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市長退任記者会見【2023年4月25日】

更新日:2023年4月25日 ページID:040323

市長退任記者会見

1.日時

令和5年4月25日(火曜日) 午前10時30分~午前11時35分

 ▶ 会見の様子(YouTube動画)は、こちら(新しいウィンドウで開きます)。

2.市長退任あいさつ・質疑応答

市長退任あいさつ

質疑応答

退任を迎えた今の気持ち
16年間を振り返って 1
新市長へのメッセージ 1
今後について 1
平和行政について 1
今回の市長選について 1
新市長へのメッセージ 2
16年間を振り返って 2
今回の市長選について 2
新庁舎建設について
まちづくりについて 1
16年間を振り返って 3
平和行政について 2
まちづくりについて 2
平和行政について 3
今後について 2
平和行政について 4
新市長へのメッセージ 3
16年間を振り返って 4

3.会見録

市長退任あいさつ

田上市長
 本日も大変お忙しい中、お集まりいただきましてありがとうございます。
 今日は市長退任に当たりまして、まず一言お話をさせていただきたいと思います。
私は本日をもちまして、長崎市長の任期を満了し退任させていただくことになりました。4期16年の間、まずこの時間を与えていただいた市民の皆様に心から感謝をいたしたいと思います。そして市政への様々な分野でお力をお貸しいただいた方々、また、国、県、経済界、大学をはじめとする関係機関の皆様、そして何よりも16年間私を支え一緒に仕事をしてくれた職員の皆さんに心から感謝をいたします。
16年間という時間の間にも社会の状況や長崎市の状況は、大きく変化をしてきました。これからも変化に対応し、また、変化を先取りしながら進むことが大事な時代が続きます。鈴木史朗新市長のもと変化にしっかりと対応し、長崎市がより発展していくことを心から願っています。
 報道機関の皆さんにはこれまで市の取組について、市民の皆さんに理解をいただくために、市政の広報にご協力をいただいてきました。報道機関の皆様にも心から感謝を申し上げます。4期16年間ありがとうございました。

質疑応答

退任を迎えた今の気持ち

記者(NCC)
 率直に、この退任の日を迎えた今のお気持ちを教えていただけますでしょうか。

田上市長
 一言で言うととてもすっきりしています。この歴史ある長崎というすばらしいまちのまちづくりを4期16年間させていただいて、本当に得難い光栄な時間を過ごさせていただいたことに対して、本当に多くの皆さんに感謝する気持ちでいっぱいです。

16年間を振り返って 1

記者(NCC)
 16年前に伊藤前市長が銃撃されて亡くなるという衝撃的な事件の後に立候補を急遽されて、そこから初当選されたと、この4期16年を振り返ってみて印象深いことでしたり、教えていただけますでしょうか。

田上市長
 そうですね。たくさんあり過ぎてどれをあげていいか分からないのですが、職員時代から思っていたこと、あるいは最初に手を挙げた、立候補させていただいたとき、やはり思っていた一番強い思いというのは、時代がずっと変化しているという中で、長崎も変化をしないとこのたくさん持っている財産が生きない、それからいろんなずれが大きくなると、いろいろ困り事もたくさん増えてきたりしていくというのを感じていて、そのずれを修正するといいますか、時代に合わせて変化していく部分は、変化が必要な部分はしっかりと変化して行くということが大事だという思いをもっていましたので、そういう意味ではいろんな分野で、この16年間変化をしてきた。時代の変化に合わせて進化をしてきたことが、少し抽象的な言い方になりますけども一番大事だったと思いますし、それぞれの分野で、観光の分野であったり、あるいは地域づくりの分野であったり、あるいはまちの形の分野であったり、そういったものが変化してきたということが、一番私の中では印象に残っていることです。

記者(NCC)
 本当にこの16年間という長い期間を表すというのは難しいかと思うんですけれども、その16年間を市長が一言で表すとしたらどういう。

田上市長
 今、お話したようなことを一言で言うとしたら、進化の16年だったと思っています。
 変化はあらゆる方向に動くことが変化なわけですけども、進化はやはりその中で方向性を見つけて、そちらの方向に進んでいくという意思がある意味あって、方向を明確にしながら進んで行くというのは進化という言葉にふさわしいと思うんですけども、そういう意味では、それぞれの分野についてどちらの方向に進んだらいいのかということを、みんなで考えながら知恵を集めて、そして進化させてきたという16年だったと、自分の中ではそういうふうに感じています。

記者(NCC)
 ありがとうございます。
 ご自身が考える一番の功績は何だと思いますか。

田上市長
 そういう意味で、これもまたつながってることなんですけども、動き始めるということ、方向性を見つけて動き始めるということ、やはり長崎市も地方都市の一つですけども、やはり大きなまちであって、かつ、かなり個性的なまちなんですけども、そのまちが動き始めたといいますか、市民の皆さんも含めて、いろんな活動も含めて動き始めたということは一つ、この16年間の前に進んだこととしてあるのかなと思っています。

記者(NCC)
 逆にやり残したこと、心残りがあれば教えてください。

田上市長
 そうですね。やり残したことといいますか、市政はずっと続いていくので、常にやり残したことがあるという状態が続いていくんですけども、その中では人口少対策が成果を、大きく成果を上げるというところまでいかなかったということは一つ残った部分としてありますし、もう一つはちょうど今のタイミングで、市役所という仕組みの在り方、仕事の仕方の在り方も含めて変化が必要な時期になっていて、それは私が職員時代からしたかったことでもあるので、心の残りと言えば心残りですけども、それは後輩の皆さんに託していきたい大きなテーマの一つだと思っています。

