江戸時代末期に長崎で活躍した川原慶賀は、出島和蘭商館医として渡来したシーボルトのお抱え絵師として知られる町絵師。一部謎に包まれた長崎派洋画家・慶賀の生涯、シーボルトの絵師としての仕事ぶり、慶賀の多様な作風などにスポットを当て、町絵師・川原慶賀の実像に迫る!
ズバリ!今回のテーマは 「今まで知らなかった川原慶賀を発見!」 なのだ
慶賀の父、香山がこの唐絵目利である荒木元融と親交があったことからか、荒木元融の実子である石崎融思(慶賀より18歳年長)と緊密な関係があったと推測されている。実際、融思と慶賀は、生涯を通じて関わりを持っている。慶賀は正統な画家の家系ではなかったが、職業画家となる環境に恵まれ、また、描画の才能に恵まれたこともあり、荒木元融、石崎融思親子の口添えもあったかどうかは不明だが、職業画家町絵師として一本立ちし、長崎奉行所から“出島出入絵師”という町絵師としてとても有利な特別な肩書きを得たのだった。
慶賀の作品はシーボルトの仕事をする以前とシーボルト以後とで前期、後期に分けることがわかる。それは3ページ目で詳しく紹介するとしよう。
A.町絵師として生きるためには、多くの人に認知されなければなりません。その意味では、多くの注文肖像画を残しているし、清水寺の奉納画なども作画していますから、町民が彼の作品に触れる機会は多かったと言えますね。
〈1/3頁〉 【次の頁へ】