長崎市立博物館 館長 原田博二


企画展示
「木下逸雲展

会期 平成13年10月24日(日)〜
開館時間 9時〜17時月曜日・休館
会場 長崎市立博物館企画展示室
長崎市平野町7番8号平和会館内 TEL(845)8188 FAX(845)8119
入館料 大人100円 小中生50円



木下逸雲筆 秋草図襖(4面)


本館では長崎画人シリーズとのタイトルで、長崎の画人にスポットをあて、展覧会を開催してまいりましたが、今回は長崎南画の大家木下逸雲の名品の数々を展示いたしました。
展示資料約80点を展示いたします。



木下逸雲


木下逸雲筆 青木永章書観蓮図(1巻)

 木下逸雲は、寛政11年(1799)に長崎八幡町の乙名木下清左衛門勝茂の四男として生れました。木下家は本姓藤原氏で、代々八幡町の乙名職を勤めた家柄で、逸雲も兄潤太郎従賢の隠居後の文化14年(1817)から文政12年(1829)まで八幡町の乙名職を勤めています。

 逸雲は、幼名を弥四郎といい、成人後は志賀之助と称しました。
諱を隆賢、名を相宰、字を公宰、号を逸雲、如螺山人、物々子、養竹山人、住居を荷香深処、養竹山房などと称しました。
若年の頃から医術の勉強をしたいという志をもっていましたので、乙名職を甥の勇之助隆衡に譲ると、本格的に医術の勉強を始めていますが、内科・外科の二科を兼ね、さらには、蘭医モ−ニケの種痘術が行われるようになると、率先してその普及に努め、平戸、天草、日田などで種痘を実施しています。

 ところで、逸雲はとても器用な人で、絵画、書道、弓道、歌道、音楽、煎茶道などにもそれぞれ通じ、一家を成すほどでした。
特に、画家として有名で、現在でも多くの作品が残されています。
絵画は、初め石崎融思について漢画と呼ばれる伝統的な絵画の画法を学びました。
石崎融思は、唐絵目利を勤めた画人で、当時の長崎画壇の大御所的存在でした。
しかし、この長崎漢画には飽き足らなかったのでしょう、その頃、流行しつつあった南画へと傾いて行きました。

 南画も中国で始められた画法ですが、漢画と違って観念的な絵画の技法で、来舶清人と呼ばれる江稼圃や江芸閣などといった人達によって伝えられました。
この江稼圃や江芸閣などといった人達は、唐船の船主や客商などで、無論、プロの画人ではありませんでした。
 逸雲は、江稼圃や江芸閣などについてこの南画を学びましたが、さらには、京都に上り、四条派や復古大和絵などを学ぶなど、実に様々な絵を描いています。

 逸雲は、鉄翁祖門(1791〜1871)、三浦梧門(1808〜60)とともに、“長崎三画人”と称され、後の長崎南画興隆の基礎を築きました。
その自信は大変なもので、慶応2年(1866)江戸から長崎の門人達に送った書簡には「長崎の南画、当時日本第一、他に見るべきものなし」と書いていますが、この江戸からの帰路、玄海灘で遭難、ついに不帰の客となりました。68歳。
墓は、禅林寺(長崎市寺町)後山の木下家墓地にあります。


南 画


木下逸雲筆
梅花小禽雪山水図
(1幅)


木下逸雲筆
桃花源図
(1幅)


木下逸雲筆
松浦熈賛蓮図
(1幅)

 黄檗僧の渡来とともに、長崎には北画の系統が伝えられましたが、当初は一部の人がそれを学んだに過ぎませんでした。
享保16年の沈南蘋の渡来と前後して、伊孚九(?〜?)や費漢源(?〜?)が来舶して南画の画法を伝えると、長崎の画人達に注目され、一方では、中国趣味を尊んだ文人達の間に定着して行きました。
さらに、19世紀の中頃になると、江稼圃(?〜?)などの渡来によって、長崎の南画は本格的なものとなり、長崎三画人と呼ばれた鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門などによって大成されました。
そして、これら南画は、文人画とも呼ばれて全国に広まり、池大雅(1723〜76)、与謝蕪村(1716〜83)、田能村竹田(1777〜1835)、谷文晁(1763〜1840)などが活躍、江戸時代後期のわが国画壇に主要な地位を占めるようになりました。


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