新市長へのメッセージ 1

記者(NCC)
 次の市政を託す鈴木さんに対して望むことを教えてください。

田上市長
 そうですね。長崎に対するすごく大きな強い愛情を持っておられる方だと思いますし、これまで様々な経験をしてきてこられていますので、それがこれからの市政のリーダーとして活動される中では、大きく役に立ってくれると思うんですけども。
 その一方で、やはり長崎を離れていたという、30年以上離れていたという部分もあると思いますので、まず地域を回って、そしていろんな皆さんとお話をして、長崎の今の現状を把握していただくつかんでいただくことが、これから市政を進めていく上での基盤になると思いますので、非常に積極的な方なので、私が申し上げなくても動かれると思いますけども、ぜひ現場をたくさん見て、たくさんの人とお話をして、現況をつかむということから始めていただければと思っています。

今後について 1

記者(毎日新聞)
 田上さんの今後についてお伺いしたいんですけども、今後政界は引退するということを、以前の12月の会見のときにおっしゃっていたと思うんですけども、一部で衆院選の1区で出馬するというお話も出ていると思うのですが、その辺、田上さんは今後どうされるのでしょうか

田上市長
 一言で言うとノープランです。今、次にすることを決めてしまうと貧乏性なもので、そちらのほうに気持ちがいってしまう、それをどうするかということで気持ちがいってしまうと思うんですけども、そうではなくてしばらく1つのことを考え続けるということをしない自由な時間を持ちたいなというふうに思っています。そういう意味ではノープランということで、これから先こちらにということはしばらく考えなくて、これまでできなかったことなどをする時間を少し持ちたいなと思っています。

記者(毎日新聞)
 政界引退もノープランということでいいですか。

田上市長
 ノープランはノープランなので本当にノープランなのですけども、具体的に考えていることは何もないです。

平和行政について 1

記者(NBC)
 田上市長はこれまで広島市とともに世界に核兵器廃絶を訴えてきておりました。その中で広島と長崎で見えない線、見えない格差を感じたことはありますでしょうか。

田上市長
 見えない線、見えない格差、広島と長崎というのはずっと一緒に活動してきた、そういう意味ではパートナー的なところがあると思うのですけど例えば、いろいろな違いもあって広島は原爆がそもそもウラン型、長崎市はプルトニウム型という違いから、地形の違いなどもあって被害が及んだ範囲やその大きさも違っています。威力自体は長崎の原爆のほうが強かったけども、被害の大きさ・数では広島のほうが大きいといったような違いであったり、様々な違いもあってそういった部分というのはむしろお互いにサポートし合って進んできたという関係だというふうに思っています。そういう意味ではよく私は半分冗談で広島は広く、長崎は長く伝えるという役目を持っていて、2つ合わさって1つですねという話をしたりすることもあったのですけど、これからもそういうパートナーであり続けると思いますし、そういうパートナーとして同じ方向を見ながら、時には役割分担もしながら進んでいくことになると思っています。

記者(NBC)
 被爆体験者問題が解決しない背景に、広島・長崎間の見えない線があるからとか、そういったことは考えられないでしょうか。

田上市長
 見えない線というのがどういう意味なのかちょっとよく分からないのですけど。

記者(NBC)
 例えばなのですけれども、平和記念式典で記者が総理大臣に尋ねる質問の数も違いますし、市長としての立場で広島・長崎というのではなく、長崎・広島と感じたことはありますでしょうか。

田上市長
 広島・長崎ではなく、長崎・広島というのはどういう意味なのですかね。

記者(NBC)
 記者が総理大臣とかに尋ねる質問の数とかも違うように感じていて、市長としての立場間で広島・長崎というのではなくて、長崎・広島というので感じたというようなことは。

田上市長
 質問と合うかどうかは分からないのですけど、先ほどお話をしたようにやはり広島と長崎にはいろいろな違いは確かにあって、広島という名前は世界中でやはり世界で最初に原子爆弾が落とされたまちとしてその広がり、発信力という意味ではやはりまだまだ違いがあると思いますし、広島のほうが強いと思いますし、また例えば事務局体制などもやはり市役所の職員の数も違うということ等も反映して、大きさが違ったりはしています。ただそういう中でも同じ方向を向いて、長崎市も本当に全力でいろいろな皆さんと力を合わせて取り組んできておられると思いますし、そういった違いの部分というのをあまりマイナスに考えるのではなくて、違いの部分をお互いに生かしながら一緒になって同じ方向を向いて取り組んでいくということが重要だというふうにこれまで考えてきました。それは先ほど広く、長くというような半分ジョークみたいなことにもつながるのですけども、違いがあることは確かだと思いますし、その違いも生かしながらどうやって一緒にとにかく前に進むかということを一緒に考えてきた関係だと思っています。

今回の市長選について 1

記者(NBC)
 最後なのですけれども、今回選挙戦で田上市長が鈴木さん支援を表明したことに対し、選挙戦の中で市長を選ぶのは市民だという声が聞かれました。この点について市長の考えを改めてお聞かせ願えますでしょうか。

