●唐人屋敷跡(館内町)

電話095-829-1314(長崎市観光宣伝課)

●JR長崎駅からのアクセス
市電 / 長崎駅前から正覚寺下行きに乗車し、築町電停で下車、徒歩8分。
バス / バス停長崎駅前南口から長崎新地ターミナル行きに乗車し、
   長崎新地ターミナルで下車、徒歩8分。
車 / 長崎駅前から約6分。


●創建

寛永12年(1635)から中国と貿易ができるのは長崎港だけになった。
来航した唐人たちは、はじめ長崎市中に散宿していたが、密貿易が増加し問題となっていったため、幕府は鎖国後の出島と同じように、元禄2年(1689)、唐人たちを収容させる唐人屋敷を建設。
唐人屋敷は長崎奉行所の支配下に置かれ、町年寄以下の地役人が管理した。
輸入品の主なものは薬種、砂糖、織物、陶磁器。
持ってきた貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日まで唐人屋敷で生活していたといわれる。

天明4年(1784)の大火で関帝堂を残して全焼し構造もかなり変わったが、この大火の後、唐人は自前の建築を許されるようになった。
現在寺町・興福寺境内所在の国指定重要文化財の旧唐人屋敷門は、この大火後に建てられた住宅門と思われる。


寺町・興福寺境内所在
(国指定重要文化財)

鎖国時代、出島と共に海外交流の窓口として大きな役割を果たした唐人屋敷は、安政6年(1859)の開国後は廃屋となり、明治3年(1870)焼失、その後は市民に分譲された。
現在わずかに残る遺構としては、明治期に修復改装された土神、観音、天后の3堂の遺跡と、明治元年(1868)に福建省泉州出身者の手によって建てられた旧八門会所、明治30年(1897)に改装、改称された福建会館がある。



●土神堂(どじんどう)

元禄4年(1691)9月、土神の石殿を建立したいという唐船の船頭たちの願いが許され創立されたといわれる。
天明4年(1784)火事で焼失したが、唐三か寺により復旧される。
その後も数度にわたり華僑たちによって改修、保存に努めてきたが昭和25年(1950)に老朽解体され、石殿だけが残っていた。
現在の建物は昭和52年(1977)に長崎市が復元工事を行ったもの。



(市指定史跡)


●観音堂(かんのんどう)

瓢箪池の奥の石に「元文2年(1737)…」の刻字があるので、この年に建立されたと思われている。
天明4年(1784)に焼失し、天明7年(1787)に再建された。その後何度かの改修の後、大正6年(1917)当地在住の中国商人により改築された。
本堂には観世音菩薩と関帝が安置されている。
また、基壇には「合端合せ」の技法が見られ、沖縄的な要素もうかがえる。
入口のアーチ型の石門は唐人屋敷時代のものと言われている。



(市指定史跡)


●天后堂(てんこうどう)

元文元年(1736)に南京地方の人々が航海安全を祈願し、天后聖母を祀ったのが起源と言われている。寛政2年(1790)に重修。
『長崎名勝図絵』には、門外左右の旗竿に、天后聖母の字が書かれた紅旗をあげ、風に翻っている姿が描かれている。
現在の建物は、明治39年(1906)全国の華僑の寄付で建てられたもの。
天后堂は関帝(三国志の関羽)も併祀しており、別名関帝堂とも呼ばれる。



(市指定史跡)


●福建会館(ふっけんかいかん)

明治元年(1868)福建省泉州出身者により八門会所が創設。
その後、明治30年(1897)に建物を全面的に改築し、福建会館と改称される。
会館本館の建物は原爆により倒壊したため、正門と天后堂のみが現存している。

正門は三間三戸の薬医門形式で、中国風の要素も若干含んでいるが、組物の形式や軒反りの様子、絵様の細部など、主要部は和様の造りとなっている。
これに対して外壁煉瓦造の天后堂は架構法なども純正な中国式を基調とし、一部木鼻や欄間は和様となっている。
このように様式的には和・中の併存で、日中の交流の歴史が凝縮された建造物と言える。



(市指定史跡)



●取材メモ1 出島の3倍の広さだった?唐人屋敷

唐人屋敷の範囲は現在の館内町のほぼ全域。総面積約9400坪で、驚くべきことに出島の約3倍もの広さだったとか。
内部には木造2階建ての長屋が約20棟立ち並び、一度に2000人前後を収容できた。
創建当時の唐船の入港数は1年に約70隻、一隻の乗組人数は80人程度だったので、来航者は年間6300人位はあったのではないかと言われている。
商売販売期の3、4ヶ月間滞在する唐人たち。
日本人で唐人屋敷に出入りを許されていたのは遊女と托鉢僧だけだったらしいが、彼らの唐寺や茶屋への外出はかなり自由だったため、長崎人と交流する機会は多かったとか。



●取材メモ2 福建会館に建立された孫文の碑

孫中山、別名・孫文は、清朝を倒し、中華民国を樹立した人物として近代史上余りにも有名な人物。
孫文は明治30年(1897)に来崎したのを皮切りに9回も長崎を訪れているとか。
辛亥革命90周年を迎えた平成13年(2001)11月、日中友好のシンボルとして上海市から長崎県民に孫中山銅像が贈られ、館内町にあるゆかりの地、長崎福建会館内に建立された。




●取材メモ3 唐人屋敷での行事が影響して生まれた長崎のまつり

唐人屋敷内には屋敷内で死亡した唐人の位碑を収める幽霊堂というお堂があったとか。
この幽霊堂では、人が死ぬごとにコトコトと履音をたてて幽霊が出ていたらしく、あまりにその亡霊が騒がしいというので年に一度この亡霊を故国に還すことと、海難を免れた感謝の意味で「彩舟流し」という行事があったという。
この唐人たちの行事が、現在の長崎の盆まつり「精霊流し」に影響を与えていることはいうまでもない。
この他にも、5月のペーロン、龍踊り(じゃおどり)などの今も伝承される長崎のまつりは、唐人屋敷の唐人たちが長崎の人々に運んできた「文化」という偉大な輸入品だったようだ。



●取材メモ4 これがジャンケンのルーツ!?

「ジャンケンポン」は地域で多少の変化はあるが、全国共通の古くからの遊び。
このジャンケンのルーツ、実は「様拳元宝(ヤン・ケン・エンパウ)」という拳の用語のなまりからきているという。
唐人の宴席にはつきもので、酒をすすめ、手厚くもてなすためのものだったらしく、唐人と丸山遊女らの拳戯の図も多く描かれているとか。