TEL095(847)9245 平野町7-8

開館  9:00〜17:00(入館は16:30まで)
入館料  無料
休館  月曜日、年末年始(12月29日〜1月3日)
※長崎さるく博’06期間中無休(〜10月31日)
駐車場  83台(有料/最初の1時間100円、その後30分ごとに100円)
公式HP http://www.nagasaki-city.ed.jp/siryoukan/


●JR長崎駅からのアクセス
路面電車/長崎駅前から赤迫行きに乗車し、浜口町電停で下車、徒歩5分。
バス/長崎駅前バス停から滑石(なめし)・時津(とぎつ)・女の都(めのと)行きなどに乗車し、浜口町バス停で下車、徒歩5分。
車/長崎駅前から約8分。



他の地域には見られない
独特の文化を持つ長崎を体感!


海外文化の影響を強く受けた長崎。この影響は市民生活にまでとけ込み、風俗、習慣、祭りなどの年中行事と、現代の長崎にもしっかり息づいている。そのため、他の地域の民俗資料館には類をみない、異国情緒あふれる展示内容が魅力だ。また、『リアルタイムに対応する』が、現在の永松実館長さんのモットー。隣接する原爆資料館見学後に来館するお客様に、より戦時中の暮らしぶりがわかるよう“防毒マスク”など当時の展示品を収集(目下収集中!)するなどして歴史が投げかけるメッセージを現代の人々に伝えるべく趣向を凝らした展示を心掛けている。ではでは、古代から昭和まで、長崎の人々の暮らしぶりを体感できる、そんな長崎市歴史民俗資料館へ……探検隊いざ潜入!



価値ある建物を渡り歩いて約30年
まずは、“歴民”の歩みに注目!

ところで、この歴史民俗資料館、略して“歴民”は、オープン以来数々の建物を利用し人々に親しまれてきた。そもそも開設されたのは昭和53年(1978)。松が枝町の旧香港上海銀行長崎支店に本館、同じく松が枝町の旧長崎税関下り松派出所(現在のべっ甲資料館)に分館が開かれた。この2つは共に国指定重要文化財で建物自体が長崎の歴史を物語る貴重な資料そのもの。その後、昭和64年(1989)1月5日には、本館が旧出島神学校に移転開設された。現在、出島史料館本館として利用されているこの建物は、明治10年(1877)に日本最初のキリスト教(プロテスタント)の神学校。さらに平成9年(1997)には、坂本国際墓地の上方にある上銭座町に移転、統合した。
そして……今年4月、原爆資料館横の平和会館内、元長崎市立博物館の建物に新たに移転開設。好立地はもちろんのこと、スペースも大幅拡大! これまで、修学旅行生や地元の小中学生の来館が多かったが、移転開設以来、一般観光客の来館も倍増している。館内は、車椅子での見学も可能なバリアフリー。ぜひ、小さい子どもからお年寄りまで多くの人に足を運んでほしいものだ。
 

学芸員が教えてくれる
長崎史を物語る展示品の魅力

館内に入ると、まず正面に江戸時代の長崎をかたどった模型が目に飛び込んでくる。まるで海路で長崎を目指した貿易船からの目線を追体験するかのようだ。
中へ進むと右手には、17世紀後半の長崎の町並みと秋祭り(長崎くんち)の様子が描かれている『寛文長崎図屏風』(かんぶんながさきずびょうぶ/長崎歴史文化博物館蔵)や、広渡湖秀筆の『出島図屏風』(でじまずびょうぶ/松浦史料博物館蔵)などのレプリカが展示されていて、当時の長崎の地形や貿易の様子、祭り、習慣、貿易によってもたらされた長崎人の暮らしを理解することができる。
その他、この1階は、随時“歴民”ならではの趣向を凝らした企画展が催されているスペース。現在、行なわれているのは、※『なつかしの長崎港内交通船展』
そして地下1階は、旧石器時代から近世までの土器や石器に加え、江戸時代の遺跡から発掘された日本、中国、西洋の陶磁器を収集した考古資料に、中国、ポルトガル、オランダに関する資料、また、江戸時代の長崎の町の風物詩を川原慶賀が描いた『年中行事絵』(複製)などの絵画資料など、とても興味深いものが展示されている。
また、“歴民”では、各方面の権威を招いた『歴史文化講演会』が数多く開かれている。決して1度の訪問で満足してはならないのが、“歴民”! 訪ねる度に違う発見ができる資料館というのがこの資料館最大の魅力なのだ。
事前に予約を入れておくと、学芸員の方が懇切丁寧に解説しながら館内を案内してくれる。この解説を受けると、単に見ただけではわからない展示の品々が、点と点で結ばれ、長崎が歩んできた歴史が1本の線になるような感覚で理解することができる。ぜひ予約して訪れることをおすすめしたい。
 