田上市長
 新しい市長を選ばれるのは市民であるということは、これはもう間違いないことだと思っています。今回私が鈴木候補の支持というのをお話ししたのは、今長崎が進めているまちづくりというのはまだまだ続いていくものであって、20年、30年かかっていくものだと思うのですけども、そういう意味では特にこの変化の激しい時代でのたすきの渡し方というのは非常に大事だというふうに考えてきました。そういう意味でこの市政という駅伝競走の中で次の区間を走る方の、その次の区間に対する認識というのは非常に大事だと思っていて、たすきの渡し方も非常に大事だと思っていて、そういう意味ではその次の区間の意味というのをしっかりと理解をしておられるなというふうに感じている鈴木候補にたすきをしっかりと渡すということの意味で、あえて支持ということを今回お話しさせていただいたということです。

新市長へのメッセージ 2

記者(NBC)
 市政は駅伝だとの考えを示されておりますが、これから鈴木さんが走るコースはどのようなものになると思われるでしょうか。

田上市長
 昨年12月9日の市議会での互選に出馬しないという表明をしたときにも申し上げたのですけども、次の区間というのはこの今100年に一度と言われているいろいろなまちづくりを完成させていく時期に当たると同時に、やはり既にその使い方・生かし方の議題に入っているというふうに考えています。そういう意味ではその使い方・生かし方の議題を早い時期からしっかりと組み立てて取り組んでいく、これは非常に大事なテーマになりますので、これはもう少し時間のかかるテーマですのでそれをしっかりと組み立てて、そして基盤を生かしながら長崎のまちにたくさんの笑顔をつくっていただくという、そういう時期に入ると思っています。

16年間を振り返って 2

記者(長崎新聞)
 先ほど印象的に思ったことというところで、より具体的に例えば、出来事だったり事業だったり、そのあたりをお伺いできないでしょうか。

田上市長
 いろいろとありますけど、具体的に例えば1つを挙げるとすれば、出島メッセ長崎の建設に関しては、まずその必要性の議論は既に1期目のときから始めていました。委員会をつくってご議論いただくというところからスタートしたわけですけども、そういう意味では完成して開業するまで10年以上の時間をかけています。そういう意味でもすごく順調に進んできたということではなくて、山あり谷ありというプロセスを経ながらたどり着いた開業だったわけで、そういう意味ではそのプロセスについても全力で取り組んできた11年間だったと思いますし、非常にその1つの事業としても印象に残っている事業です。

記者(長崎新聞)
 市民の皆様の中には出島メッセ長崎については箱物重視だという批判の声もありますけど、それについてはいかがでしょうか。

田上市長
そうですね、そういういろいろなお声が必要性も含めてあるということで途中のプロセスの中で2回にわたって全市内を回って説明会を開催するというようなプロセスも、その中では含まれています。そういった理解を求めながら前進してきた結果建設、そして今開業ということに至ったということだと思っています。そういう意味では出島メッセ長崎にかかわらずですけども、箱物という言い方はレッテル貼るような形の言い方でもあると思うのですけども、私が16年間の中でやはり次の時代の基盤をつくるということを1つのミッションと考えて進んできました。その次の時代の基盤をつくるというのは決してハードだけではなくて、ソフト面も基盤になっていきます。そういう意味では例えば地域コミュニティの仕組み、それから市役所の仕組みをそれぞれにつくって、そしてそれを連動させていくような仕組みというのも非常に大きな基盤になっていくと思いますし、経済についても例えば、観光といったような分野についていろいろな取組をしながら・・・を創設し、また宿泊税がスタートをしてといったようなことも含めたそういう仕組みも全て次の時代に向けた基盤であると思っていますし、そういったもの進めてきた、先ほど時代に合わせて変えていく、進化というお話をしましたけども、具体的にはそういったいろいろな事例が上げられると思っています。ですから単に箱物を造ることが目的ではなくて、その先を見据えて、その基盤となるものとしてやはりハードが必要だったということだというふうに思っています。そういうテーマに関しては時々例えでお話をするのが、女神大橋は海面から65メートルという高さがあって、それを当時建設するときにどうしてそんな高い橋が必要なんだという議論はかなりあって、それでも船が大型化していくという中ではそれは必要なんだという思いを強く持って建設を実現された方たちがいて、そして実際に5メートル、10メートル低い橋があるところでは、それをくぐれない船があって、港の外に止めざるを得ないという状況もあったりしてきています。そういう意味では65メートルという高さに造っていただいたおかげで大型化した船が松が枝町まで入ってきて着けるわけで、やはりハードというのはその次につながる物語を決めていく、規定していく、制限していく、あるいはつくっていく、そういう役割があります。決してハードはゴールではないわけでそういう意味では、しかしハードの役割というのは非常に大事だということは言えると思っています。

今回の市長選について 2

記者(長崎新聞)
 先ほども市長選のお話で質問が出ておりましたけれども、今回投票率が戦後最低になってしまったということについての受止めをお伺いしたいと思います。

田上市長
 そうですね、投票率が少しずつ低下しているということ、これはやはり非常に重要な変化の1つだというふうに思っています。もっと多くの皆さんが市政に関心を持って、そして投票という形で参画をしていただくという流れになっていくことは非常に重要だと思いますし、これからもそういう意味では市政の動きをお伝えしていく、今どういう考え方で何が進んでいるのかというようなこととかもお伝えしながら市政に関心を持っていただく、あるいは若い皆さんにも参加をしていただく、そういった動きの中で市政への関心が高まって投票率の向上につながっていくということを今後期待したいというふうに思っています。

