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第5回 外海地区の文化的景観保存計画策定委員会

更新日:2013年3月1日 ページID:006443

長崎市の附属機関等について(会議録のページ)

担当所属名

企画財政部世界遺産推進室

会議名

第5回 外海地区の文化的景観保存計画策定委員会

  • 日時:平成22年2月16日(火曜日)午後3時~
  • 場所:長崎市民会館1階大会議室

議題

  1. 平成21年度調査中間報告について
  2. 今後の調査方針について
  3. その他

審議結果

1. 平成21年度調査中間報告について

事務局
資料2について説明。
まず、歴史部分の記述を強化するという趣旨で「周辺豪族の台頭と割拠について」と、「近世大村藩の支配体制」という観点から文章を作成した。報告書への掲載の論議をお願いする。
委員長
今回答が必要か。
事務局
後ほど返事をいただいて下川委員長と相談の上、原文のままでよいのかあるいは加除修正が必要なのか検討し、採用したい。
事務局
資料3「外海地区の石垣の状況について」説明。
前回6月の委員会で去年(平成21年)の報告書の内容に加えて、外海地区においては非常に多く石垣が見受けられ、それが特徴であるということで、事務局の方で石垣の調査を行った。
まず、資料3-1は外海地区出津の下流域、出津の浜の調査内容である。図面に着色している薄いグリーンやベージュの部分は文久2年の絵図に土地利用の着色があり、それを現在の地形図に表示したものである。この図面を基に石積みの現況を調査した。文久2年の絵図には、石垣の表示が出ていたが、畑地には石垣の表示がないので、屋敷周辺の石垣のみ表示しているのではないかと考えている。
絵図と現在の石垣の調査を重ね合わせると、合致するものが数点あり、石の摂理面や出隅の部分も非常にきれいな造作がしてある。
同様にして、出津川の上流域にあたる牧野地区の調査結果も提示している。牧野地区は全体が大村藩であり、文久2年の絵図のような土地利用の図面が現在のところ見つかっていないので、絵図を基本とした編年作業というのが難しいのではないかと考えている。
これらの調査の結果、石積みが外海地区における重要な景観形成の要素であることは間違いがないと思われるが、どういう価値が出るのかということについては今後とも鋭意研究を深めていきたい。
委員
石垣はかなり重要だと思うが、今回調査された範囲以外の黒崎や松本の方の石垣は性格が違うように思う。今回の調べ方では形状はよくわかると思うが、調査結果の整理の仕方がかなり重要だと思うので、集落との関係や歴史的な関連性でまとめるのがポイントだと思う。
事務局
現段階では、石垣が面的にどれぐらいあるのかを調査することで、量的に石垣の多さが特徴であることを見ようと出津川の流域を試験的に調査した。これから利用形態、役割に応じた積み方、つなぎ、石そのものの質などの観点から分類をしていき、職人達がどういう作業を行っていたかという背景も含め、今後の整理の方向性や調査範囲について相談させて頂きながらさらに研究を深めていきたい。
委員
岩石の種類は調べたのか。西彼杵変成岩が多いと思うが。
事務局
今日資料提出までには至らなかったが、石垣の調査結果を地質図に重ねた資料を作成中であり、その地域の変成岩の種類なども調査したい。
委員長
温石という名称を用いているが、これは通称であり、西彼杵半島の結晶片岩と書くべきである。玄武岩系統のものが入ったりしているような場所もあるので、今後の調査をお願いしたい。
委員
外海地区の集落関係については、昨年度(平成21年)において建物などの主要な建築物と、ネリベイの建物、集落には明治期以降と、江戸期のふたとおりの形態があるのではないかという仮説も含めて報告している。これは宝暦2年の地図を発見し、場所の探索をした上で行ったものである。
