自分の哲学を貫いた

実業家 梅屋庄吉
孫文を支えた男の信条〈前編〉

では、「辛亥革命」を成し遂げた孫文を支えた梅屋庄吉とはどんな男だったのか? その人物像に迫ってみよう。

庄吉は日々の出来事を綴った日記のほかに、気に入った名言や新聞の切り抜き、時々の自分の考えから金銭の出納までをまとめた「永代日記」をいつも手元に置いていたという。そこに記された言葉から、庄吉が持ち合わせていた哲学が垣間見えてくる。

庄吉が好きだった言葉に次のようなものがある。

「世の中は持ちつ持たれつ諸共に助けあうこそ人の道なれ」
「富貴在心」
梅屋庄吉肖像写真
梅屋庄吉肖像写真
<小坂文乃氏所蔵>

富貴在心――富や貴さというのは財産や名声ではなく、その人の心の中にあるものである。人は持ち物の多少に依ってその価値が定まるものではない。人の価値は魂にある、という意味。庄吉は、人間はみな平等、困ったときには助けあうのが人の道、そういう世の中をつくっていけば平和な世界がつくれる−−そんな信念を持つ人物だった。その信念は、彼が自らの目で見て感じて、しだいに定まっていったものだということを数々のエピソードから垣間見ることができる。

生立ち――長崎一等地の商家へ養子入り
庄吉が生まれたのは、260余年続いた江戸幕府が倒れ、元号が「明治」となった1868年11月26日。まるで宿命を負ってこの世に誕生したかのように、日本の夜明けとともに彼の人生ははじまった。庄吉は、生まれて間もなく現在の西浜町で貿易業と精米所を営んでいた「梅屋商店」の梅屋吉五郎の養子となる。庄吉が後に娘の千世子に告げた話によれば、庄吉の祖父(梅屋家)は、長崎と上海の貿易の草分け的商人だったという。

「梅屋商店」の周囲の風景に目をやってみよう。店のすぐ裏には中島川が流れ、港までは500m程の距離。所有する2隻の船を使っては、港と店を往復し、直接荷物を運び入れていた。庄吉が生まれる3ヶ月程前には、梅屋商店のすぐ側に、「鐵橋(くろがねばし)」が完成している。明治の文明開化の香りが漂う街並み。この鐵橋のたもとには、土佐藩が設置した「土佐商会」があった。後に三菱財閥を築く岩崎彌太郎は土佐商会主任・長崎留守居役。彌太郎は、梅屋商店の借家に住み、明治に入り出張所が閉鎖となっても残務処理が終わるまでそこで生活をしていた。幼い庄吉を背負い遊んだこともあったという。
現在の鐵橋付近 土佐商会跡

庄吉少年――数々の武勇伝の中より
学校での成績はよく、明治7年(1874)末、新しい学制がスタートすると、庄吉は開校したばかりの榎津小学校に翌年の1月に入学した。当時の小学校は、上等(10〜13歳)と下等(6〜9歳)に分かれているものの、試験で昇級し、飛び級制度もあった。6歳の庄吉は優秀だったため、入学した年にすでに4級に。そして3年も早い10歳で卒業している。そこで、彼の武勇伝の登場だ。

庄吉は小学校を卒業した明治11年3月。金300円を持参し、長崎港出帆の汽船「今洋丸」に乗船。ひとり、卒業旅行のつもりで京都に向かったのだ。当時は米が10キロで50銭から60銭だった時代、「金300円」は、現在のお金で200万円以上の大金だった。それを家から黙って持ち出し、大阪、京都へ足を延ばし、なんと遊郭にまで足を踏み入れた。しかし、さすがに「ここは子どもの来るところじゃない」と首根っこをつかまれ、つまみ出されたあげく、塩までまかれることに……。ところが、庄吉は翌年再び家出し四国を旅したという。大胆かつエネルギッシュ、好奇心の旺盛さはずば抜けた少年だった。

海外飛雄で直面した出来事への怒り
外国船が頻繁に往来する港町 長崎で育った好奇心旺盛で行動力のある庄吉少年が、外国へ興味がわかないはずはない。庄吉は、明治初期でありながら、中国、東南アジア、アメリカへと旅している。しかも上海へ渡ったのは、わずか14歳のときのことだった。両親の猛反対を受ける中、庄吉が目を付けたのは、梅屋商店の持ち船「鶴江丸」。船に忍び込み、五島を過ぎる頃乗員に発覚するが、見事実家の船で密航に成功。上海へ辿り着いた。上海を見て歩き、鶴江丸の船員達とともに帰国するかと思いきや、庄吉は上海でひとり暮らしをはじめる。そこで目にしたのは、上海の人達の貧しい暮らしぶり。しかも、街角には「中国人は立ち入るべからず」と書かれた看板が立てられ、欧米人に屈辱的な扱いを受けていた。故郷 長崎で尊敬と親しみを持って接していた中国人に対する仕打ちを間のあたりにした庄吉は怒りを覚える。

「日本人の友人であり、兄弟である中国がこんな状態であってはならない」。

また、庄吉は19歳のとき、アメリカへ留学した。彼らに対抗するためには、欧米のことを知っておかなければならない−−そんな思いからの渡米だった。しかし、乗船したアメリカの帆船で、庄吉はさらなる衝撃の出来事に直面する。香港、フィリピン、ハワイなど各地を転々としながらサンフランシスコへ向かうその船には、出稼ぎに行く中国人も数多く乗船していた。ところが、その中国人のうち3人がコレラを発症。伝染を恐れたアメリカ人船長はまだ息がある彼ら3人を袋に入れてルソン島近くの海に投げ捨ててしまったのだ。庄吉はまたもや怒りが込み上げてきた。

「やつらはアジア人を人間とは考えていない。はらわたが煮えくりかえる思いだった」。


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