道標の碑
式見往還の碑
海と山、大自然に包まれた式見エリア。その大自然を満喫すべく、「いこいの里 あぐりの丘」へ訪れる人も多いことだろう。そんな式見エリアを構成する山のひとつ、あぐりの丘背後に広がる矢筈岳西方、丘陵地帯から渓谷にかけては、かつて、里山として人の生活圏であった頃の遺構である棚田や石垣、炭焼窯跡などが残っている。「九州自然歩道」とも合致する場所だ。この山中に、地元で「殿様道」と呼ばれる古道がある。江戸時代、この道は隣村の畝刈村と式見村とを結ぶ幹線道であり、大村藩の殿様が駕篭(かご)に乗り往還していたのだ。その道中、急斜面の山腹を水平に横切る険しい山道の「むれ木峠」と呼ばれる道側に小さな石柱が残っている。二つの穴が空いた膝丈程の碑。その穴は、おそらくは馬をつなぐものだったのではないかと推測されているそうだ。
◆碑が語るメッセージ
道標ではないが、往還時代の道を示すものに違いはない。現在は道よりも少し高い位置にあるが、それは道の方が陥没したためだという。予測不能な自然の影響を考えると、当時の旅(移動)そのものが常に危険にさらされていたことを実感させられる。
唐船維纜石
長崎四福寺のひとつ、黄檗宗の聖福寺山門の正面に、料亭 迎陽亭跡がある。ここは、江戸時代、位置的な条件もあり、長崎奉行所や諸藩の役人などが頻繁に活用。明治以降も、政府の役人や夏目漱石などの多くの文化人なども足を運んだ由緒ある料亭跡だ。この門前にあるのが、かつて唐船の網をつなぎ止めていた「ともづな石(唐船維纜石)」。維纜とはその綱のことで、この石は江戸時代、ここから程近い大黒町の海岸にあり、当時、迎陽亭の主人が骨董趣味ということを知った大黒町の若者が一晩の宴会費用と引き換えたものだといわれている。南蛮貿易時代のともづな石が樺島町に、江戸時代、長崎街道の裏街道として利用され、数々の処刑前の殉教者達を運んだ船を舫ったともづな石が時津に残っているが、このように大きな石は、旧大徳寺、金比羅神社、清水寺に石灯篭の支柱として残されている数個だけだとか。
◆碑が語るメッセージ
刻まれた文字は、眼鏡橋をはじめとした中島川に架かる石橋群の名付け親であり、市中に多くの金石文を残す西道仙によるもの。本来は、上町に面した方が正面入口で、玉園町側に庭園と茶室があったため、現在、このともづな石があるのは、茶会の時などに開かれていた裏門にあたる。この門は、多くの風雅を好む茶人達の目を楽しませていたに違いない。
みさきみちの碑
江戸時代、長崎から市外へ出るには六つの道があった。そのひとつ、野母崎方面、観音寺へ向かう唯一の道が御崎道(みさきみち)。この道は中華街、湊公園横の広馬場から十人町、大浦石橋、出雲、上戸町、竿浦、為石、野母崎脇岬にある観音寺へ至る旧道で、江戸時代、観音寺の平安時代末期に造立された十一面千手千眼観音立像、通称 御崎観音(国指定重要文化財)信仰者のための参詣道として栄え、観音寺道とも呼ばれた。当時は1日で往復していたというその道のり、七里(約28km ※一里は約4km)の道標として建てられたのが、このみさきみちの碑だ。当初は全部で50本設置されたとされるが、現在、確認できる碑は、起点にあたる十人町のものや観音寺境内のものを含め8本程だとか。
◆碑が語るメッセージ
十人町の碑は、文政6年(1823)に今魚町(現 魚の町)の住人によって建立されたもの。かなりの風化から文字を読み取ることは不可能だが、「みさ起みち 今魚町 文政六年」と刻されていたそうだ。一方、50本目にあたる終点観音寺境内の道塚の碑には、天明4年(1784)、今魚町と刻まれている。ほかにも境内にある石灯籠や鐘など数々の奉納品に長崎の商人や丸山遊女たちの名が刻まれている。この長い参道を利用したのは、このような長崎の商人や遊女、また、長崎港外の野母の港は唐船による抜け荷(密貿易)の場となっていたことから、抜け荷商人らも往来していた。江戸時代の信仰、また当時の貿易による繁栄の一端を垣間見る事が出来る。
※ 2005.2月ナガジン!特集『越中先生と行く みさきの観音詣り参道〜御崎道(みさきみち)』参照
休石
長崎県庁からのびる国道34号線。この道と平行する中央橋よりの道に、町建てがされた開港当時の6町と、江戸時代中期の町の配置をほぼなぞるように建造された石垣が残っている。県庁坂の福岡銀行下から長崎市役所別館の裏へと続く通りだ。その一角、長崎商工会館横の細い路地を下った辺りに「休石」と刻まれた四角い石がある。かつて、市内には多く点在していた休石だが、昔のまま残っているのはこの場所だけ。これは、行商の人が背負っていた荷物下ろして休んだことに由来するものだというが、一説には、桜町の牢屋敷(現長崎市役所別館)があった時代、罪人をこの石のところで休ませることになっていたというものもある。
◆碑が語るメッセージ
いずれにしても、この石を目にした多くの人がここでひと休みしたに違いない。坂の多い長崎の町では、その後いたる斜面地で目にするようになった休石。あくせく急がずにひと休み。なんだか、ほのぼのした気分にさせてくれる碑だ。
※ 2008.1月ナガジン!特集『働きビトのプチ観光』参照
最後に。
長崎の悲惨な歴史を物語る、ひとつの碑が大橋町に残っている。三菱重工業長崎兵器製作所、通称「三菱兵器」の境碑だ。茂里町と大橋町の工場は、共に爆心地から1km余りの地点。両工場は爆風や火災で壊滅し、従業員2273人が死亡、5679人が負傷した。その刻まれた文字からはまるで負のイメージしか湧かない。ましてや現在は車の往来も多く、学生で賑わう文教通りにあるのだ。しかし、「様々な歴史の上に私たちは存在する」。そんなことを実感するためにも、古い碑はいつまでも、現代の風景の中に解け込んだままであり続けてほしいものだ。
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