今回は、絵図の調査から始め、宝暦2年、文政10年、文久2年合わせて15枚程度を発見した。中でも文久2年の地図は非常に詳しく、その地図を基にすると集落の概要についてよく抑えられると判断し、絵図と現在の地図と合わせ、当時がどのようになっているか調査した。これは年代を特定し、どの場所がどんな役割を持っていたかを想定するために非常に有効な手段である。また、建物の表示があり、当時の集落の様子がわかる。それぞれの集落の場所は現在の集落と一緒だったり、大きくずれたりしている。今は車社会で新しく道路が通っており、その周りは昔の集落が分からないようになっていた。
出津の浜の地区は、先ほどの石垣調査にもあったが、基本的に以前の集落形態を、出津川の河口にある大村藩の河口集落でかなり押さえられている。出津川の河口をはさんで両側にそれぞれ家屋群と上のほうに墓地があり、それが対になって全体として川を挟んだ大きな集落を形成している。対岸にそれぞれ墓地があるが、そのうち向平の墓地を観察すると、仏式の立石墓のベースが伏墓になっているものが見られた。一番古い墓は潜伏キリシタン当時の遺構ではないかと考えられるため、それと一緒に集落を調べる必要がある。出津の浜の河口集落では潜伏キリシタン初期のものと考えられているお堂の場所がある程度わかっており、潜伏キリシタンの墓地が向平墓地にあり、その後、役人が入ってきた海岸沿いの石垣集落が残っている。それと非常に大事なことだが、文久2年の地図及びその前の文政年間の地図を見ると集落と道もそのまま残っている。
出津地区だが、これはよく知られているように、ド・ロ神父の拠点だった明治期以降の集落であると同時に佐賀領飛地になっており、文献を見ると、3~4くらいの大きな集落に分かれている。この近くを往還道が通っており、直接は面していない。これは、直接往還道と面していた出津の浜地区と大きく異なり、大村藩と佐賀領の大きな違いだと思う。出津地区の野中集落だが、宝暦2年(1752)絵図に民家がある形でそのまま残っているので、その時からの集落が残っており、その背後に伏墓がある墓地がある。また、ド・ロ神父が明治期に近代的な施設や出津教会のような教会施設を作り、少し山手の方の上に上がった集落が出来たことが分かる。
牧野地区は山間集落で大村領に属するが、一部、大首というところに佐賀領飛地があり、佐賀領と大村領が混在する場所がある。また、サンシ山五輪塔といわれる場所に1400年代のものではないかと思われる石塔があり、そのころから有力者がいたと考えられ、集落としてはその時期から存在したのではないか。牧野については、ネリベイ建物、石垣がかなり定着しており石の文化の集落としてはかなり重要な地区と考えられる。大村藩では役人がそれぞれの集落に常駐しており、牧野にはその子孫が今も住んでいる。他の集落でも見つけているが、歴史的にちゃんと押さえる必要があると思う。それから、墓地には大木があるが、この木の麓のところには2メートル四方、高さ1メートルぐらいのかなり大きな墓が見られる。
少し離れた高野という集落にも墓地があり、墓地の専門家の見解によると、大村藩を代表する形態の墓碑がある江戸期の墓地ではないかということあった。その形状は方形の伏墓の中心に立石があり墓石に銘などがまったく刻まれておらず、潜伏キリシタンの墓碑ではないかと考えている。
黒崎は、佐賀藩飛地の中心部で、南斜面に接しており、聞き取りにより四つほどの集落があることがわかった。中でも、迫という集落は現在もカクレキリシタンの習俗を残しており、前回の報告時にもその旨を書いている。文久2年の地図で見ると、小道と墓地、有力者の居所を含む集落がそのまま残っている。近くには元庄屋宅の結晶片岩を使った立派な石垣がある。黒崎については、これ以外にも立派な石垣があり、なぜそうなのかという歴史的な裏づけが欲しい。