記者(長崎新聞)
 それと鈴木さんを今回支持された理由について先ほどおっしゃっていましたけれども、結果からいうと前回市長の得票数からすると2万票ぐらい少なくなってしまっているということで、見方として今回現市政に対する不満というものが市民の中にあって、それが一定ほかの候補に流れたのではないかという声もあるのですけど、その点についてはいかがでしょうか。

田上市長
 今回の選挙の得票の意味というのをどんなふうに考えるかは分析が必要だと思いますし難しいと思っていますけども、おっしゃったようなこともあるかもしれませんし、また新人同士の戦い、選挙であったということを考えると、やはりそれぞれの人となりであったり、それぞれの政策であったりを十分咀嚼していくといいますか、そういう時間も十分ではないというか足りなかった部分というのはどうしてもあるかと思いますし、いろいろな要素、それから例えば県議戦・市議戦の結果等も含めてやはり若い皆さんに期待するという、若い皆さんにチャンスをというような気持ちというのは社会全体にあると思いますし、それはある意味正しい方向でもあると思っていますし、そういったいろいろな要素がからんでいるのではないかなというふうには感じています。

新庁舎建設について

記者(NIB)
 先ほど出島メッセ長崎のお話が今あったのですが、今回この市役所の庁舎の建設をめぐっては公会堂については解体に対して反対運動も起こっていました。これも先ほど上げられた時代の変化に合わせた進化の1つだったとお考えなのか、またそれが改めて必要なものだったとお考えなのかをまずは教えていただけますか。

田上市長
 新市庁舎は今年の1月4日から開庁をさせていただいております。9つに分散していた庁舎を今回1つに集めて造ったと、その意味というのはやはり各部局間の連携というのが非常に大事になっていて、1つの課だったり1つの部で解決しない問題が非常に増えている、むしろそちらのほうがスタンダードになっているという状況があって、そういう意味では各部局が連携強化をしながらそれぞれの課題に向かっていくということが非常に大事な時代になっています。そういう意味で今回全員集まれということで、全員ではありませんけどもこの新庁舎に集まって、そして連携をしながらそれぞれの課題に取り組んでいくということが始まっていると思いますし、やはり既に職員からもそういう連携はしやすくなったという声が出てきています。これは非常に重要なことだと思っています。また立地の場所については、長崎というまちが非常に平地が少ないまちで、ある程度まとまった土地というのはそんなにたくさんないという中でどういうふうにまちづくりを進めていくのかというのは、なかなかシンプルに皆さんがここだろうというふうになっていくのは難しい部分がありますけども、そういう意味ではこれからもいろいろな工夫をしながら、またタイミングもずれるともうあと50年、60年動けないということにもなりますので、そういったタイミングも考えながら進めていく長崎のまちづくりというのは、これからも続いていくというふうに思っています。

まちづくりについて 1

記者(NIB)
 先ほど時代の変化に合わせた地域づくりというのも1つ上げられたかと思うのですけど、これは具体的にどういったことを指しているのか教えてください。

田上市長
 地域懇談会のような形で地域を回って、地域の皆さんとお話をしていく機会がありますけども、特に1期目に回ったときに割と共通に聞かれた課題の1つがやはり自治会の役員の成り手がいないということであったり、あるいは会員が減少しているといったような状況があって、そういった地域コミュニティーの在り方というのは、地域での暮らしやすさをつくっていく非常に大事な部分なのですけども、そこが非常に難しくなっているという状況がありました。その中で自治会への加入促進を図るということを一生懸命にやってきて、今もやっているわけですけども、やはり同時にもう少し大きなエリアでコミュニティーの活動を進めていくというような取組が必要ではないかということで地域コミュニティ連絡協議会というような仕組みを小学校区単位、連合自治会単位でつくるという取組を始めています。市内全体でいうと6割を超えるところが既にできたか、あるいは今つくっている途中という形でそういう方向に進んでくれています。そういう地域のコミュニティが基盤となって、そこと市役所が一緒になって地域の暮らしやすさを、それぞれのまちに合った暮らしやすさをつくっていくということが非常に大事なことでそういう地域という単位で見るという意味で市役所の仕組みも併せて同時に変えて、北部・東部・南部・中央に総合事務所をつくって、そして地域センターがそこにそれぞれ所属してという形で二重の地域センターをつくって各地域を地域として見ながら一緒に地域の皆さんとまちづくりをしていくというような取組を進めてきた。これが16年間の取組の一つだと思っています。

16年間を振り返って 3

記者(日本経済新聞)
 長崎の土地柄としては、割と控えめの方が多いというのはよく分かってますが、できれば16年間の自分の成果を、こういうことやったということをそういう視点からお話しいただきたいんですけれども。1つは経済政策で交流人口の増加。先ほど、箱もの「出島メッセ」もありましたが、いろいろ「ナイトタイムエコノミー」とか「DMO」とかやられてました。ご自身16年間で交流人口の増加に関して、どういう成果があったというふうに見てらっしゃいますでしょうか。

