。
例えば、歴史的な景観が見られるロケーションの中に、新しい広告塔が入ってきたりというようなことを避けたりします。だから、広いに越したことはないのですが、長崎大学は全部範囲に含めるのかといえば、それは今後の調査を踏まえて決めていくべきだと思います。空襲のときに入っていた防空壕や地下壕があるのかもしれませんが、一番広がっても医学部の範囲となります。
それから、浦上天主堂は、天主堂がつくられて保持経営されているエリアを見ていく。割と地形的に独立しているような要素があるので、ある程度この辺は網をかぶせることができるような感じもします。
一番難しいのが、いわゆる居住区域の中に入り組んでいる山王神社の二の鳥居のところです。階段の下から写真を撮ったときに、鳥居の後ろに見えるアパートが景観的に非常に目に付き過ぎます。景観は、公共の財産です。今後は景観を重要視して、遺跡に影響を及ぼすようなことはできる限り遺跡のラインの中に含め、ライン外であっても話し合いをもっていく、いざとなったらエリアを拡大する。ただ、住居の場合には生活権の問題で難しいので、これは都市における遺跡のあり方、保存の仕方というのは今から見ていかざるを得ないだろうという気はします。

【事務局】
今言われた景観の問題で、医学部の門柱では、むしろ周囲に住んでいる方々が覗かれたり写真を撮られるということで、その気持ちに関して何らか対策が必要ということでごく最近大学のほうで割と大きな目隠しフェンスを設置しました。
景観という観点から何ができるのかについても、少し計画の中に入れる必要があろうかと思いますので、私どものほうで検討してみたいと思います。

【委員】
先ほど、城山の被爆校舎に特化したプロジェクトのお話がありました。特化してできるかどうかというのはまたご判断いただかなければならないとは思いますが、被爆校舎というのは厄介なことに後からどんどん修復がなされています。今後、遺跡の範囲を城山小学校の敷地全体ということで進めるのか、それともどこか一部分から進めるのかということがありますが、少なくともあの建物については、今後調査していかなくてはならなくなると思います。
先ほど、事務局から城山小学校の学校史を調査していると聞きましたが、学校に関する資料というのは、例えば卒業文集、学級通信など実にいろいろなものがあります。しかし、なかなか残らないのがそういった資料でもあるわけですので、城山小学校に関する文書資料は、この調査で使えるかそれに間に合うかはともかくとして、コピーでもいいので積極的に収集を始めていったほうがいいという感じがします。
被爆校舎にいつ上からコンクリートが塗られたのかといったことも、コンクリートを調べていけばわかる部分もありますが、もしかすると子どもが書いているようなごくごく瑣末な資料にそのようなことがとてもよくわかる記述が残っていることもあると思うので、積極的に集める方策を取っていただいたほうがいいと思います。
それは、もちろんそれだけ始めると他の遺跡とのバランスを考えなければならなくなりますが、少なくともこの4件の中で言えばそこは力を入れてもいいかと思います。
もちろん、マンパワーと若干のお金が必要かもしれませんが、しかし工事をするようなお金とはちょっと違うエネルギーの使い方になりますので、もし可能であればそれに取り組んでいただければと思います。
それから、山王神社の鳥居についてはいろいろと気に掛かっていて、遺跡の範囲をどのように考えていくのかは大変難しいです。
それは、何かネガティブな話ではなく、例えば、境内入口のすぐそばに建っている門柱の再利用をした「坂本町民原子爆弾殉難之碑」を早い段階でつくった町民、あるいは氏子が中心なのかはわかりませんが、そのことと門柱の片割れだけは残っているという状況と、そういうことがどこまで意図されているのかも含めて判断しかねるところもあります。
違う言い方をすると、神社とその周辺、あるいは氏子の生活史かもしれないし民俗史かもしれないし、あるいはあの町内、あるいはそのもうちょっとまわりの地域史かもしれないのですが、そういうものを考えていく必要があります。
これもなかなか資料がそうあるわけではないし、あまり重厚長大な作業ではなく基礎作業としてその後の聞き取り調査をしなければわからないこともあると思います。ただし、割と時間がかかるので、もし着手できるのであればした方がいいような気がします。そういう調査をした上でないと、山王神社のどの範囲を遺跡とするのか考えにくいという感じもします。
大きいものを動かすところとは別にその2点が気にかかっておりますので、検討いただければと思います。

【事務局】
城山国民学校に関して、私どもがこれまで入手した資料というのは、原爆被害がどういうものであったかという人の証言に関する資料が中心でした。
原爆被害の状況は、戦後すぐにアメリカの戦略爆撃調査団が、原子爆弾一発で都市をどれだけ破壊したのか調べるために長崎に入ってきて、原子爆弾が炸裂した地点に最も近い高台にあったコンクリートの建物に非常に着目して作成した資料の中にかなり含まれておりますが、今、私どもが持っている資料はコピーの精度があまりよくありませんので、アメリカの公文書館に他の分も含めて資料がまだあるのではないかと考えているところです。
ですから、遺跡としてのエリアを検討するには、その校舎以外の学校の敷地がどれくらいあって、それがどのようになっていたのかというのもその資料の中に含まれていれば大きな参考になりますので、将来に向かってどんどん集めていく必要があると思います。
それから、山王神社に関わる生活史とか民俗史にもつながるのでしょうが、人々がどのように生活していた中であの鳥居が残ったのか、地域の人たちがどのように考えて引き継いできているのか、御供養のための慰霊碑がどのような位置付けで建てられていったのか地元の方たちのお話をお聞きしていくのも時期的には限られてくると思います。当時のことを御存知の方がご高齢になっていく中で地域に入ってのお話になるので、時間もかかるし信頼関係もつくっていかないといけということで、そのような調査の重要性はいろいろ感じておりますが、今後、どれだけのことができるのか。時間と費用の面もございますので、それは私どももこれから熟考していきたいと考えております。

