文・宮川密義


今回はJR長崎駅の裏(中之島)から駅前の西坂公園〜筑後町〜玉園町のコースで“歌さるき(歩き)”を試みます。(本文中の青文字はバックナンバーにリンクしています)

(1) 長崎観光博覧会会場跡
  中之島埋め立て地で昭和9年(1934)3月から5月にかけて、長崎観光博覧会が開かれ、それにちなむ歌が数多く作られました。(「長崎観光博覧会のころ」
(2) 日本二十六聖人殉教地跡
  鎖国時代に起こったキリシタン弾圧による日本最初の殉教者26人が処刑された場所がここ西坂の丘でした。(「禁教の悲劇を歌う」)歌は、聖人の1人で12歳の最年少者、ルドビコ茨城を歌う「ルドビコさま」があります。
(3) 本連寺の「南蛮井戸」
  筑後町の本連寺には、サン・ジュアン・バウディスタ教会がありました。庭内には南蛮人が掘ったといわれる「南蛮井戸」が残っています。
(4) 福済寺
  禁教時代、キリスト教徒でないことを証明するために建立されました。
(5) 聖福寺の「じゃがたらお春の碑
  玉園町の聖福寺には禁教時代の混血児の追放という悲話が秘められた「じゃがたらお春」の石碑が建っています。(「禁教の悲劇を歌う」

【長崎駅〜玉園町周辺マップ】


(1)長崎観光博覧会会場跡

昭和9年(1934)3月から5月にかけて、長崎駅裏の中之島埋め立て地を第一会場に、雲仙を第二会場にして開かれた観光博覧会(正式名称は「長崎国際産業観光博覧会」)のイメージソングは12曲作られました。
観光博覧会を直接歌ったものは「長崎観光博覧会の歌(横山良三・歌)」と「崎陽小唄」(赤坂小梅・歌)(いずれも「長崎観光博覧会のころ」)の2曲ですが、博覧会にちなんだ歌はほかに次の10曲ありました。

(1)長崎市歌(伊藤武雄・歌=「長崎観光博覧会のころ」
(2)長崎ぴんとこ節(作栄・歌=「古き良き時代を歌う」
(3)長崎音頭(小唄勝太郎・歌=「長崎観光博覧会のころ」
(4)長崎小唄(藤山一郎・歌)
(5)長崎恋しや(市丸・歌)
(6)長崎スッチョイ(三島一声・歌=「長崎観光博覧会のころ」
(7)長崎音頭(美ち奴・歌)
(8)南蛮小唄(山路不二男・歌)
(9)雲仙音頭(金春勝丸・歌)
(10)招く雲仙(東海林太郎・歌)


観光博のペナント

博覧会の中之島会場は国鉄の石炭置き場として埋め立てられていた約8万9千100平方メートルの敷地を利用したもので、ここに産業貿易館、文明発祥館、演芸館などが建ち並び、大勢の人出で賑わいました。今も長崎くんちなどで踊られる「阿蘭陀万歳」も、ここで初めて披露されました。
長崎の第一会場から第二会場の雲仙への“足”として、長崎の東望の浜から小浜町の海岸まで、6人乗りの水上飛行機も飛んでいます。
なお、長崎駅にちなんだ「鉄道唱歌」はバックナンバー「長崎と鉄道唱歌」に詳述しています。


71年前、観光博覧会が開かれた現在の中之島
右手のビルはアミュプラザ、後方の山は彦山


1.もう一つの「長崎音頭」

(昭和9年=1994、平山蘆江・作詞、斎藤佳三郎・作曲、美ち奴・歌)


前述のように、長崎観光博覧会にちなんだ歌は12曲作られ、特に「長崎音頭」(小唄勝太郎・歌)は「東京音頭」(「長崎観光博覧会のころ」)と同じ作詞、作曲、歌の人気トリオによる歌で、踊りの振りも付いて、長崎市民を熱狂させるほどに人気を集めましたが、同じ年、長崎出身の作家、平山蘆江(ひらやま・ろこう)が作詞したもう一つの「長崎音頭」が浅草美ち奴(あさくさ・みちやっこ)の歌でからレコードが出ています。
美ち奴は芸者出身の歌手で、昭和11年「あゝそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」の大ヒットで知られますが、この「長崎音頭」はデビューしたばかりのときの歌です。「東京音頭」や勝太郎の「長崎音頭」に比べるとテンポが遅く、あまり知られていません。


