『唐蘭館絵巻(蘭館図)(一〇)蘭船出航図』/長崎歴史文化博物館蔵

江戸時代末期に長崎で活躍した川原慶賀は、出島和蘭商館医として渡来したシーボルトのお抱え絵師として知られる町絵師。一部謎に包まれた長崎派洋画家・慶賀の生涯、シーボルトの絵師としての仕事ぶり、慶賀の多様な作風などにスポットを当て、町絵師・川原慶賀の実像に迫る!


ズバリ!今回のテーマは

「今まで知らなかった川原慶賀を発見!」 なのだ



今回の特集にあたっては、長崎大学名誉教授の兼重護(かねしげまもる)氏の著書『シーボルトと町絵師慶賀-日本画家が出会った西欧』(長崎新聞社発行)を参考に、3つの要素に絞り込み町絵師・川原慶賀に迫ってみた! 各項目でわき上がった疑問には、兼重氏に直接解説いただいたので、こちらもチェック!!

●プロフィール
兼重護(かねしげ まもる)
1936年福岡市生まれ。九州大学大学院文学研究科(美学・美術史専攻)修了。長崎県立美術博物館学芸員、長崎大学教育学部教授を経て、現在長崎大学名誉教授。レンブラントを中心とする17世紀オランダ絵画および近世長崎絵画を研究。著書に『世界美術全集13・レンブラント』(集英社)、『近代美術史機戞瞥斐閣)など多数。


■慶賀の生涯

国内外に多くの作品が存在するにも関わらず、画家としての存在を明確にする文献がない慶賀。シーボルトに同行することにより犯罪者としての記録も残す慶賀の生涯に迫る!

◆一介の町絵師から出島出入絵師へ
川原慶賀は長崎の今下町生まれ。幼名は慶太郎、字は種美、通称・登与助で、慶賀の他に聴月楼と号した。父の香山も長崎港を俯瞰で捉えた『長崎港図』などを描いた絵師で、慶賀はこの父から絵画を学んだのだといわれている。
●ここで当時の長崎画壇についての予備知識!
鎖国時代、海外に開かれた唯一の窓口であった長崎の地域性から、長崎の画壇は独特の発展を遂げることとなり、長崎派絵画と呼ばれるものが誕生した。その発生の源は唐絵目利(からえめきき)制度で、世襲的に長崎奉行直轄の御用絵師を職務とするものだった。海外からもたらされる書画の鑑定、模写や渡来動物の交易品を写すことを主な職務とし、中国の画僧・逸然がもたらした漢画の画系をひく渡辺秀石(しゅうせき)ほか、広渡一湖(いっこ)、石崎元徳(げんとく)、荒木元融(げんゆう)が唐絵目利に任ぜられ、以後この4家が代々世襲した。

慶賀の父、香山がこの唐絵目利である荒木元融と親交があったことからか、荒木元融の実子である石崎融思(慶賀より18歳年長)と緊密な関係があったと推測されている。実際、融思と慶賀は、生涯を通じて関わりを持っている。慶賀は正統な画家の家系ではなかったが、職業画家となる環境に恵まれ、また、描画の才能に恵まれたこともあり、荒木元融、石崎融思親子の口添えもあったかどうかは不明だが、職業画家町絵師として一本立ちし、長崎奉行所から“出島出入絵師”という町絵師としてとても有利な特別な肩書きを得たのだった。


◆シーボルトのお抱え絵師としての波乱
出島出入絵師となった慶賀だが、それがいつ頃のことか、これも定かではない。ただ、無落款ながらも慶賀の作品とみられている『唐蘭館秘戯図』があり、これは、文化8年(1811)の制作を示す手掛かりがあることから、慶賀が25歳の時には出島に出入りしていたことを推測されている。その後1803〜1817年までと14年もの長きに渡って商館長をつとめたヘンドリック・ドゥーフの『ヘンドリック・ドゥーフ像』、その後任で、違法の家族連れで1817年に出島にやってきたブロンホフ商館長の『ブロンホフ家族図』などを描いていることから、この頃は確実に出島出入絵師となっていた。そして、文政6年(1823)、新商館長のデ・ステュルレルと共にシーボルトが出島に上陸したのだった。


『ブロンホフ夫人像』/長崎県美術館蔵
シーボルトとの関係は、次ページにて詳しく紹介するが、慶賀が何故シーボルトのお抱え絵師となったかに着目してみよう!
これも、そのことを示すような資料は一切残されていないのだが、おそらく、自らの植物研究のために作図する絵師を求めていたシーボルトに退任する商館長ブロンホフもしくは、商館員として出島に滞在していたフィッセルが慶賀を推薦したのだと考えられている。というのも、当時オランダ人が持ち帰ることができる絵は、長崎において唯一人の画家、つまり出島出入絵師の絵で、それ以外の画家が描いたものは売ることが禁じられていたからだ。その点からいっても慶賀がシーボルトのお抱え絵師になるのは運命的なものだった。そして、その運命の果てには、シーボルトが犯したいわゆるシーボルト事件に附随する処罰を受けるなど、『長崎奉行所犯科帳』に“川原慶賀”の名を残すこととなった。