【委員】
議論がいろいろと出ているので、2点ほど整理する必要があるかと思います。
一つは、先行研究です。調べたところ、木村博氏の「景観倫理と景観責任」、副題が「長崎・被爆遺構から考える」、そして、「長崎被爆遺構とその痕跡をめぐる問い」、副題が「レヴィナスにおける「イリヤ」との連関で」という論文があります。また、深谷直弘氏の「被爆建造物の保存と記憶の継承」、これは長崎新興善小学校一部校舎保存問題を事例にした論文です。こういった研究が存在しますので、どこまで分析がされているのかも加味しながら、いわゆる建築学では関連する論文がないのかしっかり把握していくこと。
もう一点は、対象時期についてです。あまり広げ過ぎない方がいいと考えます。原爆遺跡をなぜ残すのかを問う時、第二次大戦末期に原爆の攻撃を受けた都市は広島と長崎の2都市だけであるという史実です。そして、戦後史において慰霊の意味をも含んでこの70年近くを歩んできたことを思うときに、原爆遺跡をただ原爆の被害を見せるためだけに残すのではなく、被爆70周年を迎えるに当たって体験者が少なくなる中で、核兵器をもう二度と使わせないという被爆者の思いをも伝える場として、この先の未来につなげるという方向性を確認した上で委員の活動を行っていければと思っています。
ですから、あまり議論を広げ過ぎず、遺跡を保存する意味とそこに存在する強いメッセージを確認していくことが直ちに必要なのではないかと感じました。

【会長】
今から文献調査も継続してやっていくし、その調査対象範囲はその行為をやったアメリカに限らずそれが世界でどのように取り上げられたといったデータも必要です。そうなると、原爆の被害を受けたことは非常に希少的なものですから、本来であれば、長崎市は長期計画の中で原爆に関する公文書館というものをきちんとつくる必要があると思います。それは、例えば原爆資料館があるからその図書室でいいということではなく、今後を考えるならしっかりした文書館をつくっていくということはお考えになられたほうがいいのではないかという気がします。
ちなみに、今度、長崎市は市史を編さんし、現代編の中で特に原爆に関わる部分をかなり書かれた方が、いろいろな形で資料類をお持ちになられたと思います。
市史が刊行されたら恐らく編さん室はなくなってしまいますが、古い時代からのあれだけ集まった資料をどこで完全に保管されるのか、今までであれば長崎市立博物館という一番相応しい所があったのですが、今はもう実体はないのです。
そうなると、どこでこれだけ貴重な資料を保管するのか、我々も今から一所懸命協力していきますが、そこで出てきたデータはどこで保存し継承されるのか、このようなことを市でお考えいただけたらと思っております。

【委員】
城山小学校運動場の掘削調査で出てきた焦土層らしき土を剥ぎ取る予定はありますか。

【事務局】
もう埋め戻してしまっているので、今後、成分分析が終わって焦土層ということが確定したら、さらに分布調査をする段階でビジュアルとして剥ぎとりをしたほうが今後子どもたちに教育をする上でもいいのかなと思っています。

【委員】
焦土層があったことを示すためにそれがいいと思います。そういう意味では、今掘っている校舎の基礎部分も剥ぎ取ってはどうですか。剥ぎとりは樹脂でできます。

【会長】
出土した校舎の基礎部分はフラットになっているのですか、それとも斜めになっているのですか。見た範囲では傾いているような感じがします。文化財課の技術の係長さんもおられますのでレベルを測ってみてください。爆風の影響によるものかわかりませんが、傾いた原因もついていかなければならない。
それから、確かに炭が出ているところが果たしてどうであるか確認することは重要だと思います。見た範囲の中で、あれほどたくさんのカーボンが集まることは、火を焚く以外には出てきません。見た範囲の中では、カーボンと有機質を焼いた灰の層がいっしょになっているようです。それらを一つ一つ捉えていってもらって確認できればいいと思います。
それから、この場所で火葬しようと意図される形で集中的に使われたならば、そのような施設の形が残るはずですが、仏様を処理するという感じであれば、施設も作らずあちらこちらで燃やすというやり方だったのだろうと思います。無縁仏は最終的には地区の人たちが祭る、地域社会が受け持つというのは、江戸時代から続いてきたことで幕府が出した政策によるものです。ですので、恐らく町内会なり地区の会で処理をされたのでしょう。
最近は亡くなった人たちの墓の調査というのはどんどんするようになりましたし、中にあるものを取り上げていくということもされていますが、以前はあまり行われてきませんでした。だから、城山小学校周辺のお寺なりに、そのような痕跡が今まで知られずに残っているかもしれませんので、周辺調査を徹底してやっていただきたいと思います。

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