文・宮川密義


日蘭交流400周年の平成12年(2000年)から10年過ぎ、2010年は410年目に当たります。オランダの文化は中国文化とともに、長崎市民の生活に浸透していますし、長崎の歌の大部分に“オランダ”が登場しています。題名に「和蘭陀」「阿蘭陀」「オランダ」「おらんだ」を付けた歌だけで40曲、歌詞に取り入れた曲も含めるとかなりの数にのぼります。
歌の中のオランダについては、バックナンバー32「“長崎のオランダ”を歌う(上)」と33「“長崎のオランダ”を歌う(下)」で取り上げましたが、今回から続編として、それ以外の歌の中から数曲、年代順に紹介することにしました。
 

1.「阿蘭陀船の唄」
(昭和11年=1936、山田としを・作詞、南 良介・作曲、東 光子・歌)


この歌が出たころには「和蘭陀船」(昭和6年=1931=4月、西岡水朗・作詞、藤井清水・作曲、羽衣歌子・歌)や「阿蘭陀船」(昭和8年=1933=、北原白秋・作詞、山田耕筰・作曲、ベルトラメリー能子・歌)が出ており、特に白秋の作詞による「阿蘭陀船」は昭和12年に童謡歌手、大川澄子の歌でもレコードが出るなど、オランダ船に関心が高まりました。
この「阿蘭陀船の唄」もその流れで作られたようです。1節では「〜なみだ長崎 南蛮寺の 鐘を合図に発つそうな」と歌っていますが、“南蛮寺(なんばんじ、なんばんでら)”は室町末期〜安土桃山時代、日本各地に建てられたキリスト教寺院のことです。
ちなみに、“南蛮人”はポルトガル人やスペイン人、イタリア人のことで、オランダ人はイギリス人と共に“紅毛人(こうもうじん)”と呼んで区別していました。


2.「おらんだ草紙」
(昭和16年=1941、野村俊夫・作詞、古関裕而・作曲、霧島 昇・歌 )


服部富子の「オランダ娘」(昭和15年)の影響か、翌16年にはオランダものが2曲出ています。霧島昇が歌うこの「おらんだ草紙」は長崎の異国情緒をたっぷり歌い込んだもので、古風な描写。「戦陣訓」で戦意高揚が図られる時期にしては、のんびりした歌でした。


中島川河口の玉江橋から見た
出島和蘭商館跡


3.「長崎のオランダ娘」 
(昭和26年=1951、吉川静夫・作詞、吉田 正・作曲、平野愛子・歌)


出島のオランダ商館は男性だけの世界でした。平戸の商館時代はオランダ人が夫人を同伴することは許されましたが、出島では全く許されなかったようです。女性で出島行きを許されたのは長崎の遊女だけでした。
安政2年(1855)の日蘭和親条約の締結でオランダ人の出島拘束は解除され、同5年の日蘭通商条約の締結で日本人も出島に自由に出入りが出来るようになります。が、オランダ商館は安政6年に廃止されており、歌に出てくる“オランダ娘”は幕末から明治以降に長崎市内に住んでいたことになります。


「長崎古今集覧名勝図絵」(長崎文献社刊
復刻版) に描かれた「遊女出島ニ行クノ図」
(部分)


4.「別れのオランダ船」
(昭和27年=1952、阪口 淳(さかぐち・じゅん)・作詞、服部良一・作曲、服部富子・歌)


服部富子は作曲家・服部良一の妹。宝塚の舞台に立っているうち、昭和13年(1938)にテイチクに入社、デビュー作の「満洲娘」が大ヒット。15年には「オランダ娘」のほか「愛国娘」「銀座娘」「北京娘」「南京娘」などを出し、戦前を中心に活躍しました。
戦後はめぼしいものはありませんが、「別れのオランダ船」は長崎港を出て行く船を見送りながら恋人に別れを告げ、1人で生きていく決意をする長崎娘を、兄・服部良一の曲に乗せて歌いました。
「オランダ娘」とは対照的な情景です。




出島和蘭商館跡の「ミニ出島」
(往時の15分の1)


5.「オランダ夜船」
(昭和28年=1593、吉川静夫・作詞、吉田 正・作曲、渡辺はま子・歌)


昭和22年に「雨のオランダ坂」でヒットを飛ばした渡辺はま子は同年「じゃがたら船」、24年には「島原のあねしゃま」と「おらんだ船」、27年には「雨の長崎」を歌っていますが、28年にもA面に「長崎の唐人祭り」、B面にこの「オランダ夜船」を入れたレコードを出しています。
この歌が出た28年には長崎ものが28曲出ていますが、17曲はオランダや中国、異人屋敷ものなど、鎖国時代に貿易で賑わっていた長崎のエキゾチックな風景を描写した歌でした。
なお、戦後8年を経た長崎の街はまだ原爆の惨禍が色濃く残っている状態でしたが、原爆・平和を歌ったものは4曲止まりでした。


出島和蘭商館跡に復元された
「カピタン部屋」


6.「雨のオランダ屋敷」
(昭和31年=1956、牧 喜代司(まき・きよし)・作詞、水時富士夫(みずどき・ふじお)・作曲、西村正美(にしむら・まさみ)・歌 )


西村正美は戦後、ゼンマイ仕掛けのおもちゃなどを作っていましたが、歌手にあこがれて音楽学校に通い、昭和25年春「青春エレジー」でビクターからデビュー。小畑実に似た声で期待されましたが、うまく火がつかず、マーキュリーに移籍、再起を図りました。
この歌は、夕暮れのオランダ屋敷の曼珠沙華(彼岸花)に、はかない恋の雨が降る〜やや観念的な詞ですが、軽快なメロディーで聴かせました。
なお、長崎の異人屋敷を歌い込んだ歌も数え切れないほどで、異国情緒の表現には欠かせない要素ですが、ヒット曲「長崎物語」に代表されるように、そこに“雨”が降ると“長崎らしさ”に厚みが出るわけで、長崎の歌では随所に登場する風景です。

観光客でにぎわう出島和蘭商館跡



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