長崎における最初のキリスト教布教は、イエズス会を設立したフランシスコ・ザビエルが平戸に渡った天文19年(1550)にはじまり、長崎最初のトードス・オス・サントス教会を建てたルイス・デ・アルメイダ神父、島原・有馬にセミナリヨを設立したヴァリニャーノ神父などによってなされた。
その間、長崎には教会が一つ建ち二つ建ちする。
さらには大村純忠をはじめとしたキリシタン大名と呼ばれる大名が誕生。
そして天正10年(1582)、約30年間の日本におけるキリスト教布教の成果をヨーロッパに伝えるために、有馬セミナリヨの一期生である天正遣欧少年使節がキリシタン大名の使節としてヨーロッパへ派遣される。
ここまでが、日本史では織田信長までの時代。
そして歴史の時間で学んで知っての通り、豊臣秀吉がキリスト教禁教令を発布。
このことによって長崎のキリスト教の歴史は大きな局面を迎えることになる。
厳しいキリシタン迫害の時代がはじまるのだ。
まず起きたのは、慶長元年12月19日(1597年2月5日)、フランシスコ会修道士6人を含む26人のキリシタンが西坂の丘で処刑された二十六聖人殉教事件。
この事件は何故起きたのだろう?
それは、同年マニラからメキシコに向け出帆したスペインのガレオン船サン=フェリーペ号が暴風雨のため土佐浦戸に漂着し、秀吉が奉行増田長盛を派遣して積み荷を没収させたのだが、この折長盛はスペインがいかにしてフィリピンやメキシコを奪ったかについて航海士に訊問(じんもん)したところ「宣教師がまず布教して精神的征服をした後に軍隊でもって領土を征服した」と言う(サン=フェリーペ号事件)。
秀吉はこれに激怒し、フランシスコ会修道士とイエズス会の日本人イルマン(聖パウロ三木)らを捕らえたのだった。
彼らは片耳をそがれ、京都・大坂・堺の市中を大八車でひきまわされた後、陸路長崎に送られ西坂の丘で処刑された。
この事件は、日本における最初の大きな殉教事件であると共にその後に続く壮絶な迫害と殉教の歴史的幕開けでもあった。
その後もこの西坂一帯で550名あまりが殉教したと言われている。
キリシタンであることを明らかにするために使われたのが踏み絵。
キリシタンだと発覚すると、拷問が行なわれる。
この拷問によって転んだもの(改宗すると誓う)は再びキリシタンに立ち返らないと誓約した起請文を書かされたのだとか。
また、郡崩れや浦上四番崩れなど、キリシタンの大量検挙によって潜伏組織が崩壊に頻するという数々のキリシタン検挙事件もあった。
長崎では毎年正月3日に町年寄の家で踏み絵の式が行なわれ、翌4日から町ごとに実施。
最後の9日には丸山遊女達がきらびやかな衣装で踏み絵を踏むため、見物人が大勢つめかけたのだと言う。
慶長18年(1614)徳川家康はキリシタン禁教令を発布した。
これがキリシタン禁制と弾圧や過酷な迫害の根拠となった。
島原半島でも藩主松倉重政によりキリシタンに対する迫害が行われ、棄教しない者は火あぶり、水責め、逆さつり、果ては雲仙のたぎる熱湯に放り込んだいう。
現在この雲仙地獄には殉教の碑が建てられている。
長崎では教会が焼かれ、元和・寛永年間(1615〜44)に寺院30が建立されている。
寛永2年(1625)に創建された諏訪神社で行なわれる長崎の秋の大祭・長崎くんちも、キリシタンの勢力を抑えるためにはじまったと言われている。
豊臣秀吉とそれに続く徳川幕府のキリスト教禁教令、そしてついには1639年の鎖国令により、宣教師達は追放された。
幕府のキリシタンに対する迫害、拷問は続き、残酷さが増す中で、1640年から幕末まで、長崎県は浦上、外海、平戸、五島において実に250年もの長い間、表面は仏教徒を装いながら、しかし内にはキリストへの熱い信仰をもって、代々伝え聞いた信仰を守りとおしてきたカクレキリシタンと呼ばれる信者達がいたことが明らかになる。
カクレキリシタンは、代々マリア観音や納戸神などを崇拝し、隠れてオラショ(祈り)を捧げていた。
現在でも平戸生月などにその子孫が神仏混在した、他に例をみない宗教を伝承している。
安政の開国によって各国との通商条約が締結された。
日仏通商条約第四条には
「日本にある仏蘭西人、自国の宗旨を勝手に信仰致し、其の居留の場所へ宮社を勝手に建つるも妨げなし。日本に於いて踏み絵の仕来りはすでに廃せり」。
そこでパリ外国宣教会は日本で再び布教活動を行なうため、フランス人宣教師を派遣。
長崎にはフューレ、プチジャン神父が派遣され大浦天主堂創建が実現する。
設計はジラール、フューレ両神父、施工は熊本県天草出身の棟梁(とうりょう)、小山秀之進が請け負った。
1862年6月8日、教皇ピオ九世が西坂の殉教者26人を聖者の列に入れた。
それから3年後の元治2年(1865)、大浦天主堂が26人の殉教者に捧げられ建立されたのだ。
ジラール教区長により天主堂は「日本二十六聖殉教者天主堂」と命名、献堂される。
創建当時の大浦天主堂は、正面の基本的な形態はカトリック系諸国の植民地に見られる教会堂の典型的な様式であるイル・ジェス型。
それはルネッサンスの末期、ローマにあるイエズス会の総本山たるイル・ジェス教会の正面において確立した古典的な様式を模範とするもので、それにゴシック調が混在しているものだったという。
そして西坂の丘に向けて建てられたこの聖堂の呼びかけに応えるように、一ヶ月後の3月17日、浦上の数人の信徒がやって来た。
そして聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、つまり、私たちもあなたと同じ信仰をもっています、とささやいた後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねた。
そこで、プチジャン神父は大喜びで彼らをマリア像の前に導いたという。
その後、五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また、遠くは福岡県の今村からまでも、うわさを聞きつけたキリシタンたちが名乗りをあげにやってきたと言われている。
昭和8年1月23日、大浦天主堂が国宝に指定されてからは、国内外からの巡礼者、拝観者に1年中開放しているため、小教区聖堂としての機能が果たせなくなり、信徒さんの祈りの場として下段に大浦教会が建立された。
この大浦教会保護の聖人は、パウロ三木と共に大阪で捕らえられ、逃げる意志さえあれば逃げることができたにも関わらず、殉教者の列に進んで加わることを望んだ日本二十六聖人殉教者・聖ヨハネ五島。
西坂の丘の殉教者レリーフ、向かって右側から8番目にその姿を見ることができる。
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