田上市長
交流人口の増加に関しては、うちも職員時代に3年ほど観光の仕事をさせていただいた時期があって。やはり観光のこれからの在り方というのが少し新しくなっていかないと時代と合わなくなってきているということは職員時代から感じていました。そういう中でいろんな取組を「長崎さるく」から始まる、要するに「長崎さるく」というのは団体中心が長崎の観光だったのを個人メニューをまず用意して、個人対応あるいは小さなグループに対応できるような観光の在り方を長崎でまずつくっていこうというところから始めたのがまず「長崎さるく」だったというふうに思っています。
そういうところから始めて、それから資源磨きという意味では世界遺産が2つ誕生したりですとか、あるいは出島を表門橋から入れるようにして、出島の入場者もその当時からするとかなり増えています。そういういろんな取組を、資源磨きをしてきた。それから「まちぶらプロジェクト」というような形で、今度「さるく」だけじゃなくてまちの保護。少し手を入れて特に長崎の歴史と文化があるまちなかに関しては、それぞれの地域の個性を見える化していこうというような取組を進めてきた。それからインバウンドの皆さんを迎える体制も整えてきたり。それから最後、そのMICEの動きであったり、それから今度DMOをつくって宿泊税を創設してといった一連の動きの中で、新しい時代の新しい交流の在り方。もっと戦後から続いてきた国内観光客だけを相手にするという観光の形からもっと広く、会が理由で来る皆さん、あるいはサッカーの試合を見にくる皆さん。そういういろんな理由で長崎に来る皆さんや富裕層の皆さんなどを増やしていく、交流の幅を広げていくという取組を一連ずっとやってきたというプロセスだったと思っています。
こういう動きは今度にもまた、まだまだやることはたくさんあって。先ほどお話いただいた「ナイトタイムエコノミ―」の動きなどもまだまだこれから本格化していく必要があると思いますし「まちぶらプロジェクト」のようなまちの面白さというのを見える化していくということはまだ道半ばだと思っています。この分野はまだまだ伸び代がある分野ですので、今後ともしっかりまた新市政の中でも取り組んでいただけるものというふうに思っています。

平和行政について 2

記者(日本経済新聞)
 「長崎を最後の被爆地に」という、いわゆる核兵器を全廃するということなんですけれども、特にここ数年を見てもウクライナから始まって、核兵器禁止条約もありました。田上市政の中でこの点に関して、海外発信というような視点も含めてどのような役割を果たしてきたかについてお話しください。

田上市長
 核兵器をめぐるこの16年の動きというのは、非常にめまぐるしいものがあって、そして必ずしもいい方向に進んでいるとは言えない状況も生じてきています。その中で、一方で被爆者の皆さんの数が少なくなっていくという状況もあります。そういう中で、時代認識として被爆者がいなくなる時代が近づいている。被爆者のいる時代の終わりが近づいているという時代認識をベースにして、いなくなった時代にもきちんと実装を伝え続けていけるような体制づくり、仕組みづくりをどう進めていくのかというのは私がたすきを持たせていただいたこの16年間の一つの大きなテーマでありました。そういった取組を多くの皆さんの参画を得ながら少しずつ進んできているというふうに思っています。
一方で、先ほどご質問のあった発信という面でもやはり国連に行ったり、あるいはいろいろな国の皆さんとお話をしたりする中でもやはり広島・長崎の役割というものは大きいものがあるということを改めて外に出て活動するごとに強く感じるようになってきています。そういう意味では、今後も広島と連携しながら核兵器の実装をしっかりと伝えていく。そして核兵器のない世界を訴えるというのが決して広島・長崎が過去の話をしているんではなくて、今と未来のために。そして世界中のために、人類のためにお話をしているんだという、発信をしようとしちるんだということを分かっていただく。その努力はますます重要になってきていると思っています。被爆者の皆さんが一番先頭に立って発信をずっと続けてきてくださったわけですけども、そういう皆さんがいなくなっていく中でどうやって伝えていって、そしてこれが人類全体の問題なんだということをどう伝えていくのかというのは、これもまた次の市政にもつないでいただく必要のある大変重要な広島と長崎が持っている使命だというふうに思っています。

記者(KTN)
 田上市長、16年お疲れさまでした。
 まず1点目、平和行政についてなんですけれども。田上市長は、被曝体験者の救済について、何度も国に要望活動を行ってこられました。ただ残念ながら、真の救済というところまではつながっていないようにも感じます。そのあたりの田上市長、ご自身のお受け止めと、次の鈴木市長に求めていきたい平和行政の引継ぎというところを教えてください。

田上市長
 今のお話は平和行政の中でも被爆者援護の部分だと思うんですけれども、被曝体験者制度が生まれて、そしてそれが一時期少し制度が使いにくい制度になっていた時期があって。まず被曝体験者制度に関して取り組んだのはそのことでした。それを記憶がないといけないというようなルールがあった時期があって、それを戻すのが最初の取組だったというふうに記憶しています。それが少し改善をされて、そしてその後も被曝体験者の皆さんに対する援護の拡充についてはずっと継続的に取組をしてきました。これは長崎独自の制度ですので、そういう意味では長崎単独で取り組んできた動きです。そういった中で、昨年岸田総理が長崎に来られたときに医療の分でかなり制度を前進させるようなご発言をいただいて、実際に今年そういった新しい制度が進んでいます。これは多くの皆さんが対象になるという面でも、また疾病が幅広く対象になるという点でもこれは大きな前進だというふうに思っています。
それとは別に被爆者の広島の黒い雨訴訟を起点とした、また新たな課題が生まれてきていまして広島と違う制度になってきたということは、またそれは新たに出てきたある意味課題であって、それについてはまた別のものですのでその課題については、引き続きしっかりと取り組んでいく。これはもちろん市政が、市長が変わっても取り組んでいただけるものだというふうに、課題だというふうに思っています。