雲仙の第二会場に見物客を運ぶため
長崎市の東望の浜を飛び立つ
水上飛行機


2.「南蛮小唄」
(昭和9年=1994、平山蘆江・作詞、斎藤佳三郎・作曲、山路不二男・歌)


美ち奴の「長崎音頭」の片面に入った歌です。「長崎音頭」と同じ作家コンビの作品で、2番と3番の間奏には明清楽「九連環(きゅうれんかん)」(「九連環の軌跡」)の替え歌「法界節(ほうかいぶし)」のメロディーがのぞくエキゾチックな歌です。
歌詞には南蛮船や唐船が出入りする頃の港と丸山の長崎情緒が描かれ、古き良き時代の長崎をベースに観光博覧会をイメージアップしています。
ところで「南蛮」はポルトガルのこと。16世紀のころ、中国ではベトナムあたりの国を「南蛮」と呼び、その海域を通ってやってくるヨーロッパ人も「南蛮人」と呼んでいました。日本でもポルトガル人を「南蛮人」と呼び、17世紀に来日したオランダ、イギリス人を「紅毛人」と呼んで区別しました。
歌詞に出ている「青餅」は丸山で売られていたアン入りの餅(一説ではよもぎ餅)のこと。よくべたついて手に付いたら離れない柔らかな肌触りだったそうです。遊女たちが商売の縁起かつぎに、よく食べていたようですが、それが転じて「切っても切れない情愛」の意味となり、彼氏や彼女のことの隠語として使われました。長崎の古い歌にはよく使われています。


作家の平山蘆江


「南蛮小唄」のレーベル


市民に最も親しまれた観光博覧会の演芸館


(2)日本二十六聖人殉教地跡

「二十六聖人」は禁教令による日本最初のキリスト教殉教者です。
かねてから南蛮国の侵略的な性格に危惧を抱いていた秀吉は、長崎開港から27年後の慶長2年(1597)元旦、京都とその近郊にいたフランシスコ会士6人とその日本人信者15名、日本人イエズス会士3人を逮捕、後で信者2人も加えられしました。
26人は耳をそがれ、京都〜大坂〜伏見〜堺で引き回されたうえ、日本で最大のキリシタンの町といわれた長崎に送られ、同年2月5日の未明、西坂で処刑されました。
26人の1人、12歳の最年少者、ルドビコ茨城は尾張の出身で、殉教の1年ほど前に洗礼を受け、京都の修道院で快活に働いていました。西坂の刑場では十字架に走り寄って接吻した後、十字架にかけられましたが、ルドビコとは一つ年上で長崎生まれのアントニオと共に、大きな声で聖歌を歌って果てたということです。


西坂公園に建つ二十六聖人像
後方は記念聖堂のシンボル塔




ルドビコ茨城のブロンズ像(右)
左は一つ年上のアントニオ


3.「ルドビコさま」
(昭和41年=1966、永井隆・作詞、石川和子・作曲、南里美瑳子・歌)


この歌は県教育委員会がレコード会社と提携して、文部省の学習指導要領に準拠した「長崎県 小学生の音楽鑑賞」レコードを制作した際、純心短大の寺崎良平(てらさき・りょうへい)教授の指導で吹き込まれたものです。
踏絵など禁教の悲劇を取り上げた歌は30曲を超えますが、二十六聖人を歌ったものはこの1曲だけです。
作詞したのは、熱心なカトリック信者で長崎医科大学レントゲン科助教授だった永井隆(ながい・たかし)博士(「原爆・平和の歌」)でした。
永井博士は著書「長崎の花〔上〕」の中で「(二十六聖人は)浦上の慈恵病院で最後の告白をいたし、心も晴れ晴れと長崎の町に入り、美しい港を見下ろす丘の上に立ち並ぶ26本の十字架に迎えられました」「この道は私の家から四、五十メートルほど離れた所を通っています」「道は大学のあたりから山すそ沿いに南に下りますが、このあたりには白梅があちこちに咲き誇り、メジロやウグイスがよく鳴いていました」「私にはそのとき、路傍の家のかげから幼い友だちが走り出て、アントニオに白梅の一枝をはなむけしたように想われてなりません」と書いています。