◆慶賀が犯した罪と罰
シーボルトが出島に滞在したのは文政6年(1823)から文政12年(1829)。38〜43歳の働き盛りであるこの約6年間、慶賀はほとんどシーボルトのために仕事をしたという。そんな慶賀が犯した罪は2つ。1度目はシーボルトに関連するもので、文政13年(1830)、『長崎奉行所犯科帳』に記された処罰の理由は、“シーボルトの監視不十分”ということだった。それは、文政9年(1826)の江戸参府にシーボルトお付きの画家として同行した際のことで、おそらく江戸参府以前に長崎奉行所から慶賀にシーボルトを監視することを命じられていたのだろうと思われる。この時、すでにシーボルトは帰国していたが、後に発覚したシーボルト事件を受けての罪で入牢している。そして2度目は、天保13年(1842)、慶賀がオランダ人の注文に応じ、長崎の港の俯瞰図を描いた際、西役所の位置や港に配置された番船に、細川家や鍋島家の紋を描き込んだことに対する罪だった。慶賀自身は何の意図もなく見たままを描いたにすぎないのだろうが、奉行所からみれば防衛上の秘密を明かされたとあって、江戸並びに長崎払いという厳重な処分となった。長崎を離れた慶賀がどこへ行ったのかは手掛かりがなく不明。しかし、それから4年後の弘化3年(1846)に完成した野母崎観音寺本堂天井の花卉図の4枚に慶賀の落款、印章があることから、慶賀はこの時には長崎に戻り、石崎融思一族のプロジェクトであったこの天井絵の制作にあたったことが証明されている。長崎払いの刑罰を受けた一介の町絵師であった慶賀が、早くも長崎の地で仕事復帰できたのは、御用絵師であった融思による奉行所へのとりなしがあってのことだろうと推測できる。

慶賀の作品はシーボルトの仕事をする以前とシーボルト以後とで前期、後期に分けることがわかる。それは3ページ目で詳しく紹介するとしよう。


◆推測では長生き?慶賀の晩年
慶賀の晩年は果たしてどういうものだったのだろう? 慶賀の息子で、慶賀の後を継ぎ長崎版画を描いた浮世絵師・川原廬谷(ろこく)の嘉永6年(1853)頃に描かれた作品を見ると、構図、細部描写といい慶賀の作風と近似しているため、長崎払いを受けた以後、慶賀の晩年は、息子廬谷と共に作画していたようだ。現に天保7年(1836)に上梓された『慶賀写真草』には川原慶賀筆、男廬谷校とあり、2人の共同制作であることがうかがえるのだという。慶賀が万延元年(1860)に75歳だったことは、『永島キク刀自絵像』に残された落款から推測されているが、慶賀がいつまで生きたのかを示す資料はどこにもない。唯一、林源吉氏が記した『町絵師慶賀』において断定はできないが、構図、面相の描法などから慶賀の作品として紹介している“立賀”と読める印がある『鶴野熊吉絵像』がある。これが、慶応元年(1865)の作品であることから、慶賀が80歳頃まで健在だったのではないかということがうかがえるのだという。

『唐通事彭城(さかき)氏絵像』田口廬谷
/長崎歴史文化博物館蔵

●ズバリ!兼重先生にクエスチョン!●
Q.慶賀と同時代に生きた長崎の町民達は、慶賀の絵に触れる機会はあったんですか? 町民レベルにおける“川原慶賀”の認知度はどんなものだったのでしょうか?

A.町絵師として生きるためには、多くの人に認知されなければなりません。その意味では、多くの注文肖像画を残しているし、清水寺の奉納画なども作画していますから、町民が彼の作品に触れる機会は多かったと言えますね。

 
コラム★長崎で鑑賞できる慶賀作品

長崎に再び戻り描いた草花の絵


天井絵

天井絵「ふよう」

野母崎、脇岬海水浴場近くの観音禅寺を訪れたことがあるだろうか? この寺院は、約1000年前の平安末期に行基(ぎょうき)菩薩という有名な僧侶によって創建された真言宗の寺院跡に建立された寺で、現在の建物は江戸時代に再建されたもの。昔から長崎からの参詣者も多く、唐人屋敷跡近くの十人町から続く御崎道(みさきみち)という道に沿って観音様詣りをしていた寺院だ。この寺の御本尊が、平安時代末期に造立された十一面千手千眼観音立像(国指定重要文化財)。この御本尊が納められた本堂(観音堂)の天井に、150枚の花卉図が描かれている。そのうち慶賀の作品は“むさしあぶみ”“ふよう”“のうぜんかずら”“ぼたん”の4枚。通常でも遠目に見ることはできるが、薄暗くてはっきりしない。御開帳となる毎年8月17日にぜひ足を運び、目にしてみよう。

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