●建立の本来の意味を知ると大きな感動が胸をよぎる
国宝・大浦天主堂の本来の価値はあまり知られていません。
大浦天主堂という名称は通称で、本来の名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」。
日本の長崎という地で26人が殉教したことは、ヨーロッパをはじめとした全世界でとても有名です。
幕末近くになって布教が再開され、文久元年(1862)、横浜の外国人居留地に開国後最初の教会堂・横浜天主堂(「聖心聖堂」)が建立されると、日本での再布教を念願していたローマ教皇庁は、聖地である長崎に26聖人に捧げる新しい聖堂を設立することを決意。
布教を再開し、できれば日本人信徒を再発見することを望みフューレ、プチジャンの両神父に入国を指令して大浦天主堂の建立が実現されました。
私が言う本来の価値とは、この大浦天主堂が1597年2月5日、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛された司祭、信徒らが処刑された殉教地である西坂の丘へ向かって建てられてた教会堂だということ。
そして、長い禁教の時代を経て潜伏していたキリシタンが名乗りをあげた世界宗教史の奇跡として知られる信徒発見の地であるということです。
この2点のことから、この天主堂そのものが、記念碑的価値を持っているんですね。
また、横浜天主堂が関東大震災で大破したため、もちろん、現存する最古の教会という価値も大きいです。
明治8年、12年に増改築を行ない、外部は拡大されましたが、内部は元治元年(1864)の創建時のものとほとんど変わっていません。
入口正面の扉は現在も残存していますし、左右の脇祭壇も変わっていないと思われます。
明治以前に建てられた建物として、非常に価値が高いもの、また完成度の高いものだと言えます。
●創建時の名残りを見つけて天主堂の細部に目を向けよう
現在の主祭壇にある「十字架のキリスト」像が描かれたステンドグラスの位置には、創建時フランスから寄贈されたオリジナルのステンドグラスがはめ込まれていました。
ということはここに窓があったということですね。
そうすると扉上の小窓は別にして、創建時の天主堂には側面に計24個の尖頭(せんとう)アーチ型の窓があり、正面玄関上のバラ窓とこの主祭壇の窓を加えて合計26個の窓があったことになるんです。
この26個の窓というのは、もしかすると26聖人の象徴ではなかったのでしょうか?
単なる偶然とは思えないし、26聖人に捧げる聖堂を建設するという最初の意志からすると考えられることですよね。
●ガウディのエッセンスが光る日本二十六聖人記念聖堂
殉教した26人が列聖、つまりキリストに続く偉い人として聖人となったのは1862年、殉教した1597年2月5日(慶長元年12月19日)から約250年後のことです。
殉教した司祭、信徒のことはヨーロッパで約250年間、大いなる奇跡としてヨーロッパで語り継がれていたんですね。
日本二十六聖人記念聖堂は、列聖100年を記念した昭和37年(1962)に記念館、記念レリーフと共に日本のカトリック系の方々が中心となって西坂の丘に建てられました。
設計したのは早稲田大学教授でもあった建築家の今井兼次氏。
彼は昭和の初め頃、スペインの有名な建築家・アントニオ・ガウディを日本に紹介した人物としても有名です。
当時はまだヨーロッパでもガウディの存在は知られていない時だったんですよ。
ガウディの作品にいたく感銘した今井氏は、この聖堂の双塔の形態、記念館両妻面の陶片モザイクの壁面装飾などに、ガウディのエッセンスを盛り込んでいる。
●「長崎の教会堂を世界遺産へ」歴史と建物の価値を只今PR中!
全国で100棟余りを数える戦前期までに建てられた教会堂のうち、広域に渡って点在してはいるものの、その約半分が長崎県内とその周辺に残存しています。
潜伏、カクレキリシタン、復活したカトリック信者と、長年における長崎のキリスト教の歴史から見ても、この信仰心は世界に通じるのではないのか? という思いがあります。
世界遺産への登録は、まず国内で認知してもらうのが第一歩です。
文化庁がユネスコに1候補ずつ推薦する暫定(ざんてい)5候補に入らないといけない訳ですからね。
現在その暫定5候補への候補が30〜40あると言われています。
私達はまず多くの人々に、長崎県及び深い関わりを持つ周辺に点在する教会堂の存在と価値を知ってもらうために、パンフレットを作成し各地でシンポジウムを展開しています。
長崎のキリスト教の歴史を物語るこれらの教会堂は県の財産であり国の財産。
今後きちんと保存していくためにもまずは県内で、次に国内で「この教会堂群を世界遺産へ」的ムードを高めていきたいものです。
|