まちづくりについて 2

記者(KTN)
 まちづくりについて、重なるところもあると思うんですけれども最初、当選なさったときに思い描いていた、これから長崎が進むまちというのも想定されていたと思いますけれども、いろんな市庁舎が建ったりとか、駅前も変わったりとか、いろんなところが変わってきました。時代の変化に対応していくというスタイルで田上市長は進められてきたと思いますけれども、今の長崎のまちというのは田上市長にとってどういうふうに映ってますか。何かご自身が思い描いてきたものと、それを確実に実現してきたというところのほうが大きいですかね。

田上市長
 ハード面というご質問だと思うんですけれども。就任する頃はハードの問題というのがこれほど大きな部分を占めるというふうなイメージがあまりできてなくて。むしろソフトを充実させていくことで、長崎のまちをもっと魅力的にそれを発信しながらまちづくりを進めていくというイメージが強かったんですけれども。実際に就任して、今の時期がどういう時期かということを整理していく中ではやはり基盤をつくっていくという時期、次の時代の基盤をつくるということがやはり非常に大事な時期だという認識に至って、そういった部分を中心に進めてきたということがあります。
いろんな市政を進めるときに時代認識がまず基盤になるというふうに常に思っています。そういう意味では、今の時代というのを整理していく中でやはり長崎のまちづくりが次の時代にも元気なまちであり続けるためには、先ほど終わった事例も出しましたけれども、いろいろ手を入れないといけない、しかもそれはタイミングがずれるとなかなかうまくいかないことも多いので、この時期にそういうハード面の整理についてもできるだけのことをしておかないといけないということで、いろいろハード面の整備についても力を尽くしてきたというのが正直なところです。そういう意味では、ハードの上にこれから様々なことが企画として、仕掛けとして起こしていけるし、そこに多くの皆さんに参画していただきながらまちを元気にするというのが、これから始まっていくわけで。それもすごくやりがいのある仕事だと思いますので。そういう意味では時間もかかりますし最初から、できるだけ早い時期から組み立てていったほうがいいというふうに思いますので、次の市政にその新しいテーマに取り組んでいただくためにも今の時期の交代というのが適切ではないかというふうに考えたということです。

記者(KTN)
 基盤を整備した16年間だったというところで、これから先、次の市長にソフト面も含めてどういうふうに進めてもらいたいかというところと、あと少し離れた立場から長崎を今度はご覧になると思いますけれども、どんなまちにあってほしいなというふうに思いますか。

田上市長
 まちの使い方、生かし方という面では、いろんな制度が可能になって新しくなってきていて、例えば、道路なんかでもテラスのような店舗の一部として、テーブルといすを出して使うとか。そういったようなこととかが可能になったり、あるいは「Park―PFI」のように公園の中にお店を造って、あるいはカフェを造って、公園に過ごしながらカフェでの時間も楽しめるといったようなこととかも今可能になってきていて。そういういろんな新しいまちの使い方の仕組みというのが生まれてきていますので、そういう意味では鈴木市長は国交省におられて、そういった新しい成果なども詳しい部分もあると思いますし。また詳しい方たちとのネットワークなどもあると思いますので、そういったものを活用しながらまちの使い方、生かし方について、ぜひいろんな新しい取組を実験的にでも始めていただくというのはすごく楽しみのある分野ではないかなというふうに思っています。

記者(KTN)
 ありがとうございました。
 あと、一歩離れた立場からどういうふうにまちを見たいか。

田上市長
 一歩離れたという面ではまちづくりに関してはまだノープランなので分からないですけれども、何らか関わっていくことはあるのかなというふうに思ったりもしているんですけれども。どういうふうに移るかという面でいうと、もう少し動き始めているところもあるんですけどまちがちょっと違って見えるというか。どうしてもこの16年間は、車に通るにしても、何かここはこういう課題がある、あったなとか。ここにはこういう方がいらっしゃったなとかという、いろんなことをどうしても仕事と直接結びつけて風景を見るという感じが続いてきたんですけれども。改めてちょっと違う、本当に一市民といいますか、もともとそうだった長崎のまちの一ファンというような自分が見ると、やっぱりきれいなまちだなというふうに思いますし、すごく魅力があるまちだなというふうに思います。そういう視点が少しずつ変わっていくのもまたちょっと楽しみにしているところです。

平和行政について 3

記者(毎日新聞)
 平和宣言についてお聞きしたいのですが、2007年以降読まれてきたと思います。それで例えば、2015年、戦後70年のときなんかは安保法制をめぐって国論も二分されて、その中でいろんな方が長崎の平和宣言に注目し、2015年も含めてやっぱり場合によっては時の政権に対しても市民の意向を踏まえて、平和宣言のメッセージを越えていくのはならないという年もあったと思うんですが、その点に関して今だから言えるというあれですけど。いろんなプレッシャーとか責任感とかですね、そういったことというのは何かお感じになりながらの平和宣言と向き合った16年だったんでしょうか。よろしくお願いします。