松本地区は集落が連坦しており枯松神社を背後に持つ集落形態になる。文久2年の絵図を見ると、本来は海岸付の集落ではないが、離れたところに飛地を持っており、うまく生活ができるように大村藩と調整しているような共存関係を示す文化が見えてくるのではないかと思う。垣内集落は文久2年の絵図で存在が分かったが、かなり急傾斜な場所にあり、現在は前面が埋め立てられて車道が走っている。絵図には全部で9戸の家屋があり、前回の報告で考えていた集落の原単位である10戸程度のはっきりした集落ということで注目した。現在も文久2年の絵図と同じ場所に墓地があり、伏墓で一切記銘がない墓碑群を見つけた。また、この集落は往還道に2箇所接続しており、そのうち1箇所に往還道を作ったときのものと思われる石のみの跡があり、垣内地区の海とのつながりを示すものと思われる。
樫山集落は絵図によると今の東樫山が佐賀領で、西樫山が大村領ということになる。東樫山の特徴は神社、お寺、赤岳という聖なる山をひとつの集落が持っているということで、キリシタン集落としても注目すべき場所である。
全体的なまとめとしては、文久2年の絵図は貴重な資料で、江戸期の集落を知るうえでも不可欠な資料になる。絵図は佐賀領のみだが、隣接した大村領については、同時代の歴史の記述等と合わせて集落の遺構を調査すべきだと考える。それから墓碑は潜伏時代の状況を知る上で非常に有効な手段であり、墓碑の形態がどういうふうに移り変わっていくのか、佐賀藩と大村藩でスタイルが異なっているという考察ができるのではないかと考えている。また佐賀領と大村領の墓地を調べていくと、碑銘が無かった時代ではあるが、かなり系統的に居住状況を示す資料になると考えているが、それが出来るのはこの地域ぐらいではないかと思う。
委員
今年度の調査は、第1次、第2次申出の区域を中心として自治会単位の聞き取り調査を実施した。
対象となる自治会は15自治会があり、そのうち12.自治会の調査が終わっている。
調査項目は社会的特性について昨年度の分をより細かく掘り下げ、生業、生活全般、社会組織、婚姻と相続、信仰といった項目で聞き取りを行った。
生業は半農半漁とよく言われるが、メインは農業であり、芋や麦を自分たちの主食にするとともに商品としても売っていた。特に、芋は焼酎の原料として、現金収入のもとになっていた。米やその他の野菜などは主に自家用として作り、現在の農業従事者は、野菜を自家用として作っている。畜産がある程度行われていて、牛とか豚とか山羊とか鳥を飼っている。牛は農耕用であるとともに、「ばくろう(馬喰)」という仲介業を行っている人もおり、現金収入のもとになることもある。
1950年代(昭和25年)には農業で生計を維持できなくなっており、かなり早く農業が衰退している。昨年(平成21年)人口動態を調査したが、1965年-70年(昭和40年-45年)の国勢調査では15-29歳の労働力である若年層が激減することがわかった。聞き取り調査では1950年(昭和25年)代以降、多くの若年層が外海を離れ、東京、愛知、大阪、長崎市、池島炭坑などに出稼ぎに出たことがわかった。
現在、野菜を道の駅に出荷している方が、各自治会に1~2名おり、現金収入として生計を立てるというほどではないが、年金にプラスして収入を得ている。
漁業は、昭和30年代にイワシ漁が衰退し、生計を立てることが出来なくなっていった。専業の漁業従事者は調査対象地区でそう多くないとわかった。イワシ漁が衰退した後は、農業従事者と同様出稼ぎに行くというパターンが見られる。
その他の生業としては、炭焼きを行っていた人がいたが、ガスの導入に従って減少したことがわかった。
それらの変化が昭和30年代に押し寄せ、外海地区における生業が成り立たなくなり、特に男性が家族を残して出稼ぎに行き、残った親が細々と野菜を育てるというような生活パターンが見られるようになった。現在は、出稼ぎに行った人々が定年退職後に帰る現象が起きている。
年中行事で現在もしっかり運営されているものは、運動会と教会関連、神社関連の祭であり、盆踊りなどは徐々になくなっている。
婚姻儀礼は、50年前ぐらいまでは花嫁行列を歩いて嫁にいき、3日連続して宴を催していたが、昭和40年代には公民館結婚式が行われるなどの過程を経て、地域で結婚式を行うことがなくなった。