※企画展
『なつかしの長崎港内交通船展』(〜8月31日(木)まで)。
市営交通船が、バスや自家用車の普及による理由から昭和44年に廃止されて37年。現在、長崎港内を運行するのは、朝夕、大波止と香焼工場を結ぶ三菱重工長崎造船所の交通船のみとなってしまった。今回の企画展『なつかしの長崎港内交通船展』では、かつて市民の足として重要な役割を果たしてきた長崎港内交通船にスポットを当て、模型や部品、写真パネル、感想文など懐かしい品々を一挙公開している。







おすすめチェックポイントベスト3



1.和華蘭(わからん)文化の集大成、亀山焼(常設展示/地下1F)

展示品の中で、ほとんどの品がひび割れてしまっている焼物に注目! これは、文化3年(1806)頃、伊良林郷字垣根山に八幡町の吉川要五郎、大神甚五平、万屋治吉らがオランダ人に売る水瓶製造の窯を築いたことにはじまる亀山焼。実はこの亀山焼、当時は奉行所も融資を行なっていたが、事業振るわずわずか8年で廃業。その後、借金返済と失業者を出さないために大神甚五平がひとり跡を引き受け、水瓶造りから南京染付を写した白磁染付に変え成功した焼物だ。亀山焼には上質な中国輸入の花呉須という薬を使用。さらに土も中国から取り寄せた。長崎八幡町生まれの南画家・木下逸雲などが支援したこともあり、長崎を訪れた文人墨客が下絵をするなどしたため、通向けの名陶へと成長した亀山焼だが、残念ながら取引の失敗等の影響で慶応元年(1865)に廃絶。“歴民”オープニングの企画展では、個人所有の300点余りに及ぶ貴重な亀山焼の展示が話題を呼んだが、常設展示の中にも見る事ができる。現在開催中の日本ではじめてのまち歩き博覧会「長崎さるく博’06」では、長崎の町に潜む“わからん(和華蘭)まち体験”を推奨しているが、この亀山焼こそオランダ人が使用する水瓶製造にはじまり、中国文化の影響を受け、日本人が造ったという、まさに和華蘭文化の集大成なのだ!


〜 和華蘭文化の集大成である常設の亀山焼 〜
 

2.風景、遊び、暮らしぶりで“昔”を学ぶ!(常設展示/地下1F)

輪投げに、メンコ、塗り絵にけん玉! 昔のおもちゃの復刻版がでまわったり、脳の活性化に効果があると“大人の塗り絵”なぞが流行ったりの現代。見ているだけで心癒される当時の子どもさんや、「どうやって遊ぶの?」とワクワク感をもって眺める現代の子どもさん達に人気を集めているのがこの民俗資料展示コーナーの一角。“歴民”では、『歴史は現在のためにある!』をコンセプトに、展示方法も駆使。展示品のおもちゃを使って遊んでいる当時の写真を設置することで、より懐かしくよりわかりやすいなど展示の可能性を追求している。実際にやじりを作ったり、輪投げにチャレンジしたりと体験することも可能だ。
また、卓袱台(ちゃぶだい)、足踏みミシン、和箪笥、テレビ、ラジオ。古き良き時代の日本の生活用品が設えられた和室は、実際にこの畳の間に上がり、間近に手にとって見ることができる。なんとテレビもラジオも未だに現役の代物。年配の方には懐かしく、若い世代には新鮮な驚きを与えてくれるまるでテレビのセットかのような空間が広がっている。





〜 かつての日本の遊びに懐かしさを覚えたり…、新鮮さを覚えたり…。〜
 

3.古賀人形とポルトガル人形の共通点発見?(常設展示/地下1F)


地下1階には、中国、ポルトガル、オランダ、そして長崎の文化資料が展示されている。そんな中、ナガジン取材班はポルトガルの土人形にピン!ときた。「どこかで見たような……」そうだ! 大きさといい、小動物や一目見て思わずにやけてしまうような素朴で愛らしい人物などのこのモチーフ! これはまさしく長崎の伝統工芸品、古賀人形のポルトガル版ではないか! 古賀人形のルーツは、今から約400年前の文禄元年(1592)、旧長崎街道沿いにある小川家三代目・小三郎の代の、京都は諸公郷の御用達土器師、常陸之介という人物。彼が日本漫遊の際に1年余り滞在し、小三郎に土器製造の秘法を伝授したのだという。その後小三郎は農業の傍ら副業として神仏、儀式用の土器を制作。晩年に小型の人形を製造するようになった。古賀人形当時は、ポルトガル貿易が盛んな時代。もしや古賀人形は……なんて、往時の情景に思いを馳せて見物してみるのもオモシロイ!


<古賀人形・猿乗り馬>

<ポルトガルの人形・雄鶏型笛
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〜 ポルトガルの人形と古賀人形を比較してみよう! 〜



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