田上市長
 平和宣言については起草委員会の皆さんといろいろ議論しながら、お話を伺いながらつくっていく長崎の起草委員会方式の中でつくり上げていくわけなんですけれども、本当に一年一年全力を尽くしてきたという感じがしています。これは来年に取っておこうとかそういうことはなくて、とにかく今年の今の状況の中でベストの平和宣言をつくろうということに全力を尽くしてきた。これは起草委員会の皆さんも含めてだと思いますけども毎回、毎回燃え尽きるような形で全力を尽くしてきたなというふうに思っています。
 その中で、先ほども話があったように今年はこれについての議論が多い。例えば、東日本大震災のときであったり。先ほど、お話のあった公舎のこともありましたし、ウクライナのこともありました。核兵器禁止条約の動きがあったこともありました。その時々の動きをしっかり捉えながら今、長崎から何を発信すべきかというテーマを共有しながらつくってきたという気持ちです。そういう意味では、本当に一年一年100%出し尽くしてきたという感じがあるんですけれども、その一年一年の中でもやはりどのことをどういうふうに言うのかというのは難しい部分があります。起草委員会の皆さんが市民の全ての意見でもなくて、その周りにもたくさんの市民の皆さんがおられるわけで、そういう方にも思いもはせながら今年、長崎が発信すべき言葉はどういう言葉なのか、どういうメッセージかということを常に起草委員会の皆さんの意見を聞きながら、周りのことも考えながら今、発信すべきはという、長崎から発進すべきは、ということを考え続けてきた。その中では、せめぎ合いがあった。東日本大震災のときにもやはり原発に関する捉え方も含めてせめぎ合いがありましたし。常にこれからもそういうせめぎ合いの中でつくられていくものだと思いますし。そのせめぎ合いをしっかりと受け止めながらつくっていくことで、メッセージとして強くなっていくのではないかなというふうに思っています。

今後について 2

記者(毎日新聞)
 そのような難しいお仕事をされてきた田上さんだからこそ、やっぱり今後どうされるかという注目もどうしても集まってしまうと思うんですけど。先ほど、ノープランだというお話がありましたが、一方でその前には政界を引退するというお話もあったようにお聞きしているんですけれども。政界ということであるともう政治には携わらないということになりますと、一般的に解釈されると思いますけれども。ノープランだというと、別の形でまた国政なり、そういう形で政治に携われる可能性は排除しないというふうに我々新聞記者には聞こえるんですが。その点は、いろいろ注目される田上さんだからこそ、あえて念押しでお聞きしたいんですが、いかがでしょうか。

田上市長
 ノープランなので、今例えば、これにこういう参画の仕方もいろいろあると思うんですけど、何かの選挙に出るということをどこかで考えていると、具体的に少し考えているということはありません。そういう意味でないということです。本当のノープランで自由に、フリーになる中で。またこれまでできることも多い中で、できないことも多かった部分もありますので、そういう意味ではできなかったこともしたりしながら少しリフレッシュする中で次のことは考えたいなというふうに思っています。

記者(朝日新聞)
 今後のことなんですけれども、今日で市長は退任されると付随していろんな役職がついていたと思うんですけど、平和市長会議副会長とかですね。そういったことも全て降りることになると思います。明日から田上さんの肩書というのはどういうふうになるんでしょうか。

田上市長
 肩書はなくなるんじゃないですかね。何か残るかな。いや、「地域力研究会」という後援会組織の仲間の皆さんとつくっている組織がありますけど、その代表みたいなのは残ると思いますけどそれぐらいですかね。県市長会、県の市長会等も含めて長崎県調査振興協会というのがあるんですけれども、それは理事会が終わるまでなので6月ぐらいまで続くのかと思いますけれどもそれ以外は全てなくなると思います。前長崎市長ですか。

記者(朝日新聞)
 今まで今後について、ノープランでフリーで自分の自由な時間でできなかったことをしていきたいということですけど今までできなかったことで、これからしたいと思っていることって、もし考えがあればですけど教えていただけますか。

田上市長
 まず1つ、1人で散歩したいというのがあるんですけど。散歩も1人で歩くのが基本的にあまり好ましくないということで控えていた部分がありますので。そういうところから始まって、いろいろなところも見てみたいという。なかなかいろんなまちづくりに興味があっても見に行く時間というのが現実的になかなか取れなかったりしている部分もあって、そういう意味ではいろんなまちの動きや新しい試みなども見てみたいという気もしますし。そういう興味のある部分に少し、映画も見てみたいという気もしますし。そういったことをしばらくしながらあまり決めつけずに何かに注力する、どうしても貧乏性なのでそちらに気持ちが集中してもっともっとと思ってしまう部分もあるので、そうならないように結構フリーなスタンスで過ごす時間を持ちたいなというふうに思っています。

記者(朝日新聞)
 1980年に23歳で入庁してから数えたら42年と6か月で市役所を去るわけですけど。明日1日の予定って決まっているんでしょうか。

田上市長
 正確には42年、ほとんど7か月という感じなんですけど。明日は夜にまだ行事があって、そこに参加することになってますけども。昼間は予定ありません。あ、引継ぎの関係がありました。それだけです。

