〜日本を動かした偉人〜●トーマス・ブレイク・グラバー/(1838〜1911)


トーマス・ブレイク・グラバーは、イギリス、スコットランドの出身。
沿岸警備隊に勤務する海軍大尉の父を持った彼は、安政6年(1859)9月、開港と同時に上海経由で長崎へ来航。
当時同じスコットランド人であるケネス・R・マッケンジー(大浦国際墓地参照)経営の貿易商社に勤務する。
当時グラバーは21歳だった。

文久元年(1861)、マッケンジーが中国へ去ると、その仕事を引き継ぐと同時に「グラバー商会」を旗揚げ。
そこで彼は日本人に銃や艦船や機械類を大量に販売。
茶、絹、銀、そして各地方の様々な特産品を輸出した。最初の5年間で莫大な利益をあげたという。
文久3年(1863)には南山手が外国人居留地となり、現在も日本最古の洋館として長崎港を見下ろす南山手の丘に建つグラバー邸をしつらえた。

彼は50年あまりを日本で過ごしているが、はじめの10年が貿易という経済的な面で、明治以降はいわば純経済人としての活動期に入り、それと共に彼は日本の近代科学技術の導入に貢献した。
例えば、慶応元年(1865)、大浦海岸に我が国初めての汽車を走らせる。
そして、慶応2年(1866)、小菅に「ソロバンドック」を建造して我が国の造船、修船事業に貢献。
さらに、明治元年(1868)、長崎港外「高島炭坑」(三池炭坑)に画期的な様式採炭法を取り入れ開発。
これらを含む様々な最新技術の導入に尽力したのがグラバーだった。

また「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(後の「キリン麦酒株式会社」)が横浜に設立される際も重要な斡旋をしているし、さらに東京では「鹿鳴館」の外国人名誉書記も務めていた。
明治30年(1897)、グラバーは日本人の妻ツルと共に東京へ転居。
そこで、三菱の顧問としての余生を送った。

明治41年(1908)には政府より勲二等旭日章を授与されている。
明治44年(1911)、東京の自宅で死去。
73歳でその生涯の幕を閉じた。
遺体は火葬に付され、埋葬のため長崎へ運ばれた。



日本政府から授与された勲章を胸にしたトーマス・B・グラバー



グラバーは、第二子、倉場富三郎夫妻とならんで眠っている



グラバーの墓碑と車道を隔てた坂本国際墓地に、若くして未亡人となったグラバーの妹マーサー・アン・ジョージ、ポルトガル領事などで活躍した弟のアルフレッド・グラバー、グラバーの長兄の一人息子、甥のトーマス・ベリー・グラバーの墓が並んで埋葬されている。
グラバーは兄弟縁者の存在を長年にわたって隠してきたのだろうか?
グラバーの弟妹たちが並んで眠っていることはあまり知られていない。



グラバー一家。
左から倉場富三郎、マーサ・ジョージ、アルフレッド・グラバー、ハナ・べネット(グラバーの娘)、トーマス・B・グラバー、倉場ワカ(富三郎の妻)