葬送儀礼は、近隣住民を中心に炊き出しや墓掘り、墓石を運ぶということをしていたが、現在は火葬になり、墓の形態も変化したため、これらの共同作業がなくなっていった。
社会組織、まずは近隣組織だが、近隣組織というのは、隣組であるとか、江戸時代でいう5人組くらいの単位の組織をいい現在の自治会において中がどの程度分けられているのかを調査したところ、かつては、隣保班と呼ばれていた、およそ数名から20数名の幅で構成されている班があり、ここで回覧板を回していた。もとは葬式や結婚式などの行事の単位となってが、年中行事もほとんどなくなり、人生儀礼の役割もなくなり、単なる回覧板を回す程度の役割になっている。
他の社会組織、子供会、青年会いずれもほとんど機能していない。
現在、社会組織として機能しているのは、老人会だけといういびつな構造は、生業が成り立たなくなり、青年会、婦人会、子供会の組織に入るべき人がいないという時期を数十年経ているため生じたものである。
信仰は、現在、ほとんどの地区が、カトリックと潜伏キリシタンでお寺の檀家など、様々な信仰形態を持っている方が混住している状況であり、地区にどの宗教が多いかにより、年中行事の残り方、社会組織の残り方に違いがみられるということがわかる。
聞き取りの対象者に多かったが、数十年出稼ぎに行き、その間の外海地区における生活の話を聞けないという状況に、調査の限界を感じた。
社会組織が弱っていると言ってきたが、地域の求心力を高めようと、いわゆる伝統的な祭りとは違うけれども、地区をもう1回盛りたてるために祭りを催していこうという動きも見られ、こういったところから地区が再編されていくという機運もなきにしもあらずという感じである。
委員代理
外海地区の大部分は富んだ丘陵で形成されており、5本の二級河川とその支流によって侵食された谷部のわずかな平坦地に農地と集落が形成されている。これらの集落は急峻な山地にネリ塀様式の建築物が点在し、他では見られない文化的景観を形成している。
外海地区の地質は結晶片岩から構成され、岩質が柔らかく層状に剥離でき、切石のような石材として使用することができるため、民家の壁材や石垣として使用されている。
平成21年9月から12月にかけて外海地区の屋敷、石垣の建築調査を行った。撮影した写真を地図上で管理するため位置と標高からGPS情報を記録できるカメラで撮影した写真撮影場所の緯度と経度を3Dソフトと連動させ、屋敷石垣の地図データベースを作成した。
調査した8つの集落を出津・赤首地区、新牧野地区、上黒崎・下黒崎・松本・高尾・永田地区に分類した。
調査した屋敷石垣の統計表をまとめると、屋敷、石垣が分布する地域は出津地区の出津、赤首、牧野と黒崎地区の上黒崎、下黒崎、松本、永田、高尾の8つがあり、特に屋敷石垣が分布する地域は出津、牧野と下黒崎であることが分かった。今後さらに石垣の大きさや建設年代などのデータを今後拾得する必要がある。
出津地区における石垣の分布状況は、屋敷石垣はほとんど急峻している教会周囲に点在していることがわかった。
赤首集落の屋敷石垣は約8箇所あり、数は少ないが、たくさんの植物が石垣の中に生えている。
牧野集落の屋敷石垣は約39箇所あり、山の斜面に分布する形質が見られる石垣が集中する地域である。
黒崎地区における各集落の石垣の分布状況について、まず上黒崎集落の屋敷石垣は約10箇所あり、多くは街路、路面に接して建っている。
下黒崎集落は屋敷石垣が集中する地域であり、黒崎カトリック教会から海岸まで約48箇所分布している。
松本集落の屋敷石垣は、9箇所があり、沢山の植物で覆われ、集落の中に点在している。
永田集落の石垣は約5箇所あり、海で形成した玉石で造られた石垣が海岸の近くの人家で多く見られる。
高尾集落の屋敷石垣は4箇所ある。これらのことから石垣の多くは崖の北側に位置し、出津、黒崎地区の各戸について、南面する北側に耕地が多く開かれ多くの集落があり、これに対して南岸は、急傾斜地で耕地や集落に乏しいことがわかった。

