では実際に、長崎市内に残存する長崎街道の遺構を訪れる小旅行へと旅立とう。 今回のテーマは、「物見遊山!長崎を目指した多くの先人達の追体験をする!」な訳だから、スタート地点はかつての佐嘉藩領(佐賀藩領)と天領古賀村の境であり、現在は、長崎市と西彼杵郡多良見町との境に当たる井樋ノ尾峠下(いびのおとうげした)。主な移動は“車”を利用し、注意深く確認したい場所は“自らの足”でもって散策することにした。 それでは、往時誰もが夢見た異国文化の風吹く長崎の町を目指し、いざ、スタート!!
「古賀の藤棚」とは、もちろん、5月に美しい花をつける藤棚のことだが、現在では日本三大人形に数えられる長崎土産、古賀人形の唯一の職人である小川家の通称でもある。
さて、「古賀の藤棚」を後にしばらく車を走らせる。それにしてもさすが植木の町・古賀! 沿道の家々に、手入れの行き届いた植木や、石垣の石と石の間に美しく配したツツジなどの花々を楽しむことができる。
旧古賀の藤棚から福瑞寺へ向かう途中に、かつて実家がこの辺りにあったという本田さんという方にお目にかかり、付近の知らざる歴史について話をうかがった。 本田さんによると、福瑞寺の向かいにそびえる山の中腹には1550年代に城があり、その名残が地名に反映していたのだという。昔、この山の辺りを城山(しろやま)、この辺の部落を館(たち)といい、その城の登り口を城首(じょんくび)、それからずっと上ったところに中島という地名があり、そこには堀があったのだという。それからまた少し上って隣の山との谷間が城の迫(しろのさこ)。その先を“べんとう”といい、本田さんは“別棟(べっとう)”の訛りではないかと推測しておられた。 城があったと思われる場所に、現在は特別養護老人ホームがあるが、造成前に本格的な遺跡の調査はしていなかったそうだ。しかし、たまたま工事関係者だった本田さんのご友人に話を聞いたところ、そこには広場があり、なんと別棟へと繋がる抜け道が発見されていたのだそうだ。越中先生もはじめて聞いたという新情報!にびっくり。
〈2/3頁〉 【前の頁へ】 【次の頁へ】