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●上野彦馬 
1838〜1904 / 幕末〜明治の写真家。 
天保9年8月27日、長崎市銀屋町(現・古川町)において、御用時計師であり蘭学者の上野俊之丞の4男(6番目)として誕生。 
日露戦争が勃発した明治37年5月22日死去。享年66歳。 
 
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●上野彦馬ってどんな人!?その人物像と功績に迫る  
 
 
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  5月某日、大阪にある司馬遼太郎記念館の天井に有名な坂本龍馬の写真の輪郭と同様の染みができたというニュースが舞い込んできた。 
『竜馬がゆく』の著者である司馬遼太郎の記念館ということに何らかの因縁を感じる、まったく不思議なこの現象には、設計を担当した日本を代表する建築家・安藤忠雄氏も度胆を抜いた。 
この染みを見て誰もが「あぁ、本当だ!坂本龍馬!」とわかる写真、その写真こそ何を隠そう上野彦馬という日本初のプロカメラマンが撮影したものなのだ。 
ではではもう一歩踏み込んで生い立ちから晩年まで、彦馬の足跡を辿ってみよう。 
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〈坂本龍馬の肖像写真〉 
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  1.上野家の人々 
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上野家は先祖代々画家の家系にあった。 
彦馬の父・上野俊之丞は絵師であるとともに長崎奉行所の御用時計師であり、塩硝や更紗などの開発、彫金の技術も備えた有名な人物だった。 
また、シーボルトに学んだ蘭学者のひとりで、シーボルトが日本を去る時、娘のおいねに送った時計に彫金したのは俊之丞だという。 
彦馬は諸国の蘭学者が集まる学問的雰囲気の中で育った。 
 
 
 
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  2.彦馬と写真との出会い 
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父・俊之丞は日本で初めて写真機材一式をオランダ人から入手した人物としても知られるが、彦馬が写真に興味を持つようになったのは俊之丞の影響ではないという。 
俊之丞が輸入したのは銀板写真で、彦馬が習得しようとしたのは湿板写真。 
彦馬はオランダの医官ポンペについて舎密学(せいみ学=化学)を学んでいた時に蘭書の中に「フォトガラフィー=写真」という言葉に興味を持ったのだそうだ。 
 
 
 
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  3.化学者としての彦馬 
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第二次海軍伝習所の教官として招聘されたオランダ人医官ポンペから舎密学(化学)の指導を受けた彦馬は、写真術に並々ならぬ興味を覚え、やがて写真機の製作に取りかかり双眼鏡のレンズを利用した木製のカメラを完成させる。 
しかし、問題は感光材で、彦馬は独学で感光材の研究に挑戦し、アルコール、硫酸、アンモニア、青酸カリなど様々な化学薬品を苦労して調達したという。 
アンモニアを得るためには生肉が付着している一頭分の牛骨を土中に埋め、腐りはじめた頃に掘り返すという作業が必要で、あまりの臭気と彦馬の行動の不可解さから周囲の人から「彦馬は気が狂った」と噂され、あげくに長崎奉行所へ訴えられたこともあったのだとか。 
しかしそんな苦労を重ねた末、ほとんど独学で写真術を完成させたという。 
まぎれもなくマイペースな努力家だ。 
 
 
 
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  4.日本初の商業写真館・上野撮影局 
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文久2年(1862)暮れ。 
上野家の別荘であり、父俊之丞の化学の実験所でもあった中島川河畔に彦馬は日本最初の商業写真館・上野撮影局を開設した。 
横浜ではプロカメラマンの祖を下岡蓮杖(しもおかれんじょう)とするが、彦馬はフランス人写真家ロシエに師事したことからフランス系、蓮杖がアメリカ系の写真術をそれぞれ苦労の末取得し、ほぼ時を同じくしてプロカメラマンとなった。 
創業当時の撮影料は銀二分。 
決して安くはなかったが、通訳や商人たちが続々と訪れたという。 
軌道に乗った写真営業は前途洋々で、長崎県庁の役人の平均年収が120円程度という時代に、15000円の収入だったというから、それはそれは裕福な生活を送っていたと思われる。 
 
 
 
 
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  5.彦馬の活躍の場は日本だけにとどまることなく 
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彦馬は多くの門弟を受け入れ、その数は数百とも数千ともいわれている。 
しかも撮影局での活躍にとどまらず、彦馬は金星観測や西南戦争を撮影して名を馳せ、明治23(1890)にはウラジオストック、上海、香港に弟子を派遣して海外支店を開設していったという。 
 
 
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  6.晩年の彦馬 
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彦馬の長男、陽一郎は遊蕩の味を覚え、彦馬の心を悩ませたといわれている。 
親切な人間として人々に親しまれた彦馬だったが、陽一郎のことが原因か晩年は人間嫌いの傾向もあったようで、猫を可愛がり一時は猫小屋を作って44匹もの猫を飼っていたという。 
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