長崎県内の歴史上の人物は、日本の写真術の開祖・上野彦馬(うえのひこま)、印刷では本木昌造(もときしょうぞう)、国防のために砲術を究めた高島秋帆(たかしましゅうはん)、外国人ではヨーロッパの植物学者で出島三学者のケンペル、ツュンベリー、シーボルト、その他、数え上げるときりがありません。
長崎の歌には歴史上の人物も歌い込まれています。
タイトルからそれと分かるものは20数曲。
例えば混血児のために国外に追放された「じゃがたらお春」のような、半ば伝説化された人物、歌詞の中にそれとなく挿入されたものなども含めると、かなりの数になりそうです。
ここでは、よく知られた歌を実在した人物の年代順に取り上げました。
(タイトルの後のカッコ内の表示年はレコードまたは作品の発表年です)
●天正遣欧少年使節
1.「光る海」
(平成2年=1990、やしろ よう・作詞、浜 圭介・作曲、歌)
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●天草四郎
2.「南海の美少年」
(昭和36年=1961年、佐伯孝夫・作詞、吉田 正・作曲、橋 幸夫・歌)
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今から約360年前の寛永14年から15年(1637〜1638)に島原半島と熊本県の天草の農民が起こした農民一揆「島原の乱」の総大将といわれた天草四郎をテーマにした歌です。
天草四郎は洗礼名をジェロニモといい、キリシタンの教えを説き、奇跡を呼ぶ天童といわれました。
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この歌が出た頃はテレビ映りのよい歌手たちがもてはやされて「青春歌謡」が流行、そのトップバッターとして登場したのが、五分刈りのヘアスタイルでハンサムな高校生歌手・橋幸夫(はしゆきお)さんでした。
天草四郎のイメージにぴったり合って、広い年齢層に受けたものです。
なお、直接的に天草四郎を歌ったものはこのほかに「天草四郎」(昭和27年=1952、霧島昇・歌)、「落城の賦」(昭和34年=1959、森繁久弥・歌)、「島原の美少年」(昭和37年=1962、大木伸夫・歌)、「天草四郎(みこ)さんの子守唄」(昭和41年=1966、ボニー・ジャックス・歌)、「殉教の歌〜天草四郎」(平成元年=1989、山口渓照・歌)、「天草四郎」(平成2年=1990、船橋一郎・歌)、「天草四郎時貞」(平成8年=1996、中村美律子・歌)、「よみがえる天草四郎」(平成12年=2000、福島竹峰・歌)などがあります。
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島原の乱の舞台「原城」に
建つ天草四郎像 |
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●坂本龍馬
3.「龍馬長崎暦」
(平成6年=1994、下田 亮・作詞、中山治美・作曲、秋岡秀治・歌)
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●楠本イネ
4.「おいね恋姿」
(昭和51年=1976年、関沢新一・作詞、サトウ進一・作曲、十和田みどり・歌)
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●稲佐のお栄
5.「長崎恋姿」
(昭和48年=1973年、石本美由起・作詞、和田香苗・作曲、島倉千代子・歌)
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●戦時中には“軍神”ものも
6.「橘中佐」
(明治37年=1905、鍵谷徳三郎・作詞、安田俊高・作曲)
日露戦争で戦死した南高千々石町出身の橘周太(たちばなしゅうた)中佐を“軍神”と歌ったものです。
上、下2つに分けられた歌詞は合わせて32節にも及び、文部省唱歌も出来て、戦時中は学校でよく斉唱させられたものです。
南高千々石町の橘神社の前には橘中佐の銅像が大正8年に建立されました。
7.「爆弾三勇士の歌」
(昭和7年=1932、与謝野 寛・作詞、辻 順治・作曲)
昭和7年1月の第一次上海事変の際、満州(今の中国東北部)の廟行鎮(びょうこうちん)で、敵の鉄条網を突破するため、爆弾を抱えた兵士3人が点火したまま鉄条網に飛び込み、人間もろとも爆破しました。
3人のうち2人は長崎県出身で、当時は「爆弾三勇士」とか「肉弾三勇士」と呼ばれました。
新聞社とレコード会社などが提携して“たたえる歌”が数曲作られ、同年4月から5月にかけて10枚近くのレコードが出ました。
8.「山内中尉の母」
(昭和9年=1934、佐藤惣之助・作詞、古賀政男・作曲、藤山一郎・歌)
日華事変が始まった頃、中国大陸で戦死した海軍航空部隊の山内達雄(やまのうちたつお)中尉とその母親をたたえた歌です。
長崎市中川町の実家に戦死の報せが届いたとき、母親のヤス子さんが「祖国のために命を捧げることが出来てありがたく思っています」という旨の手紙を海軍省あてに書いたことが反響を呼び、「この母にしてこの子あり」などと、新聞も大きな見出しで紹介しました。
レコードも「山内中尉の母」のほか、「忠烈山内中尉の母」「この母この子」のタイトルで、合わせて3曲出ています。
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