文・長崎市文化財課学芸員 扇浦 正義


長崎は異国情緒あふれる街です。

国宝の大浦天主堂をはじめ、洋風の教会や建造物が各所で見られます。
それは幕末の安政開国(1859年)によって、外国人居留地ができたからです。
現在、私たちが目にする洋風建築は、幕末〜明治期以降のものです。

しかし、今から400年前の長崎に和風寺院のような教会(南蛮寺)が建てられ、鐘の音が響きわたり、パンやぶどう酒、牛や豚肉が飲食されていたことは、意外と知られていません。

なぜなら、近世初期に出された徳川幕府の禁教令により、長崎をはじめ全国の教会や修道院は、ことごとく破壊されてしまったからです。
キリシタンに対する弾圧も強まり、やがて鎖国時代を迎えました。南蛮船が来航し、ポルトガル商人や宣教師たちが市中を往来していた過去の出来事など、人々の記憶からすっかり忘れ去られてしまいました。


かつて長崎を訪れた作家・司馬遼太郎氏は、『街道をゆく』の中で「いまの長崎を歩いていても、南蛮時代の遺跡はなにひとつなく、結局、ホテルで寝ころんで当時のことを空想しているほかない。
強いていえば、ポルトガル人たちを導き入れた長崎湾の水だけが、当時と変わることがない唯一のものである」と…。


ところが、歴史の町である長崎は、やはり魅力的であり偉大です。
平成12〜13年にかけて発掘調査された勝山町遺跡から、南蛮時代の教会跡とみられる遺構が発見されたのです。
場所は、長崎市役所近くの桜町小学校建設予定地(旧勝山小学校跡地)です。


発掘現場(旧勝山小学校跡地)


ここは長崎代官であった村山等安が慶長14年(1609)に土地を寄進し、サント・ドミンゴ教会が建てられました。
しかし、禁教令により5年後に建物は破壊され、その後は代官屋敷となりました。
現段階までの調査で教会と推測されている遺構は、地表面から1〜1.5mほど掘り下げた地層にあり、石畳や排水石列、地下室などが確認されました。
井戸や建物礎石なども見つかりましたが、これらの多くは代官時代のものです。


勝山町遺跡の遺構検出状況

約400年前の石畳


遺物は陶磁器や瓦などが10万点以上も出土しました。
多くは代官時代のものですが、マリア像のメダイが1点と花十字瓦が80点余り出土し、キリシタン遺物として注目されます。
教会時代の地層からは牛や豚の骨がしばしば出土することから、肉食の風習があったことが確認できます。


メダイ(マリア様のお守り)

花十字瓦の出土状況


かつて、「長崎には南蛮時代の遺跡は存在しない」と言った故・司馬遼太郎氏も今回の発見にはビックリですね。


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