英国、メリーポート生まれのウィルソンとロバート・ウォーカー兄弟は、若くして船乗りになった。 彼がはじめて極東の地を踏んだのは、英国の汽船「フィリピーノ号」の所有者がフィリピン在住のスペイン人に同船を売却しようとした時のこと。 しかし買い手がなかなか見つからず、乗組員は買い手を求めて中国の港を転々とした挙げ句、ついに明治元年(1868)3月長崎へ。 ウォーカーはここで下船。 「ナルト号」の船長として「グラバー商会」に雇われた。 翌年、同商会の石炭船を日本へ運ぶため英国に赴いたがグラバー商会が倒産し、計画中止となった。 その後、「ホーム・リンガー商会」のために建造された船の一等航海士の職を得て、明治4年(1871)に再び来崎。のち神戸に転じ、土佐藩所有の船の一等航海士として岩崎弥太郎に雇われた。 次いで岩崎弥太郎の「郵便汽船三菱会社」創立後は、上海と日本の各港間の航海開設に尽力。 取締役格の船長として数年間勤務した。 明治13年(1880)には横浜の外国人の中で実力者的存在だったオランダ人の実業家ノートフーク・ヘクトの娘と結婚。 横浜に新居を構え、息子1人と娘5人の子宝に恵まれている。 その後明治18年(1885)に「共同運輸会社」と合併し、「NYK(日本郵船会社)」を結成。 ウォーカーはこれを機に退職を決意。 同年、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー(「キリン麦酒株式会社」の前身)の筆頭株主となり、明治22年(1889)〜明治26年(1893)にかけて会社の支配人として活躍。 日本ビール業界を確立させていく上で重要な役割を演じた。 退職後、家族と共に余生を送るべく長崎へ。 が、その後独立し、瀬戸内海で水先案内人として働いていた。 その一方で南山手12番地の自宅隣にあった「クリフ・ハウス・ホテル」を購入。 また、弟ロバートと協力して日本最初の清涼飲料水の製造会社「バンザイ炭酸飲料社」を設立するなど長崎外国人居留地の実業界、社交界に於いて中心的人物として活躍した。 ウィルソン・ウォーカーは、大正3年(1914)11月4日、長い闘病生活の末、南山手の自宅で死去。 遺体は葬儀に参列したすべての子供たちに見守られる中、新坂本国際墓地に葬られた。
新坂本国際墓地に眠るウィルソン・ウォーカー
弟ロバート・ウォーカーの次男、ウィルソンにしてみれば甥にあたるロバート・ウォーカーJr.も車道を隔てた坂本国際墓地に眠る。 彼の死後旧ウォーカー邸は「グラバー園」に寄贈されたが、彼の子孫は南山手の自邸で現在も暮らしておられる。
ウィルソン・ウォーカー夫妻と娘たち。 日本人従業員、お手伝いさんたちもウォーカー邸にて