2. 今後の調査方針について

事務局
外海地区は良質の結晶片岩の産地であり、その石は人々の暮らしの中でも盛んに用いられ、特徴的な景観を形成してきた。それを示すのが、石製の漁具・農具を用いてきた歴史と、現在も利用されている石積みの家屋や石垣、そして墓石であろうと考えている。
これらはその形状も含め、この地域独特なものであり、日本国内でも他に類を見ない、非常に特徴的な景観を示しているのではなかろうかと考えている。
また、江戸期において行われた、大村藩の中に佐賀藩の飛び地が存在するという特異な統治のあり方により、隣接する集落において文化的伝統に違いが生じ、それが現在の地域社会の中にも色濃く残されている。このことから、外海地区において、地元から産出された石材を利用した文化と、集落構造の変遷と統治のあり方の関係性が、現在の景観にどのような影響を与えているかを今後調査を深めていきたいと考えている。
今後、補完すべきポイントとしては、何をもって現在の集落が形作られたか、何に大きな影響を受け、現在の景観が形成されたのかを示すことによって外海地区の景観の特徴をさらに明らかにし、潜伏期において大村藩、佐賀藩の統治によりもたらされた社会構造、文化的伝統の相違を示すため、江戸時代の絵図と現在も残る集落における土地利用の比較分析をさらに深める。また、古い集落と明治期以降に形成された新しい集落は異なる文化的伝統を保ちつつ現在も並存していると思われるため、社会構造、集落構造の両面から調査を深めていく。また、外海地区周辺の特徴である温石を用いた家屋・石垣・墓等について現地調査を行い、形状や状態、集落との関係等についての特徴をさらに考察していきたい。
具体的な調査内容としては、長崎の歴史における外海の位置づけをもう少し引いた視点から書き込むこと、外海地区における集落構造とその変遷について、16世紀のカトリック伝来後に行われた統治のあり方による集落単位の特定を進めること。現在の屋敷地の構造と建物の建て方、畑地の造成の仕方などについて、聞き取りを含む現地調査を行うこと。また、19世紀のパリ・ミッションによる再布教が及ぼした影響として、既存の集落に教会が立てられ共同墓地が出来ることで、その集落構造にどのような変化をもたらしたのかを考えること。細かいこととしては、江戸時代の絵図などで、ある時期を捉えて今の状況とどのように違っているのかの比較を絵図のデータ化により行う。
また、生業にかかわる石文化という視点から、農業における変成岩地帯での農耕の工夫とその特徴であるとか、漁業における時代別の漁法、道具と技術の変遷、特徴的な地質環境に適応した生業の一つとして鉱業、池島炭鉱を取り上げる。最終的なまとめとして、西彼杵半島における地質的特徴が及ぼす影響について、各種変成岩の利用形態の歴史であるとか、変成岩の生成と地形的特徴、石炭生成の要因と地形的特徴、石を用いた工作物・建造物の調査、自然石を用いた墓地の位置の調査や、昨年度から取り組んでいる現況の土地利用調査を深めていきたい。
委員
集落の方から言うと石や石垣があるが、割と重要なのは道だと思う。それらを繋げて行くような空間構造ということがある。潜伏キリシタン、復活してから後及び近代的石炭産業、それから出稼ぎ、そういう形になった時にその時代の集落が関係してくる。その景観が今現在、組み合わさっている。それが最初、判らなかったが、そこを調査して、外海の文化的景観でさぐるのが我々の仕事じゃないか。集落構造を道で繋ぎとめることができないかと思うが。
事務局
外海の文化的景観のこれまでの調査成果を見て改めて、その重要文化的景観の選定する際に外海の文化的景観にどういう価値があるのか。今度、平戸の文化的景観が選定になるが、平戸の文化的景観、重要文化的景観たる価値を一言で言うと、信仰と棚田、牧野という生業景観。既に重要文化的景観になっているものでいえば、四万十川流通往来と流域の土地利用という、端的に価値をまとめることもできると思う。一方、外海の文化的景観といった時に何が外に向かってアピール価値になるのか3点ほど考えていた。