平和行政について 4

記者(共同通信)
 平和宣言についてお尋ねしたいんですけれども。16年間任期中の中で大きな動きとして核兵器禁止条約の採択と発行というのがあったと思います。これに向けて市長がどういうふうに取り組まれてきたか。その取組はどういうふうな成果があったか。そして改めてになりますけれども、新しい鈴木市長に今後託していきたいこと、この3点についてお聞かせください。

田上市長
 核兵器禁止条約については1990年代、20世紀の頃から平和宣言の中でもいろんな名前は少しずつ違うんですけれども、こういった条約が必要だということが発信をしていってます。しかし国連の場でも20世紀の1990年代に提案をされたことはあるんですけれども、それが現実のものになるためには多くの国の賛成が必要なわけで、それが現実のものになるということはあまり考えられてこなかったんですね。それが実際に小さな国が中心になって、集まって条約を成立させ発行させたというのは本当に世界の歴史の中でも記録に残るべき大きな出来事だったと思います。国連の歴史の中でもない大きな出来事だったというふうに思っています。その中でそれに強く反対する動きというのも核保有国を中心にありました。その中で、広島・長崎はこの条約をつくるべきだということで、当初からそういう国々と一緒になって、連携をしながら発信をしてきましたし。実際にそういう中で、中心になったお一人がクメント大使、第1回びわ湖会議では議長を務められましたけれども、そういう皆さんを初めとする皆さんとネットワークをつくりながら、あるいはアイキャンの皆さんともネットワークをつくりながらこの条約ができる力になろうというふうに取り組んできたという経緯があります。そういう意味では、被爆地が参加する、参加しない。あるいは被爆者の皆さんが参加する、参加しないというのはやはりこの条約にとっては非常に重要な意味があったと思いますし、実際にその条約の中でも被爆者に言及されている部分もあります。そういう意味では広島・長崎としてはすべきことをしてきたというふうに思っています。
また鈴木新市長についても、これまでの選挙戦の中でもそういった核兵器禁止条約の必要性であったり、あるいは市にオブザーバー参加を求めていくといったようなことも言われていますので、基本的な方向性というのはこれまでと連続した形になるのではないかなというふうに思っています。

新市長へメッセージ 3

記者(NHK)
 市長として16年間過ごされる中で、困難な時期というのも多かったかと思うんですけれども、そういう意味で次の鈴木市長には多くの方と会って、直接お話を聞いてということを言われていましたが、これから市政を担う鈴木さんに対してアドバイスがあれば教えてください。

田上市長
 いや、もうしっかりした方なので特にアドバイスということはありませんけれども、やはり先ほどお話しした現場がまず大事だと思いますので、そういう意味では特に長崎の市は周辺の7つの町と合併して市域が非常に広くなっていて、熊本市よりも福岡市よりも広いという面積を持っていますので、やはり市域を回って現場をまず知るというところがスタートだというのは基本だと思っています。
それからもう1つ、やはり私も市政を16年間、市長として勤めさせていただいて、信頼関係をつくっていくということがやはり市政のベース。これは職員の皆さんとも一緒になって信頼関係をつくるということがいろんな仕事がスムーズに進んだり、あるいはいろいろなトラブルを越えていくためにすごく重要なので、そういう信頼関係づくりというのがやはり最も基盤になるというふうに実感をしてきました。そういう意味では誠実な方ですので、そういう信頼関係を、現場を回ることで信頼関係をまずつくっていくということがスタートとしては非常に大事なのかなというふうに思っています。

16年間を振り返って 4

記者(NHK)
 もともと市の職員だった田上市長が今もう気づけばといいますか、もう16年間も市長を務められてきたわけですけれども、この16年間のご自身への評価としてはどのように、言葉といいますか、どのように自分を評価してあげたいですか。

田上市長
 市政の評価という意味では、特にまちづくりといった時間のかかるものについては評価もこれからやはり10年、20年たっていく中で定まってくる部分があると思いますので。市政の評価というのは自分で点数など考えたことはないんですけど、一方で自分への評価という意味でこれはあまり意味がないというか、ことなので考えたことはありませんけれども。ただ、自分なりに全力を16年間尽くしたという充実感は残っています。

記者(NHK)
 すみません、最後ということなので、今日本当はもっとお話ししたかったことですとか、これから恐らく公に出されることの回数というのは減っていくかと思いますが、言い残したことなどありましたら教えてください。

田上市長
 職員時代から通算すると42年7か月、市役所に籍を置かせていただいたんですけれども、最後の16年間、市長という仕事をさせていただくに当たっても、どんなにまちを見ていく中でもやはり長崎というまちは本当にすばらしいまちだと思っています。16年間、市長として仕事をさせていただく中でますますその思いは強くなっています。このすばらしいまちを未来にももっとすばらしいまちにしていける、そういう伸び代もたくさんあると思っています。市民の皆さんもそういう長崎の価値を若い子供たちも含めてみんなで知って、そしてみんなで参画してこのまちをよくしていくということが、そのためには一番大事なことだと思っていますのでぜひこれからもまた新市長と一緒になって長崎のまちづくりにいろんな形で。先ほどお話のあった地域コミュニティに参加することもその大事な一つだと思いますし、いろんな企業活動を通してだったり、いろんな活動を通してだったりすると思うんですけどもいろんな形で参画をしていただいてオール長崎で、鈴木新市長が言われていますようにオール長崎で長崎のまちをよくしていく、もっとよくしていくという流れをつくっていただければなというふうに思っています。

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