(3)本連寺の「南蛮井戸」

二十六聖人殉教地跡のある西坂公園から筑後町方向へ歩くと、長崎三大寺の一つ、聖林山本蓮寺があります。ここには最初、サン・ジュアン・パプチスタ教会がありましたが、禁教令が厳しかったため、「南蛮井戸」といわれる井戸に多くの神父や信者が身を投げ、あるいは投げ込まれたという悲惨な殉教が秘められています。
この井戸、現在は蓋がかぶせられていますが、当時はこの寺の下まで海だったため、一説では長崎港に出る抜け穴として掘られたともいわれています。
サン・ジュアン・パプチスタ教会が壊された後、元和6年(1620)に本蓮寺が建てられ、原爆で消失、昭和30年(1955)、本堂が再建されました。幕末には勝海舟が寄宿、幅20メートルほどの広くて長い石段でも知られます。
本蓮寺や南蛮井戸を取り入れた歌はありませんが、散策の参考に紹介しました。(南蛮井戸は庭の奥まった所にあり、見学は事前に打診が必要です)


本蓮寺の広くて長い階段



本蓮寺に残る「南蛮井戸」
(柵の向うに蓋が被せてある)


(4)福済寺

本蓮寺の隣には巨大な観音像が建つ福済寺があります。崇福寺、興福寺、聖福寺と共に“長崎四福寺”といわれる黄檗宗の唐寺です。
寛永5年(1628)、唐僧・覚悔が弟子を伴い長崎に渡来し、現在地の岩原郷に航海の神様・媽祖聖母を祀ったのが起源とされ、キリシタン禁制の取り締まりが厳しくなった際、中国人たちがキリシタン教徒でないことを証明するために建立した寺院の一つです。
建造物は戦前、国宝に指定されていましたが、原爆によって全焼。昭和54年(1979)、原爆被災者、戦没者の慰霊と平和祈念のために立てられた白銀色に輝く観音立像(万国霊廟長崎観音)をシンボルに、近代的寺院として生まれ変わりました。観音像は高さ34メートル、重さ35トンあります。
これも歌には出ませんが、散策の参考に。



福済寺に建つ長崎観音


(5)聖福寺の「じゃがたらお春の碑」

キリスト教の禁制にはいろいろな弾圧がありましたが、外国人と結婚した日本人女性と混血児たちの海外追放も大きな出来事でした。流された混血児たちが故国恋しさに、肉親や友だちに送った手紙を“じゃがたら文”と称しています。
“じゃがたらお春”は寛永16年(1639)、ジャガタラ(現在のジャカルタ)に流された混血児の中にいた14歳の少女“お春”のことです。
長崎市筑後町の子供だったことから、近くの玉園町にある聖福寺の境内に「じゃがたらお春の碑」が建っており、歌人、吉井勇(よしい・いさむ)の「長崎の鶯は鳴くいまもなほ じゃがたら文のお春あはれと」の歌が言語学者、新村出(しんむら・いずる)の書で刻まれています。
聖福寺は前述の福済寺からさらに東に200メートルほど歩いたところにあり、歌碑は境内の左手に建っています。誰が植えたか、秋には彼岸花(曼珠沙華)が伸びて赤い花を開きます。
歌では“じゃがたらお春”と“じゃがたら文”が歌われています。

聖福寺の「じゃがたらお春の碑」
お春を歌った代表曲は「長崎物語」(「禁教の悲劇を歌う」)です。ほかにも“じゃがたら文”をテーマにした歌が数多くありますが、ここでは「踏絵」の片面に入った「じゃがたら文」を紹介します。

4.「じゃがたら文」
(昭和12年=1937、大木惇夫・作詞、阿部 武雄・作曲、関 種子・歌)



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