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交流のまち

更新日:2021年10月1日 ページID:037481

ホッとトーク

 「世界ふれあい街歩き」というテレビ番組があります。旅人が歩くように、カメラがまちの中を移動しながら紹介してくれるので、まるで自分も一緒に旅しているような気分になります。たまに録画して観るのですが、この番組でとても印象的なのは土地の人とのやり取りです。
 「こんにちは。何してるんですか?」などとカメラが話しかけると、「これから祭りの準備に行くんだ」「ほら、このおいしいフルーツがいま旬だよ」「友達とおしゃべり。世界で一番の仲間たちさ」など、いろんな答えが返ってきます。
 時には、「中に入っておいでよ」と家の中に入れてくれたりするので、地元の人の暮らしぶりまで垣間見えたりします。
 風景や食や歴史だけでなく、旅が持つ人との出会いの魅力も味わわせてくれるのが、この番組の最大の魅力だと思います。

 長崎は450年間ずっと“出会いのまち”でした。長崎には港を通じて、さまざまな文物と人が出入りしていたので、このまちを舞台に、異なるものの出会いによって新しいものが生まれるという“化学反応”がひっきりなし
に起きていました。
 今は“観光都市”としてのイメージが強い長崎ですが、開港から450年の歴史を貫くのはむしろ “出会いのまち”“交流のまち”というもっと広いものです。
 江戸時代の丸山は、各藩の武士たちの社交の場でした。幕末になると、鳴滝塾や小島養生所での医学の交流が、日本中に近代医学の発展をもたらしました。グラバーなどを通じての産業・技術の交流は、明治政府の殖産興業政策につながりました。長崎での交流は、日本の歴史に大きな影響を及ぼしたのです。
 もちろん長崎のまちにも、造船産業や感染症研究拠点などさまざまな財産をもたらしてくれました。それらは今も、長崎の産業や学術の柱の一つとなっています。
 それだけではありません。海外の人との交流は、長崎のまちに独特の文化を育ててくれました。ハタ揚げも、精霊流しも、ペーロンも、龍踊りも、ちゃんぽんも、卓袱料理も、カステラも、洋館も、石畳も、教会も、みんな異文化との出会いから生まれたものです。そしてその経験を通して、長崎人は異なるものを受け入れる包容力豊かな市民性を育んできました。
 そう考えると、長崎を「交流のまち」と呼ぶのはとても自然なことだと思います。

 一口に交流といっても、江戸時代は貿易、昭和は観光というように、交流の中身は時代によって違います。出島メッセ長崎や長崎スタジアムシティのような新しい出会いの場の誕生は、これからも長崎に新しい交流の物語を生んでくれることでしょう。
 いま長崎は、まさに「昭和の観光都市から21世紀の交流都市へ」の変身の時を迎えています。

gasou
11月1日に開業する出島メッセ長崎

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