〜日本を動かした偉人〜●ギード・フルベッキ/(1830〜1898)


安政6年(1859)以降、アメリカにあるプロテスタント各派の教団本部からアジア方面に宣教師が派遣されて来た。
日本におけるプロテスタント伝来の最初の根拠地は長崎。
ギード・フルベッキは安政6年(1859)11月7日、3人目の宣教師として出島に上陸。
当時はまだキリシタン禁止の高札は撤去されていなかったので、キリスト教伝道は困難だったようだ。
フルベッキは他の宣教師と同様、崇福寺の末庵のひとつ、媽祖堂の上にあり仏殿と庫裏の二棟から成る広福庵に居住を許された。
彼は元来オランダ系のアメリカ人だったので、アメリカの教団本部が日本に宣教師を派遣するに際し、長崎とオランダとの長年の深厚を重視して特に彼が選ばれたのだ。
長崎滞在10年、公式に伝道が許されない洋学所(慶応元年、新町に移され済美館と改称)で英語の教師として教鞭をとった。
また自宅でも英語を教授し、大隈重信、岩倉具視、伊藤博文、副島種臣なども彼の教えを受けている。

慶応元年(1865)頃からフルベッキは崇福寺内の広福庵を出て、大徳寺の書院に転居。
そこで佐賀藩の村田若狭守政矩ら2人に洗礼を授けている。
長崎在任10年を経て明治2年(1869)3月20日、彼は明治政府の招きで上京し、開成所に入りその教頭として教育上の責任を担った。
開成所は現在の東京大学の前身にあたる。
その後フルベッキは明治政府の最高顧問となったが、官を辞してからは専ら聖書の翻訳と伝道に従事、明治31年(1898)に死去した。

新婚まもなく日本に訪れたフルベッキ。
翌年、長崎で第一子が誕生したがわずか7日で死去。悟真寺のオランダ人墓地に埋葬された。
その後、フルベッキと妻マリアは丈夫な7人の子どもに恵まれた。
二人は悟真寺に眠るいたいけな幼子にちなんで、そのうちの一人にエマと名づけた。



東京大学の基礎をつくった宣教師ギード・フルベッキとその妻マリア