文・宮川密義

長崎の地名や名所には、どうして名づけられたのか…
不思議に思われるものが多く見られます。
籠町の「大徳寺」には寺がなく、古いお宮なのに「若宮」と呼びます。
そんな疑問を歌った民謡が「長崎七不思議」です。
明治の末期から大正にかけて長崎でも流行した「大津絵節」の替え歌として作られ、お座敷唄になりました。



 

寺もないのに大徳寺
「大徳寺」は真言宗の寺で、元は伊勢町にありましたが、宝永5年(1709)ごろ本籠町に移転しました。
唐船から多額の寄付が続けられましたが、長崎貿易が不振になってからは寄付がなくなり、寺の本堂や鐘楼なども次々と売却、明治初期に廃寺となります。
その後、梅香崎天満宮となりました。

今でも“寺もないのに大徳寺”と口ずさまれるほど、「七不思議」のうちで最もポピュラーなフレーズです。


長崎名勝図繪に描かれた「大徳寺」(部分)

平地なところ丸山と
「丸山」は、最初は「太夫町」と称していましたが、寛永19年(1642)に遊女屋を集めて寄合町が誕生した際、隣の太夫町を丸山町と改称しました。
その由来は、緩やかな傾斜の地形からといわれるほか、平戸の丸山という所に遊女屋があったことから、それにならって長崎でも「丸山」になったという説もあります。



古いお宮を若宮と
「若宮」は伊良林の若宮稲荷神社のこと。
延宝元年(1673)に楠木正成が信奉していた若宮稲荷大明神を奉じて祭られており、330年の歴史があります。
秋祭り(10月14、15日)の「竹ん芸」で有名です。
近くに「亀山社中」があり、坂本竜馬たちが参拝したので「勤王稲荷」の名もあります。


330年の歴史を持つ若宮稲荷神社(伊良林)

桜もないのに桜馬場
「桜馬場」は長崎街道の始点で知られます。
長崎開港のころは長崎氏の馬場が置かれ、桜の木が植えられていたことからこの地名となったそうです。
大正時代までは、中川のカルルス温泉あたりから桜馬場にかけて桜の名所となっていました。

 

北にあるのを西山と
「西山」は、現在は市の中心部から見ると北にあり、不思議に思われますが、長崎開港のころの中心地、長崎氏の居城(今の夫婦川町「城の古址」)から見ると西に位置するところから「西山」の地名が起こったといわれています。

 

大波止に玉はあれども大砲なし
島原の乱の時、長崎の唐通事・潁川官兵衛の提案で、原城を地下から爆破しようと砲弾を作らせました。
玉の周囲は184.8センチ、重さ619.2キロもありました。

ところが、弾道になる穴を原城の海岸から掘り進む途中、城側に察知され、逆に糞尿を流し込まれたため、作戦を中止、玉だけが残りました。

玉は長崎に運ばれて大波止海岸に据えられ、「大波止の鉄砲ン玉」と呼ばれて、今日まで市民に親しまれています。
明治37年には「玉江町」の町名も生まれました。
現在は元船町の「ドラゴンプロムナード」前に置かれています。


元船町に現存する「大波止の鉄砲ン玉」

シャンと立ったる松の木を
(さが)り松とは

「下り松」は大浦湾入り口の崖の上に生えていた数本の松のこと。

枝先は海面近くまで垂れ下がり、景勝の地として市民に親しまれましたが、居留地造成で埋め立てられ、町名も「下り松町」と名付けられました。

その後、「下り松」では縁起がよくないと、明治11年(1878)に「松ヶ枝町」に、昭和48年(1973)に現在の「松が枝町」となりました。


長崎古版画「長崎八景」の
「大浦落雁」に描かれた下がり松


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