1つ目、事務局等の方から発表があったが、景観的な特徴として、石垣のある集落、石垣が卓越した集落形態というのは一つの価値になる。そのような観点で考えた時に、石垣の構造であるとか或いは材質であるとかというところは調査されているようだが、写真を見ていて石垣に特徴的に何か生えている植物というのがあると思うが。棚田の価値は単なる景観上の価値ではなくて、やはりそこが中山間地域における取水地であるとかあるいは石積みなんかでいうのが生物の多様性に貢献しているという発言もよく文化審議会であるが、ここの集落、畑、河川にしてもかなり植生もあるので、石垣、石積みの所に理想的な植物というのがあるのかないのか是非、委員の方にご指導いただきたい。あと集落の中の椿であるとか、ほかにも動植物など地域のシンボルとなるもの、別の地域でいえば、江戸時代に青さで生業をなした集落は小学校のシンボル、校章として青さがモチーフにされている。一方で、繊維産業が発達していって、すでに青さは栽培されていないが、地域の記憶として小学校のモチーフになるような形で残っている。今となっては生業として成立しなくなったが、文化的景観で言うと少し復元していこうと、そういった動きもあるので、ぜひ自然的特性の観点から石垣、あるいは地域のシンボルというのが出てくるとさらに面白いと思う。
2つ目、石垣のある集落、形態の方を分析されているが、今度は構造の方からいうと、集落の成立の部分と、それから展開の部分というのが、ひとつ特徴的ではないか。近世の絵図がかなりたくさんあるということなので、大村藩、佐賀藩という藩境を越えて、あるいはこれは信仰にも関わってくると思うが、藩政の違いによる形態の違いも近世の部分に出てきていると思う。一方で気になるのは、ここにキリスト教が伝わる前の中世の姿、あるいは大村藩佐賀藩の官僚の時代があって、近代になって外国から宣教師が来て、真ん中にドンと教会というシンボリックな建物を建て、そこから出津の農村版近代革命が始まって、それによって集落構造が変化していると思うので、今抜け落ちている宣教前の中世の姿、そして今調べていただいている近世の姿、それから近代革命、近代からある程度進展した現代の姿の集落の構造と展開という連続性ができるので明らかにしていく。
3つ目、たくさん記憶が残っている近世というところに注目すると、外海の区域に関して言えば大村藩、佐賀藩の間で少し宗教に対する考え方、弾圧に関する考え方が違うようであり、それによってあるいは五島方面に移住が生じた。私は五島の文化的景観にも関わっているが、移住を伴うような信仰の歴史というのはどういう姿だったのか。その3点が外に打ち出していける特徴だと思うので、その辺りの肉付けを先生方にご指導いただきたい。
また、歴史の話がかなり関わってくると思うので、実証の部分については別の先生にお願いしてもよいかも知れない。ただ、2つ目と3つ目の特徴は、もろに集落の宗教性を特定してしまうということになる。最後に、特に調査成果が出るまでは、あるいは長崎市として重要文化的景観のスタンスが定まるまでは取り扱いを慎重にしていただきたい。

3. その他

事務局
外海地区まちづくり協議会の設立について報告する。地元のご尽力により、先週2月8日に、住民も一体となって頑張っていこうという趣旨から「外海地区のまちづくり協議会」立ち上げられている。
委員長
今回の中間報告で、会長としては、やっと今後の方向性が見えたかなと安心している。信仰等については注意しながらやっていかなければならないし、私自身は、特異な石積みの墓制のことについてある程度やっていかなければならないと思う。特に今回平戸の調査の中でウシワキの森の調査をやっているが、もしあの調査の年代を信じるならば、古いころからずっと墓制が変っていないということ。もうひとつは、こちらの方から平戸の方に移住して行った時に、ああいう墓制を持って行っているのか。もともとそういった墓制を持っている海洋集団みたいなものが海でつながっている可能性もある。特にこの地区は両墓制を長崎県の中で歴史的に指摘された地区であることも今後の流れの中では考えられる。
(開会)

お問い合わせ先

総務部 行政体制整備室 

電話番号:095-829-1124

ファックス番号:095-829-1410

住所:〒850-8685 長崎市魚の町4-1(9階)

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